榊原忠次の墓  

テーマ:

 

榊原忠次廟所門

榊原忠次廟所門案内板

※国指定重要文化財随願寺榊原忠次公廟所門・・・榊原忠次は、徳川四天王榊原康政の孫になります真顔

 

榊原忠次の廟所は寛文5年(1665)、次男で姫路藩2代藩主榊原政房によって造営されましたデレデレ

 

廟所唐門は享保16年(1731)、忠次の曾孫にあたる姫路藩(再封)初代藩主榊原政邦によって建立されましたウインク

 

廟所建築として貴重なことから、国重要文化財に指定されています真顔

 

 

 

榊原忠次公の墓

 

 

 

  江戸大名墓シリーズ

 

 

 

 

「江戸時代」は、徳川家康が朝廷から「征夷大将軍」に任命され、江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)から明治天皇の「一世一元の詔」が発布された慶応4年/明治元年(1868)までの「265年間」とされています。

 

 

江戸時代の始期については、様々な説があり、終期については概ね一致していますが、始期に関しては、慶長20年/元和元年(1615)の「元和偃武」が宣言されてからの「252年間」が江戸時代であるとする説が近年では有力となっています。

 

 

期間がどうあれ、江戸時代の到来により「戦乱の世」から「泰平の世」に移行したことは、確かであり、世界史上稀に見る長期間(約250年)の「戦争のない状態」を創り上げた「幕府の統治」は賛否両論あれ、結果的に考えればその統治方法は後世の参考になると思います。

 

 

江戸時代は、主に3時代に区分できます。

 

1️⃣初期 慶長8年(1603)/元和元年(1615)〜元禄3年(1690)

 

2️⃣中期 元禄3年(1690)〜安永9年(1780)

 

3️⃣後期 安永9年(1780)〜慶応4年/明治元年(1868)

 

 

以上の3時代に活躍した大名の墓、供養塔を調べ、訪問した記録を残したいと思い、このシリーズを立ち上げます。

 

  播磨姫路藩初代藩主榊原家3代当主榊原忠次公の墓

 

 

榊原従四位下侍従忠次

1605年(慶長10年)〜1665年(寛文5年)

 

 

 

 兵庫県姫路市の増位山随願寺には、榊原忠次公の墓があります。

 

 

榊原忠次は、大須賀忠政の長男で、「徳川四天王」榊原康政の孫になります。

 

 

大須賀忠政は、榊原康政の長男ですが、母(康政の妻)の実家、大須賀家に子が無く、忠政は祖父大須賀康高の養子になり、大須賀家を継ぎました。

 

 

榊原家は、忠政の弟康勝が継ぎました。

 

 

しかし、榊原康勝は大坂の陣の戦傷が元で急死、長男勝政は生まれたばかりということもあり、徳川家康の「鶴の一声」で当時10歳の大須賀忠次が榊原家の当主となりました。

 

 

榊原家は、僕の調べた限りでは、「榊原家歴代当主の菩提寺」はありません。

 

 

その理由としては、榊原家は「転勤族」のように「転封」を繰り返しており、幕府が「要衝地」と考えた「藩」に「異動」しています(当主が早世し、次の藩主が幼少の場合は「僻地」へ転封されています)。

 

 

榊原康政は、一代で徳川家の重臣にのし上がり、家康の天下一統事業の中核を成した「武功抜群の家」なのに、忠勝の本多家もそうですが、各地を「転々」と動かされています。

 

 

武功抜群の家だから、この藩は重要だと思ったところに「行ってもらって」いるんだと、幕府は主張しそうですが、同じ徳川四天王の井伊家は彦根藩、酒井家(左衛門尉家)は、庄内藩と殆どというか、全く「動かされ」ていません。

 

 

違和感がありますが、井伊家、酒井左衛門尉家以外の主要な徳川譜代大名の多くは、江戸中期頃まで各地を「転々と」しているので、榊原家だけが「異質」というわけではないのですが…。

 

ちなみに榊原家歴代当主の「赴任地」を見てみますと…(康政以降はマイナー人物ばかりだと思われるでしょうが有名な人物もいます)。

 

