ひでです。お早うございます。春日山城は5月11日に行ったお城です。
場所:新潟県
城主:上杉氏→長尾氏(上杉氏の養子となり上杉を名乗る)→掘氏
石高:景勝の時代90万石
別称:蜂ヶ峰城
来歴:戦国大名の上杉氏は元は長尾氏と言います。先ずは上杉氏の話から。
守護大名の上杉氏(以前行った上杉の庄の記事です)ですが、室町幕府を開いた足利尊氏の生母が上杉清子で、上杉氏は生母の実家として幕府内で特に重用されました。
上野・越後・武蔵・相模の4か国の守護を占めると、関東管領となり、足利氏の姻戚として勢力を伸ばしました。関東管領の職を世襲し、有力守護大名として君臨した上杉氏でしたが、後年関東に拠点のあった山内上杉家と、鎌倉に居住した扇谷上杉家が、関東の覇権をかけて内紛を起こし徐々に衰退していきました。
戦国時代には関東における覇権を狙う北条氏に押され、山内上杉家の15代当主上杉憲政は、越後の守護代だった長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉家の家督を譲りました。景虎は山内上杉家の家督を継いで上杉政虎(輝虎・のちの謙信)と名乗り、関東管領に就任しました。
関東管領職は代々上杉氏に任じられてきた役職でした。ですが、長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏だったので、将軍・足利義輝から直々に就任の許可を貰いました。
さて、生涯に70以上の合戦を闘い、ほとんど負けることがなかった謙信を恐れ、誰も春日山城を攻めようとする命知らずはおらず、謙信は関東管領として関東へ出張って、武田信玄や北条氏康と戦いを繰り返しました。
もし、関東管領になんてならなかったら謙信は上洛1番乗りを果していたんじゃないでしょうか?
なお春日山城は、春日山から延びる稜線上約5〜6kmにも及ぶに砦が列をなして並び、この砦群も広く言えば春日山城を構成しているといえます。春日山城本体も大きな城ですが、これらの砦群を包括した広義の春日山城は広大な城でした。
(ものがたり館も本丸からこんなに離れているのに)
(砦があったりして、ここも広義でいえば城になります)
(今いるものがたり館は右下なんで、春日山城がどれだけ広大か分かるでしょ?)
ですが、そんな謙信が春日山城で急死してしまいます。謙信には妻はおらず、子供は姉の子で養子の景勝、北条氏から同盟の証として養子に迎えていた景虎がいました。
景勝は一族として、景虎は謙信の若い頃の名前を授けられるくらい気に入られていて、2人とも春日山城の本丸に屋敷を貰って住んでいました。
謙信死すの報に2人は色めき立ちました。謙信は跡目を決めずに亡くなったのです。
景虎側は機先を制し、腹心の直江兼続に命じ、本丸の金蔵を抑え、謙信の後継者であることを内外に示しました。景勝に攻められることを危惧した景虎は、身の回りの人とともに春日山城を脱出して、向かったのは前関東管領上杉憲政の住む隠居所で御館でした。なので、この内紛を御館(おたての乱)と言います。
(春日山城とついでに御館跡も行きました。結構離れています)
しかし、御館はあくまでも守護館でしたので要害としては春日山の比ではありませんでしたが、上杉憲正や重臣が集まり、上杉氏を二分した戦いになってしまいました。
(今では住宅地の中の小さな公園になっています)
(ここで血を血で洗う戦いが行われていたなんて)
(兵どもが夢の跡です)
しかし、金蔵を抑えていた景勝軍が徐々に優勢になり、最後には御館に総攻撃を加えました。景虎は御館から脱出し、実家の北条氏と連携し、逆襲に転じようと関東を目指しますが、味方だと信じた鮫ヶ尾城まで来たところで、景勝に内応(裏切り)していた城主の堀江宗近に攻められ、自刃して果てました。これで御館の乱は景勝の勝利で終わりました。
しかし、越後の国はこの内紛で疲弊していました。その時、織田軍が5万人の兵で、上杉氏を攻めるため北上し、越中国をほぼ制圧していました。
景勝は窮地に立たされます。もはやこれまでと玉砕覚悟で信長との決戦を決意していましたが、本能寺の変が勃発し、上杉氏は滅亡を免れました。本能寺の変はここまで影響を及ぼしていたんですね。
(春日山神社のそばに車を止めて(赤丸))
(えっちらおっちら上がります)
(謙信像に一礼して)
(矢印のところに本丸があります。昔来たときは沢山歩いて大変な所だと思いましたが、本丸まですぐそこだったんですね。道が整備されたのかな?)
(青い線が空堀ですね。凄い)
(左へ行くと稜線に柿崎景家の屋敷があるようですが右に折れて本丸へ)
(甘粕近江の守景持の屋敷跡を抜けて)
(三の丸の奥は御館の乱の一方、三郎景虎の屋敷でした)
(右側には米蔵があり)
(分かりにくいですが、土塁もあります)
(青苧もあるとなっていましたが、どれがそうだか分かりません。草で一杯です。笑)
(二の丸へ出ました。)
(ここは台所と書いてあるとおり、水の手がありました。)
(ここを上れば本丸ですが、右にそれて)
(護摩堂・毘沙門堂へ)
(一説によると、謙信の死因は脳出血だと言われています。大酒呑みで、戦いの前になると毘沙門堂にこもって一心不乱に祈田と言われています。一心不乱て、私でも脳出血になります。笑)
(本丸に来ました)
(本丸からの眺めです)
(天守台跡です。でも春日山城の時代は土塁に物見やぐら程度だと思います)
(真ん中にさっきの謙信像があります。そこまで下りましょう)
昔は木なんか生えていなかったと思われ、壮大な春日山城を見たかったな~。
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