生野先生が新しい検証内容について紹介された勉強会の概要をまとめるときは、毎回悪戦苦闘します。
勉強会で先生の話を聞いている時は、「なるほどなるほど、フムフム・・・」なんて、わかった気分になっているのですが、いざ、こうしてブログを書こうとすると文章がまとまらず、理解できていないことを痛感するばかり
と、泣き言はやめて、8月勉強会の概要④です。
◆旁国21か国最後の「奴国」
最後の記載されている「奴国」とは、「出雲国+石見国」(現島根県) に在ったと確信している。
上図のように、糸島平野の「大己貴命」と福岡平野の「少名彦那神」の二人の奴国王は、倭国大乱(鏡祭祀と鐸祭祀の宗教戦争)で出雲方面に追放されたか、または逃避し、オオナとスクナで新たな国造り(銅鐸祭祀圏の再構築)を始めた。
その後、卑弥呼によって征伐されるが、その当時(魏使が倭国を訪問した時点)ではまだこの地域は「一つの奴国」だったと推察される。
なぜなら、「魏志倭人伝」に記載された21国の中に「いずも」や「いわみ」と訓める国が見当たらない!おそらく、「出雲」、「岩見」は、後の神武による全国平定以降の新たな国割理の中で、オオナの奴国が「出雲」、スクナの奴国が「石見」とされたのではないか?
※明治維新後の廃藩置県の時、紆余曲折はあったが、結局、出雲国と石見国を併せて「島根県」になった。
※「出雲国」という名前は「日出る国」の美称に対して旧奴国王家に対する蔑称として付けられた・・・ブログの過去記事を参照してください!
最後の記載された「奴国㉑」が、「出雲+石見」であれば、一つ前の「烏奴国(あな)⑳」は穴門(後の長門国)であり、二つ前の「支惟国⑲(きく)」は、北九州の企救半島一帯と、考えられる!
◆21か国記載の順番(ルート)
<記載順として考えられる例>
①ルール無し!(魏使に問われるまま倭人が思いつくまま返事)
②邪馬台国と距離的に近い国から順番
③国の大きい順また、小さい順
④西から東の方向順
⑤スタート地点とゴール地点ほぼ同じ!(マラソンの1週ルート)
他にも、いろいろ考えられるが、現時点で一番可能性があるのは⑤のマラソン1周ルートと思われる。
つまり、最初に書かれた「斯馬国」は、最後に書かれた「奴国」の近くに在り、そこからスタートしていったん九州の西の端に来て、またそこから陸上の国々を順に辿って東に向かい、最後に企救半島から関門海峡を渡って日本海沿岸の長門国から隣の奴国に戻って来た!
遠絶にして詳らかに出来ない21か国のトップバッターである「斯馬国」は本当に遠絶なところに在ったのではないだろうか?
◆「斯馬国」に関する考察
倭国大乱前(ヤマトが糸島平野に進出する前)には、奴国系斯馬国は、「伊都国と邪馬台国」の関係と同じように、奴国とかなり密接な関係で、奴国王家が糸島を追われた時、一緒に出雲地方に逃れたのかもしれない。 そのため、糸島半島から「斯馬国」の名前は消えたが、斯馬郷(志摩郷)という郷名が残された可能性がある。伊都県が怡土郡と志摩郡に分かれる際、その志摩の名前は、元々糸島半島にその名前が在ったからではないだろうか?
「和名抄」には、志摩郡の中に志摩郷の名が記されている。
勉強会では、このあとより詳細な「斯馬国・奴国」の関係性と「伊都国・邪馬台国」の関係と関連付けながら説明がありました。
特に「魏志倭人伝」に記載されている伊都国の大官「泄謨觚(しまこ)」、と奴国の大官「兕馬觚(しまこ)」のは、ひょっとして福岡平野の旧奴国は、卑弥呼の時代にも国名と共に官名もそのまま残されたことを示してるのではないかと・・・・
現時点では、生野先生の新しい仮説なので今後、検証を重ねながら仮説の傍証を発見していくそうですが、「斯馬国」については「隠岐」もその候補地として検証中とのこと・・・