①初代康政 上野館林藩10万石

 

②2代康勝 上野館林藩10万石

 

③3代忠次 上野館林藩10万石→播磨姫路藩15万石

 

④4代政房 播磨姫路藩15万石

 

⑤5代政倫 播磨姫路藩15万石→越後村上藩15万石

 

⑥6代政邦 越後村上藩15万石→播磨姫路藩15万石

 

⑦7代政祐 播磨姫路藩15万石

 

⑧8代政岑 播磨姫路藩15万石

 

⑨9代政純、政永 播磨姫路藩15万石→越後高田藩15万石

※政純、政永は兄弟ですが、政純が急逝、政永が「政純」に「入れ替わり」公式には、「同一人物ということになって」います。

何か意味不明ですが…

このような「事例」は他の大名家にもありますので、また説明させて頂く機会があると思います。

 

⑩10代政敦 越後高田藩15万石

 

⑪11代政令 越後高田藩15万石

 

⑫12代政養 越後高田藩15万石

 

⑬13代政愛 越後高田藩15万石

 

⑭14代政敬 越後高田藩15万石

 

 

以上14代榊原家は3代忠次から「15万石の大名」として幕末まで続きましたが安定して「土着」したのは「越後高田藩」に移封された寛保元年(1741)から慶応4年(1868)の「127年間」が榊原家にとっての「安定期間」になっています。

 

 

 

 

それでは、榊原家15万石の祖と言える「榊原忠次」の生涯を辿ってみたいと思います。

 

 

 

 

榊原忠次廟所

榊原忠次廟所榊原忠次廟所榊原忠次廟所

 

※榊原忠次公廟所・・・実際間近で見てみるとその巨大さに圧倒されますポーン

 

姫路藩は表高15万石ですが、実高は実質40~45万石以上あったと言われており、榊原家、姫路藩主の「財力の凄さ」を今に伝えていますポーン

 

廟所は廟所門の先にあり、石扉、玉垣に囲まれ外からしか見れませんチーン

 

無数の巨大な石燈篭(途中で分からなくなって数えるのをやめましたが20基はあると思います)、亀趺石碑(忠次の業績を称えた3,000文字の文章が刻まれています)、そのうしろに巨大な五輪塔があります真顔

 

 

 

  ①榊原忠次公墓所(増位山随願寺)

 

 

榊原忠次は、寛文5年(1665)江戸榊原屋敷で亡くなられ、遺言により増位山随願寺に葬られます。

 

 

榊原忠次公墓所は、寛文5年(1665)、次男で跡を継いだ2代姫路藩主政房により造営されました。

 

 

 

墓所は、1100平方メートル(約330坪)ある広大な大名墓で石扉、石製玉垣で囲んだ中心に、石燈籠、碑文を刻んだ亀趺石碑(笠塔婆)、4、5mくらいあると思われる巨大な五輪塔が建っています。

 

 

 

 

玉垣、石扉の周りには巨大な石燈籠が取り囲むように(数えましたが、途中でよくわからなくなりました…約20基くらいあったと思います)建っています。

 

 

玉垣、石扉、石燈籠群を取り囲むように、煉瓦塀(後年のものと思われます)、廟所門があります。

 

 

廟所門は、唐門形式で派手な赤色を施してあり、非常に豪華な門の印象を受けました。

 

 

廟所門は造立当初は存在しておらず、享保16年(1731)、再転封となった子孫の姫路藩主2代榊原家7代政祐により建立されています。

 

 

廟所門は、江戸中期の大名廟所門として貴重な遺構であるため、国の重要文化財に指定されています。

 

 

榊原忠次公墓所本体は、姫路市指定文化財になっています。

 

 

 

これだけの巨大な墓所を建てられた榊原家の財力の凄さが、後ほど紹介させて頂く「榊原政邦公夫妻墓所」を見ても分かります。

 

 

 

榊原家の「姫路藩」の表高は「15万石」ですが、姫路藩には瀬戸内海運の港「飾磨津」があり、また温暖な土地で新田開発を積極的に行った結果、コメの取れ高も多く、実高は3倍以上(40万石以上)あったと言われています。

