ひでです。お早うございます。盛岡城は6月15日に行ったお城です。
(ここはじょうあと公園なんです。しろあとでもなければじょうしでもなく、音訓読みなんです?)
場所:岩手県
城主:南部氏
石高:10万石
別称:不来方城
来歴:南朝方に属する清和源氏の流れをくむ、甲斐国巨摩郡の地頭職の南部師行は、陸奥国司の北畠顕家のしたがって陸奥の国に行ったのが南部家の始まりと言われています。(諸説あります)
南部氏は、後に盛岡藩になる三戸南部氏、八戸南部氏(根城南部氏)、一戸氏、七戸氏、九戸氏など、多くの家系に分かれて行きますが、師行は初めて東北に来た南部氏として、本当は根城南部氏が本家なんです。
ですが、南部氏は色々勢力争いの末、いち早く中央に目を向け、秀吉に臣従し、小田原に駆け付けるなど、三戸南部氏が南部氏の本家として認められました。
三戸南部氏の家督相続に反対し兵をあげた九戸氏を、奥州仕置・惣無事令に違反するとして、秀吉の軍勢をもって平定しました。
乱を平定し、居城を三戸から九戸に、それから不来方(盛岡)に移すことに決め築城を開始しました。
(北上川と中津川に挟まれ守るには良い所なんですが、築城には洪水などに悩まされて40年も費やしました)
関が原の戦いでは東軍に属し所領を安堵された南部氏は、約40年かけて盛岡城を完成させ、不来方を「盛り上がり栄える丘のようになるように」と、盛岡城と言う名にしました。
明治維新では奥羽列藩同盟に参加するも、形勢不利で新政府軍に降伏しました。
盛岡城は、当初は残るはずでしたが、建物の老朽化が凄くて廃城となり、建造物は全て壊され、民間に払い下げられた結果、今は石垣しか残っていません。
(堀の道に車を止める所があったので)
(烏帽子岩を見ながら)
(櫻山神社の横から登城します)
(井戸跡の石垣を右に見ながら)
(台所屋敷跡へ向かいます)
(淡路丸を右に折れて)
(本丸へ向かいます)
(南部中尉の銅像の台座です。戦時中金属の供出でなくなりました)
(天守台はもともとなく、三重の櫓があったようです)
(橋を渡って二ノ丸に降りて帰ります)
(本丸のほうに向かってパチリ)
(三ノ丸を通って)
(櫻山神社に出ました)
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