週刊 姫路モノレール -321ページ目

延長計画は本当にあったのか?


どうもです。


今回は月1企画の 「あまり知られていない事」 シリーズとを統合して

姫路モノレールの (仮?) コース散策の最終章です。


第1章、第2章を先に見たい方はこちらへ →  「第1章」  「第2章」


まず最初に今回の本編を書く前に注意書きしておきます。


注): 今から書く今回のブログは想像と適当が多く含まれております。



第1章 で 「高尾アパート」 から北方、第2章 で国道2号線を西方へ

(仮?) コースを辿ってきました。

最後にその計画が本当にあったのか?を、自分のいつもの適当さで

勝手に検証してみます。


下記のビルの表示は 第2章 と同じモノです。


第2章 の表示より

姫路側 (東側) から1つ目のビルが 「船場東ビル」 (これより①ビル)

2つ目のビルが 「船場西ビル」 (②ビル)、次 「元町東ビル」 (③ビル)

4つ目が 「元町西ビル」 (④ビル)、5つ目が 「日新ビル」 (⑤ビル)

「船丘ビル」 (⑥ビル) 、 最後に 「琴岡ビル」 (⑦ビル) と続きます。


まずはこの7連のビルの建設時期を写真と共に見ていきます。


てなわけで今日の写真は

撮影日は 2010年 10月17日。


各ビルの外壁に着けられていて、建設時期の大体の目安ともいえる

「定礎盤」 の写真を古いモノから年数と共に順に貼ります。

各 「定礎盤」 の建設時期を見ていくと、延長計画があったかどうかは

自然と答えが出てくるように思います。


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「琴岡ビル」 (⑦ビル) 1965年 11月

通常のよくある 「定礎盤」 とは違って建設当時の姫路市長であった

「石見 元秀 氏」 の誓いの言葉? のような文が刻まれています。


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「船丘ビル」 (⑥ビル) 1966年 12月

上の⑦ビルの 「定礎盤」 と同じように誓いの言葉入りの 「定礎盤」 。


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「日新ビル」 (⑤ビル) 1968年 3月31日。


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「元町西ビル」 (④ビル) ⑤ビルと同じ、1968年 3月31日。

2枚の 「定礎盤」 からわかるように、④ビルと⑤ビルはほぼ同時期に

建てられたと思われます。


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「元町東ビル」 (③ビル) 1969年 6月。


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「船場西ビル」 (②ビル) 1970年 12月。


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「船場東ビル」 (①ビル) 1972年 4月。


各 「定礎盤」 を見てもらえればわかるように最も 「名古山」 側にある

⑦ビルが古くて1965年、①ビルが新しくて1972年です。

姫路モノレールの建造計画が起ったのは、おそらく1963年頃なので

⑦ビルの計画、建設とも時期的にだいたい一致してくると思います。


ただ今回書いています 「姫路モノレール延長計画」 の中での噂では

「高尾アパート」 のように建物の中にモノレールを走らせたのでは?