 

 

実高が40万石から50万石くらいなければ、実高「15万石の大名」では、あの巨大な城郭「姫路城」は到底、維持出来ません。

 

 

相当な榊原家の「財力」を墓所を見ただけでもよく分かります。

 

 

 

墓所は、単なる「墓」ではなく、「城郭」や携わった「寺社」と同様、当時の「大名の財力」を知る上で重要な「エビデンス」になるのです。

 

 

 

残念ながら、榊原忠次公墓所の廟所は施錠されていますので、外から見ることしかできず、中へ入ってお参りすることは出来ないですが、外から見ても規模の大きさは分かります。

 

 

廟所門、煉瓦塀の下部には切石の石積があり、基礎の役割を果たしています。

 

また、廟所の東西に「謎の石垣」があります。

 

同じような切石積みの綺麗な石垣で、パット見、櫓台のように見えます。

 

 

石垣は廟所の東西にありましたので、何か建物が建っていたのか、土塀が建っていたのか分かりませんが、何らかの構築物(廻廊のようなものか?)があったと思われます。

 

 

西隣(向かって左側)に2基「墓塔」があり、見てみると、左側は笠塔婆で「元文四巳未年」、「瑞光院殿智山妙恵日浄大姉」「九月十六日」、元文四年は1740年ですので榊原忠次の没年1665年と大幅に乖離がありますので、忠次の関係者ではないのかもしれませんが、巨大な笠塔婆で法名が彩色されているようですので、後年の榊原家の一族ではないかと思います。

 

 

右側は無縫塔(坊さんの墓)のようで、「正徳?元年?(よくわかりません)」「浄壽量院殿」「九月十一日卒」と刻まれているようです。

 

 

仮に正徳元年と仮定すると1711年になりますので、榊原忠次とは関係ないように思いますが、となりにありますので後年の一族墓と思われます。

 

 

 

榊原忠次廟所門脇石垣

※榊原忠次廟所門脇石垣・・・廟所を囲むように切り石積の巨大な石垣がありますニヤニヤ

 

おそらく、廟所門を繋ぐ塀あるいは回廊が存在していたと思われますウインク

 

 

  ②榊原忠次の生涯

 

 

榊原忠次は、榊原康政の長男で大須賀家の養子となった、初代横須賀藩主大須賀忠政の長男として、慶長10年(1605)に生まれ、幼名は国丸と言います。

 

 

要するに忠次は康政の嫡流の孫になります。

 

 

父、忠政は国丸が2歳で早逝(26歳)し、急遽わずか2歳で家督を継ぐことになります。

 

当然、幼児の国丸は何もすることができません。

 

家康の命により、後見人として紀州藩家老の安藤直次が藩政を行っています。

 

 

母は祥室院と言い、久松松平康元の娘です。

 

 

松平康元の母は家康の母「於大の方」で、家康からみて康元は「異父弟」であり、祥室院は家康の「姪」にあたります。

 

 

忠次は、家康にとっては「家臣であり友でもあった榊原康政の孫」であり、かつ、姪の子です。

 

 

家康は、忠次に一代限りながら「松平姓」を与えて、非常に気にかけています。

 

 

国丸(忠次)は、順調に成長し10歳になり、「大須賀松平忠次」と名乗りますが、突然「転機」が訪れます。

 

 

榊原康政の三男で、榊原家2代当主の康勝が大坂の陣での戦傷が元で亡くなり、長男勝政は生まれたばかりであったため、榊原家の存続を憂慮した家康は、10歳の忠次に榊原家の「家督相続」を命じました。

 

 

 忠次は、榊原家3代当主となり、上野館林藩10万石3代藩主に就任します。

 

忠次が榊原家当主になったことにより、三河以来の「徳川家臣大須賀党」は、絶家となりました。

 

大須賀家の家臣団は、榊原家に組み込まれ、忠次は館林藩主として英明な君主に成長します。

 

 

正保4年(1648)、忠次43歳のとき、3代将軍家光から世嗣家綱の傅役を命じられます。

 

 

