ひでです。お早うございます。ここは、11月9日行った所です。ここへ行くまで南部家と言えば南部晴政(信長の野望に出てる人)や信直、利直を始めとした三戸南部氏を指すものとばかり思っていました。まったく違っていたんです。

場所:青森

城主:築城者=南部師行

石高:

別称:

来歴: 南朝方に属する公家武将の北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王(後の御村上天皇)を奉じて陸奥国に下向しました。この時、清和源氏の流れをくむ、甲斐国巨摩郡の地頭職の南部師行も従って行き、国司代として北朝方と対峙していました。一説には頼朝の最初の妻の八重姫が再嫁して産んだ子だとか。

南部氏は、後に盛岡藩になる三戸南部氏、八戸南部氏(根城南部氏)、一戸氏、七戸氏、九戸氏など、多くの家系に分かれて行きますが、師行は初めて東北に来た南部氏として、本当は根城南部氏が本家なんです。

初めて東北に来た師行は、糠部郡八森に城を構えました。師行はここを、南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けたといわれています。師行は色々な合戦などで戦功を立て津軽地方にも勢力を伸ばしました。

後に南部師行は、北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征しました。連戦連勝の師行でしたが、和泉国石津の地で北朝方の高師直との戦いで顕家と共に戦死しました。

師行の死後、弟の政長が跡を継ぎました。政長は室町幕府からの再三の降伏勧告を受けましたが従わず、南朝への忠誠を守り続けました。しかし、南朝方が次第に劣勢になって行くと、奥州北部の南部氏の勢力も次第に弱体化していきました。

南北朝の合体によって朝廷が統一され、南部氏の方も甲斐より南部政光が根城に入り八戸南部氏の再興に努め、後に下北地方を領すなど、徐々に勢力を盛り返し、大きな勢力となって行きました。

南部氏の宗家の根城南部氏の当主である南部信長が上洛して室町幕府の第13代将軍足利義輝に拝謁したという記録も存在しているようです。その時までは八戸(根城)南部氏が宗家として認められていたんですね。

しかし、戦国時代になると、同族間のいざこざを制した三戸南部氏が優位となり、小田原征伐の際に三戸城主南部信直が宗家を差し置いて、南部氏の首領として豊臣秀吉の元に拝謁して所領の南部7郡を安堵されました。この際に、根城南部氏(八戸氏)も三戸南部氏の支配下に組み込まれたと言われています。

豊臣秀吉により、三戸南部氏当主である南部信直が南部を代表する大名と認められましたので、三戸南部氏は今までの同族連合を否定し、八戸南部氏のような有力一族も家臣として三戸南部氏への服属を求めました。

南部一族の有力勢力のうち、八戸政栄は根城南部氏が三戸南部氏の家臣となる事ことを認めましたが、九戸政実は逆に反発して三戸南部氏側と激しく対立します。三戸南部氏が秀吉に援軍を求め、結果、九戸政実は反逆者として討伐され九戸氏は滅ぼされ、南部氏は三戸南部氏に収れんされました。

ここに、三日月がま~るくなるまで南部領とまで言われた広大な南部藩が誕生します。

それでは、ボランティアガイドさんに案内をお願いしましょう。

それでは、本丸(黄丸)を目指し、赤の矢印を行きましょう。

空堀を渡り曲輪の中を通ります。

本丸の前に着きました。

橋を渡って

橋の下は空堀になっています。

本丸の中はこうなっています。

先ずは復元された主殿へ

安土桃山時代の南部氏の正月の模様です。根城の主が酒をふるまっていますが、宗家と言った雰囲気では有りません。宗家なら真ん中に座っているはずです。いつ何時、主が変わっても不思議じゃない配列ですね?

主殿を出て奥御殿跡を見ながら帰りましょう。

城跡を見てもいいんですが、その中に有る人間模様が面白いんですよね~。

 

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