物部氏の謎:平成30年12月勉強会① | 生野眞好の日本古代史研究会記録

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在野の古代史研究家 生野眞好(しょうのまさよし)先生の勉強会や月刊誌フォーネットに連載中の記事の概要などを紹介しています。
「魏志倭人伝」や「記紀」などの文献史料を中心に邪馬台国の位置、ヤマト王朝と先興の奴国王家との攻防(宗教対立)と共存などの検証です。

 12月勉強会の概要です!
 前回(10月勉強会)から新しいテーマ「物部氏の謎」について、生野先生の考察内容が紹介されていますが、かなり難解えーんダウン

 何が難解かと言えば、まず第1に、
「記紀」をはじめとする史料に登場する人物名の漢字表記が違っていること!例えば、発音としては同じ「やまと」であっても、古事記では「倭」、日本紀では「日本」、また「大和」と表記している場合もある。
 難解な理由の第2には、
漢風諡号(これは漢字2文字だし、神武とか天智、持統など耳慣れているけど・・)のほか、和風諡号や本名にあたる「諱(いみな)」があって、その漢字表記がチョー厄介ダウンダウン
 理由の第3は、
「古事記」が示す「天皇家の系譜」と、「日本紀」の記載事項が微妙に違うこと。特に「神話時代」と言われる天孫降臨前後のエピソードや登場人物の名前の複雑さ・・・・・。


 ただ、私にとっての難解さこそ、生野先生にとっては「記紀」の謎を解く「鍵」、つまり「記紀」をはじめとする史料の編者たちからのヒント(プレゼント秘密プレゼント)のようですグッド!
 と、まぁ前置きというか泣き言が長くなりましたが・・・

<今月の概要>
 恒例の邪馬台国=糸島説の基礎となる「三国志 魏志倭人伝」の国境記述法の説明と、「日本紀」の設計図・・・・特に今月は、「物部氏」の謎を解く一つの傍証になるため、ダミー天皇の「第7代孝霊、8代孝元、9代開化」についても説明がありました。

◆「日本根子(やまとねこ)」について
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※画像を変更してみました。少しはましになったでしょうか・・・・笑い泣き
 
 生野先生が言われるダミーの天皇11人のうち安寧から景行までにわざわざ諱が記載されている!
 ただし13代成務はダミーではあるけど景行の実子でありその「父子関係」が事実として諱を記載していないのかも・・・(生野先生)

 この「やまとねこ」(漢字表記は「記紀」で異なる)という和風諡号には、神武東遷直後の大和王朝の実体(ヤマトが主)と、「記紀」が編纂される8世紀頃の奴国王家との混血が進みまさにヤマトと奴国が一体化した状況が示唆されているのではないか!
 
◆「御名代(みなしろ)」と「部曲(かきべ)」
 元々、「物部」とは、「物」一族で奴国王家そのもの、もしくはその直系であり、奴国王家の本姓(ほんせい)は「大物」で、その部民は「御名代(子代)」として「物部」がおかれていたのではないか?
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 同じ部民でも「物部氏」が皇族(王族)直属の部民「御名代」であったのに対して、伴部や久米部などは、旧ヤマト王家から臣籍降下した大伴氏や久米氏らの部民「部曲」だったと考えられる。

◆卑弥呼以前から「部」はあったのか?
 瀚苑(太宰府天満宮所蔵、国宝。660年唐の張楚金撰)の中の「倭国伝」に、「分職命官統女王而列部(職を分け、管を命じ、女王統べるに「部」を列せしむ)。
 という、記載がある。この本文の直後に「魏略」などを引いて「邪馬台国までの行路記事」を注引していることから、ここに書かれた「女王」とは、卑弥呼や臺与の事と考えられる。
 とすれば、卑弥呼や臺与が統治した倭国30か国には既に「部」があった可能性が出てくる。
 卑弥呼・臺与の時代の倭国は、魏志倭人伝に確固たる政治基盤と組織(大官や副官)としての上下関係が明確になっていたことを示唆する記事もあり、身分制度を伴った国家体制だったと考えらえる。


◆「皇別・神別・諸蕃」について・・・「新撰姓氏録」
 「新撰姓氏録」
 ①嵯峨天皇弘仁6年(815年)成立(但し、「序」と「目次(概略記載)しか現存していない)
 ②京(左京・右京)と、畿内5か国(大和・河内・和泉・摂津・山城)の氏族の出自を記載している。
 ③全部で1182氏が記載されているが、本書の「序」によれば過半は不記載となっている※ほんとはもっと氏族は多かったってこと?
 ④分類(内訳)は「皇別(335氏)・神別(404)氏・諸蕃(326氏)」と、「未定雑姓(117氏)」
 ⑤皇別とは、皇族系氏族(臣籍降下した皇族の分流・庶流氏族。男子血統で継承)
   神別とは、天孫(降臨)系氏族(天地地祇の子孫)
   諸蕃とは、渡来系氏族

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 上の表は「新撰姓氏録」から「物部氏」関連のみを抜粋分類したものだが、「皇別」・「神別」に分けると、「皇別の物部」がヤマトの王族でダミー天皇の一人第六代考安の実兄「天帯彦国押人命」を始祖としているのに、「神別の物部」が、「奴国王家の饒速日命(大物主)」を始祖としている!
 ヤマト王家を象徴する名称は「日本(倭)どちらもヤマト」と、「足(帯)たらし」であり、奴国王家の象徴的名称は、「根子(尼子)ねこ」と「耳」と考えてきたが、その観点から考安兄弟の諡を見ると「天帯彦(兄)」と「日本足(やまとたらし)(弟の考安天皇」となっているので、弟の考安がダミーの天皇として「記紀」の系譜に使われたにせよ、神武の御世にヤマト王族であったことは間違いと思われる。
 ※ヤマトを宗家とする「物部」が存在したことの傍証か?つまり、物部は神武東征以前から、鐸の奴国ではなく、鏡のヤマトを宗家とする一派がいたことを示している!

 従来、「皇別・神別」は、「ヤマト王家の氏族」の分類と考えられてきたが、今後はそれに加えて「奴国の王族と氏族」の分類も含まれているという視点が必要になるかも・・・!

あぁ、脱力アセアセ・・・続きは後日!