忠次はその後4代将軍となった家綱により、絶大な信頼を受け、4万石加増され陸奥白河藩、更に1万石の加増により姫路藩15万石の大名となり、忠次は幕府の事実上のトップ「大老」にまで「出世」しました。

 

 

幕府の大老、老中は基本的に参勤が免除される代わりに、江戸に長期間滞在することになり、国元(領地)に戻って政務を執ることはありません。

 

仮に戻るとしても短期間ですが、忠次は姫路に戻った際には新田開発の進捗、加古川護岸工事の監督など領内をくまなく視察しています。

 

寛文3年(1663)には従四位侍従になり、2年後の寛文5年(1665)、61歳で亡くなり、後を次男政房が継ぎました。

 

 

江戸時代も安定してくると、よほどインパクトのある人物でない限り、大名であっても事績(エピソード)の少ない人物が多く、忠次もそのうちのひとりに入りますが、忠次は「榊原家15万石」の基礎を築いた人物であると言えます。

 

 

榊原忠次廟所門脇笠塔婆と無縫塔

※榊原忠次廟所門脇にある笠塔婆、無縫塔・・・刻まれている法名から女性のものと思われますウインク

 

特に笠塔婆は大型で、刻まれた法名に赤色の顔料が塗られており、一部残っていますが2基とも刻まれた年号(正徳、元文=18世紀)から忠次関連の女性でなく、政邦関連のかなり身分の高い女性のものと思われます真顔

 

 

 

  ③榊原忠次の家族、子供たち

 

 

 1.正室 徳姫 

 

 徳姫は、福岡藩主黒田長政の次女にあたりますが、早逝されたようです。

 

2.継室 久昌院

 

久昌院は、実名は伝わっていません。

 

実質的な戦国最後のいくさ、「島原の乱」が勃発する直接的な原因を作った人物のひとりである、肥前島原藩主寺澤広高の次女です。

 

忠次の正室徳姫が早逝したことにより、継室として迎えられ、長男小平太、次男政房の母となりました。

 

 

島原の乱の責任を問われた実兄の寺沢堅高の唐津藩は取り潰され、実家を失った久昌院でしたが、嫡男政房の生母でもあるため、離縁されず姫路藩で暮らしたようです。

 

 

高野山奥の院の榊原康政墓所には、久昌院が寄進した石燈籠や自身の供養塔、早逝した長男小平太の供養塔として、大型の五輪塔が建てられており、現在残っています。

 

3.長男 小平太

 

小平太は、榊原家の家祖榊原康政の「通称名」で、以降歴代の嫡男は「小平太」と名乗っています。

 

小平太は、忠次と久昌院との間の嫡男でしたが、幼いうちに早逝しました。

 

高野山奥の院の久昌院の大型五輪塔のとなりに小型の五輪塔があり、小平太の供養塔として残っています。

 

4.長女 万

 

万も小平太とおなじく久昌院の子と考えられますが、早逝しています。

 

 

 

 

5.次男 政房

寛永18年(1641)〜寛文7年(1667)

 

政房は、忠次と久昌院の間の次男になります。

 

長男小平太が早逝したあと、世嗣となり忠次死後、姫路藩2代藩主となりました。

 

墓所は、父と違い、姫路の圓教寺にありますので、墓所訪問時に生涯を説明させて頂きます。

 

 

 

ようやく、kindle電子書籍にて、「武田勝頼 第1巻~出生から家督相続まで~」を出版するに至りました。

 

 

勝頼が信玄から家督相続してから10年で、戦国最強を誇った武田軍団がなぜ?どのように?崩壊し、滅亡していったのか?を詳しく説明したい、勝頼を知りたいと思う方に勝頼の本当の姿を知っていただきたく、出版させていただきました。

 

私見が多く入っていますが、勝頼に興味のある方は、読んでいただきたく、何卒宜しくお願い致します。  ↓↓↓

 

 https://read.amazon.com/kp/kshare?asin=B0DSV16RCD&id=jc3eqcomcja23owxplslw2kba4&reshareId=1M2J1CC3DVM149JXG82X&reshareChannel=system

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません🙇

 

 終わります🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

フォローしてね

 

 

フォローしてね

 

 

フォローしてね