足利義教宝篋印塔

足利義教宝篋印塔

※安国寺足利義教公の宝篋印塔・・・安国寺の境内の裏手にあり、ちょっと分かりにくいです笑い泣き

 

墓所は土塀(近年造られたものと思われます)に囲まれていますニヤニヤ

 

墓所の前方は、一面田んぼが広がっており、かつての境内地は相当範囲が広かったと思われますポーン

 

 

 

 

 

室町6代将軍 足利義教公の墓2️⃣

 

 

 

  足利将軍家の墓シリーズ

 

室町時代は、初代将軍足利尊氏から非常に不安定で、大名たちがあまり言うことを聞かない、基本的に「乱」の時代ですが、のちの日本を形造っていった「重要な時代」です。

 

室町期や戦国期の大名や武将の墓所は、江戸期の大名と違って存在しない場合が多く、あっても「伝」の場合が多いです。

 

室町将軍ですら、墓所の無い方もいますので、その場合は、ゆかりの史跡などを紹介させて頂きます。

 

時代は、順不同になりますが、宜しくお願いします🙇

 

 紹介にあたり、以下の項目中心に説明しようと思っています。

 

1️⃣将軍の生い立ち

 

2️⃣将軍在位期間の出来事

 

3️⃣将軍在位期間の勢力、大名たち

 

4️⃣将軍の最期

 

5️⃣将軍の家族

 

足利将軍家(一族含む)の墓、供養塔を調べ、訪問した記録を残したいと思い、このシリーズを立ち上げます。

 


  信長より先に「魔王」と呼ばれ、人々から怖れられた「6代将軍」足利義教

 

 

足利室町六代目征夷大将軍源氏長者(追贈太政大臣)義教・・・1394年(応永元年)〜1441年(嘉吉元年)

 

将軍在位期間・・・1429年(永享元年)〜1441年(嘉吉元年)

 

 

 

 兵庫県加東市にある安国寺に6代将軍足利義教公の墓(伝・首塚)があります。

 

 

他に(伝)足利義教公の墓は、京都の十念寺の伝・胴塚(行きましたが、閉まってます。たまたま閉まってたのか、拝観禁止なのか分かりません)大阪の崇禅寺に伝・首塚?があります。

 

 

僕が調べた限りでは、足利義教の墓は3箇所あります。

 

 

足利歴代将軍でこれだけ「伝」ながら墓所が残っているケースは、非常に珍しく、義教以外で墓や供養塔の類が複数現存するのは初代尊氏と2代義詮だけです。

 

足利義教は、元僧侶で還俗(僧侶から一般人になる)して、「将軍」になりました。

 

他に一旦、僧侶になっていたのに還俗して将軍になった人物は、11代の義澄、15代の義昭のみです。

 

足利歴代将軍の中では、義教はどちらかといえば、マイナーな存在で義教?誰?と言う人は多いと思いますが、義教は室町歴代将軍の中ではかなり、インパクトの強い魅力的な人物です。

 

僕は、個人的に室町歴代将軍の中で、天皇を超えようとした「怪物」3代足利義満、神に選ばれたくじ引き「悪将軍、魔王」6代足利義教、長き戦乱を起こした張本人「怠惰な文化人」8代足利義政に興味がありました。

 

子どもの頃からお寺で育った義教がなぜ「魔王」「悪将軍」「万人恐怖」と呼ばれたのか知りたくなり、調べました。

 

 

それでは、波乱万丈の「足利義教」の生涯を辿ってみたいと思います。

 

足利義教について、文学博士森茂暁先生の著作物「室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折」、井沢元彦先生の著作物「逆説の日本史⑦中世王権編」、立命館大学の秦野先生のユーチューブ「足利義教」などを参考にさせて頂きました。

 

 

 

 

 

 

足利義教墓所石碑

※足利義教公墓所石碑・・・足利義教公の首が安国寺に埋められた経緯が刻まれていますウインク

 

 

  ③足利義教の生涯〜兄の4代将軍義持危篤状態になる

 

 

応永10年(1403)、わずか9歳で義教(春寅、義円)は青蓮院に入り、応永15年(1408)、門跡となりました。

 

 

義円は非常に聡明でしたので、応永26年(1419)には天台宗のトップ、天台座主になり、「大僧正」への道を順調に歩んでいました。

 

 

しかし、突然、義円に転機が訪れます。

 

 

応永32年(1425)、4代将軍義持の息子である5代将軍義量が急死しました。

 

 

4代将軍義持は、6代将軍を定めず「大御所」実質的な将軍として再度政務を行いましたが、息子義量の早すぎる死にショックを受けたせいか、以前にも増して全くやる気ゼロの状態でした。

 

 

義持は、義量を失ったショックが大きかったのか、応永34年(1427)秋頃から体調を崩し、12月には寝たきりになってしまいます。

 

 