とありますし、それだと③~⑦ビルの形状と構造が 「高尾アパート」

とは異なって、あまりにも建物が小さくて貧弱過ぎる造りに見えます。


①ビルと②ビルは建物自体も大きく、形状も 「高尾アパート」 と少し

似ており、1階から3階駐車場までが前に出た形状になっています。

ただ「高尾アパート」 に似ているのは形状だけで、モノレールが中を

通っていないので、設計や基礎、造りが全く異なっているはずです。


ある時


この2つのビルだけを見た姫路モノレールに強く興味を持つ人たちが

「実はこの3階はモノレールが走る予定だったらしい。」 と、何気なく

話した事が勝手に広まり、いつしか都市伝説のように語り継がれて

当時具体的な計画になってもいなかった 「モノレール延長計画」 の

噂元になったのでは? と自分は勝手に思っています。


さらに


夢を壊した後に続けて書くもの何ですが、7連のビルを建設したのは

姫路市であり、特に⑦ビルの建設時期はモノレールの開業時より古く

各ビルの 「定礎盤」 の文中にあるように 「船場地区市街地改造計画」

によって建設されたビル連です。


なので


このコースに⑦ビルの計画が立てられた時点で、このコースを使った

モノレールの延長計画がボツになっていたのでは? と考えられます。

言い換えれば姫路モノレールを建造し始めた時には既に延長計画が

(ボツになって) なかった、即ち延長計画はなかったという事です。

逆に①ビル、②ビルが⑦ビルより先に建てられていたとしたら、少しは

延長計画に現実味があったかもしれません。


そして


①ビル②ビルの3階部の駐車場は 「これからは一家に車1台の時代」

いわゆる当時の 「モータリゼーション」 といった時代の流れにのって

計画、建設されたと聞いた事があります。

しかしながら姫路モノレールが計画された頃の市長の目的の一つに

「市民はモノレールに乗って車、渋滞を減らそう。」 とした動きがあって

数年でこの目標の変わり様ではモノレール計画が順調にいくはずなく

姫路モノレールの廃止はなって当然だったのかもしれません。


もひとつ


開業以来赤字が続いた姫路モノレールは、当然延長もされる事なしに

たった8年という短い期間のうちに営業を終える事になりました。

初期のモノレール建造計画時には延長計画もあったかもしれませんし

それがどこまで現実的な計画だったかは知りません。


でもそれは


「宝くじで3億円当たったらでっかい家建てて、フェラーリを買うぞ!」


と同レベルの単なる妄想に過ぎなかったのではないでしょうか?


ただ 「定礎盤」 を見る限り、各ビルの建設時期に7年差はありますが

その時代にあの土地一帯と姫路市とが関わっていたのは事実であり

急に浮上した姫路モノレール計画が仮により煮詰まって見通し有りの

計画になってたとしたらどうだったか?


もしかすれば7つのビル連がある場所にはモノレールの軌道が造られ

現在も姫路モノレールが走っていたのかもしれませんし、現在のように

ビルが建っていたとしても、単線のモノレール線なら比較的狭い幅でも

造れそうなので、ビル連の前を走っていた可能性もあったかもです。


すでになくなっている 「ロッキード社製」 システムを使用し続けるには

車輌の代替、メンテナンス等の難題、不可能も多いと思われますので

ゼロに限りなく近い可能性でしょうけれど。



注): これから書く事はさらに全くのでたらめであり、創作笑い話です。


昭和30年代の終盤、同41年に開かれる姫路市大博覧会に合わせて

急遽、姫路市に姫路モノレールの建造計画の話が持ち上がった。

当時のモノレールは 「近未来的な乗り物」 というイメージが人々にあり

発展途上の真っ只中にあった日本の各地で建造計画が進行していた。

お城しか観光名所がなかった姫路市は 「我らが街にもモノレールを。」

と、将来の見通しの立たないままに建造計画をゴリ押しで進めていく。


「姫路モノレール建造計画」 ある日の会議中での会話


Aさん

「モノレールのコースは姫路駅前から出発するとして問題は行き先。」


Bさん

「姫路城までがまず確実なコースなのかも、しかしそれだと姫路城へ

歩いて行く人が減って、道中にある商店街が廃れるかもしれない。」


Cさん

「市民の反対意見も出るだろうから、やはりコースは手柄山へか?」


Aさん、Bさん、Cさんたち

「数年後に手柄山で大博覧会もあるし、そのコースが無難だろう。」


同日場所は変わってどこかの居酒屋での酔った同メンバーらの会話


Aさん

「さっきのモノレールの計画の話、どうせなら手柄山なんて言わずに

もっと伸ばして南は飾磨港、西は博覧会別会場の名古山はどうよ?」


Bさん

「そらええなぁ、西は名古山までなんてセコイ事言わんと赤穂とか…

いや、もっと西に行って岡山、意表をついて鳥取ぃ~、我が故郷~。」


Cさん

「ハッハッハッ、そんなアホみたいな計画、実現する訳ないやろな。」


Aさん、Bさん、Cさんたち

「まぁ、言うだけはただやし、頭の中やったらやりたい放題できるで。」


昭和30年代の終盤

姫路のある居酒屋でこんな馬鹿話をしていた人たちがいた、らしい…。

もしくはその話をたまたま居合わせた人が聞いて噂が広まったとか?

これがあの 「姫路モノレール鳥取延長計画」 の真相…なわけがない。



次回の 月間 姫路モノレール 「あまり知られていない事」 シリーズ は

「ホントカホント?」 を予定しています。


それではまた。