義持の「やる気ゼロ状態時」に幕政を支えた幕府No.2の管領「畠山満家」は、義持の政策ブレーンで側近筆頭「醍醐寺三宝院満済」に「次期将軍を誰にするか」を相談、義持の意思を尊重することを決定、義持に面会し、お伺いを立てました。

 

 

話は変わりますが、室町時代は「乱」の時代と言いましたが、唯一室町幕府が安定していた時代があります。

 

 

その時代とは、3代義満、4代義持の時代(3代義満が20歳になり、源頼朝以来の武家で征夷大将軍と右近衛大将に任官、南北朝合一を行い、将軍権力を確固たるものにした1379年から、4代義持が死去した1428年)の「49年間」です。

 

 

義教将軍就任から応仁の乱発生(1428〜1467)までの「39年間」を含めると「室町将軍が室町殿としての権威、権力のあった時代」は、88年と約90年ほどで、初期は「南北朝」時代、後期は「戦国」時代なのです。

 

 

義教の父足利義満、兄義持の生涯については、金閣、相国寺などゆかりの地に行ったときに話しますが、3代足利義満は、室町幕府の実質的な「創業者」であり、藤原道長や平清盛ですら超えようとしなかった「天皇家の権威、血統」を超えようとした稀代の「怪物」です。

 

 

足利義満は、賛否両論ありますが、個人的には非常に優秀で魅力的な人物だと思います。

 

 

祖父初代尊氏、父2代義詮が手出しできなかった「大大名の整理、解体、服従」に成功したのもありますが、「日明貿易を独占、莫大な財産を築き、力の源泉とした」ことが、義満が室町幕府の「実質的な創業者」としての「最大の功績」であったと思います。

 

 

室町幕府が、義満の死後、求心力を失ったのは、跡継ぎの義持が「守成の名君」ではない凡庸な(アホ)人物だったからです。

 

その後の徳川将軍家で、「守成の名君」と呼ばれた2代将軍秀忠は、基本的には初代家康の「言いつけ」をしっかり守っています。

 

秀忠も凡庸でアホな人物だったと言われていますが、義持は、秀忠以上に凡庸でアホだったと思います。

 

 

義持は、義満死後、義満が残した「事蹟」をことごとく否定、何より最高にアホだったと思うのは、「中国(明)に下手に出て貿易(朝貢)をするのはイヤだ」という理由だけで、「日明貿易」を止めて将軍の力の源(カネのなる木)を手放してしまったことです。

 

 

当時の中国(明)の皇帝永楽帝は、激怒し朝鮮に命じて出兵するほどの勢いだったと言われています(結局、戦争にはなりませんでしたが、後を継いだ義教は明に謝って貿易再開しようとしますが、中々許してもらえず、独自ルート(朝鮮ルート)を持っていた大内家を介して貿易をするようになり、のち義政の時代に公式に貿易が再開されますが、美味しいところは既に大内や細川に牛耳られていました)。

 

 

日明貿易は、「朝貢」で簡単に言えば子分(日本)がカネや自分の領地の名産品(工芸品、毛皮)などを親分(明)に渡して、挨拶します。


対する親分(明)は、朝貢品の見返りとして、倍以上のカネや名産品(絹や陶磁器)をくれ(下賜)ます。


日明貿易は、朝貢する側(子分)が朝貢される側(親分)よりメリットがあり、非常にオイシイ商売なのです。


日明貿易の利潤は、義満時代で現在の貨幣価値に換算すると200億円と言われています。

 

 

年間200億もの利潤を簡単に放り投げてしまう…義持は正真正銘アホというか、計算できんのやろかと思いました。

 

 

また、義持は父義満が精魂を傾けて建てた「鹿苑寺」の大伽藍をぶっ壊し、金閣だけ残して、建物は全部相国寺に持っていってしまいました。

 

 

義持のせいで鹿苑寺はその後、省みられることもなく、室町後期には、幕府自体にカネがなく、金閣はボロボロ、庭園は草ぼうぼう、池はドブ池になっていたそうで、信長が上洛し、修理するまで荒廃していたようです。

 

 

このように、せっかく室町幕府を強化した父義満の事蹟を簡単に放り投げ、死んだ義持は、何度も言いますが、歴代室町将軍で、義政に次ぐ「アホな将軍」だと思います。

 

 

話が横道にそれ、スミマセン😓

 

話は、義持寝たきり時に戻ります。

 

管領畠山満家は、義持に面会し、次期将軍を誰にするのか意思確認します。

 

以降のようなやり取りがあっただろうと想像しました。

 


畠山満家(管領)

「上様(義持)、3年前に坊っちゃん(将軍義量)が亡くなられてから、上様(義持)が幕府の指揮を執られてましたけど、上様の次の将軍決める相談したいんですわ。

 

足利義持(前将軍・大御所)

「畠山、オマエの言う通りやな。

ワシ、命もう長ないからな…ワシの子ども死んでしもて、ショックやってん…ワシ、自分で次の将軍決めるつもりないねん。

順番から言うたらワシの弟、義円やけど…畠山、お前らで話し合って決めろや。」

 

畠山

「それでよろしいんでっか!?そうですか…満済はん、山名、斯波、細川らと話し合いますわ。」

 

義持

「あぁ…頼むわ」

 

 

畠山満家は、煮えきらず責任を放棄する義持にムカついていましたが、まずは、義持が一番信頼しているブレーンの僧侶、醍醐寺三宝院満済に相談に行きました。

 

 

畠山

「満済はん、ワシ、上様に会いに行ったんやけど、死にそうやのに次の将軍誰にするかは、お前らで決めろ言われて困ってますねん。満済はん、どないしましょ。」

 

三宝院満済

「…そうですなぁ…順番から言うたら青蓮院の義円さんが上様の下の弟さんやし、賢うて立派な坊さんやから、ふさわしいんやけど…関東(鎌倉公方、足利持氏はオレこそ次の将軍にふさわしいと幕府に言っていますが、持氏は候補にも入っていませんでした)がうるさいからなぁ…」

 

「…そうや!「くじ引き」いう方法どないですやろ!」

 

畠山

「くじ引き?!そんなんで決めるんですか?」

 

満済

「たかがくじ引き、されどくじ引きですねん!一番ええ方法ですわ!足利家のご先祖さん、八幡太郎義家公が御祭神の石清水八幡宮の神前でくじ引きしますねん!

ワシらで話し合って次の将軍決めたら、反発するもんがおりますやろ。

「くじ引き」やったら「源氏の氏神の八幡さまに選ばれた将軍や!」て言うたら、みんな文句言いませんやろ!

もちろん、くじ引きするん畠山はんでっせ!」

 

畠山

「上様の弟さんから選ぶんですな?」

 

満済

「義満公の五男天台座主義円さん、七男大覚寺義昭さん、八男相国寺永隆さん、九男梶井義承さんから選ぶことになりますなぁ…4ツくじ作りますわ。

 

畠山

「山名(時熙)、斯波(義淳)、細川(満元)にも言うたら宜しいですな。」

 

満済

「ワシが名前書いたくじ作って、山名はんがくじを封印して、畠山はんが神前でくじ引く言うて山名はんらに言うときなはれ。」

 

畠山

「分かりましたわ。上様に言いに行きましょか。」

 

畠山と満済は、大御所義持にくじ引きを伝え、義持は自分が死んだあと、くじ引きをするよう条件を付けて、了承しました。

 

 

  ④足利義教の生涯〜くじ引き当選

 

 

 

応永35年(1428)1月、年明け早々、大御所義持は完全に危篤に陥りました。

 

管領畠山満家は、前年に満済が作っていた「くじ」を引きに石清水八幡宮に行きました。

 

 

義持は、くじはワシが死んでから引けと言っていましたが、畠山は事前にくじを「石清水八幡宮にひとりで行って、ひとりでくじを引いて」持って帰っています。

 

 

このことが何を意味するのか…非常に興味深いのです。

 

 

当時を生きたひとが書いた第一級の一次資料として、三宝院満済の『満済准后日記』、伏見宮貞成親王の『看聞日記』があります。

 

 

一次資料には、「一言一句」載っていませんが、これはあくまで自分の推測(他の専門家の先生も推論を述べています)ですが、「畠山満家は、三宝院満済と相談し、『くじを引いて神託を受けた』ことにして、義円(義教)を将軍にすることを決め、義持も了承していたのではないか???」

 

 

何を根拠の無いアホなことを…とお叱りを受けるかもしれませんが、人は死の間際になると誰でも弱気になると思います。

 

義持は、次の将軍を決めるとき、「勝手にせえ」と言ったと言われています。

 

義持は基本的にアホですが、まがりなりにも「将軍」「大御所」「会長、社長」ですから、「次の将軍(社長)くらい自分で決めたい」と思うのは当然ではないでしょうか。

 

 

室町幕府は、幕府成立当初から南北朝の争いがあり、「足利家を頂点とした武力を持った諸大名の連合政権」として誕生しています。

 

 

足利将軍家を頂点とする室町幕府という政権は、将軍は「絶対的な権力者」ではなく、「まわりの力のある者たちに支えてもらっている」存在なのです。

 

 

3代将軍義満は、莫大なカネとモノの力で、力のある大名を「潰す」政策を行い、一定の成果を収めて、「将軍独裁政権」を築き始めていましたが、志半ばで病死(個人的推測ですが、おそらく暗殺されたんじゃないかと思います)、義持の代になると再び「諸大名連合政権」に戻ってしまいます。

 

 

義持時代の重臣、管領畠山満家、山名時熙、斯波義淳、細川満元らも義満時代は力でねじ伏せられ、服従を余儀なくされていました。

 

 

ですから、「次の代も、絶対に権力を手放したくない」のです。

 

 

畠山満家にとっては(山名、斯波、細川もそうですが)、「自分の言うことを聞く、自分の権益を守れる将軍」でないといけないわけです。

 

 

義持の跡継ぎは、必然的に弟たちになるのですが、幼少でお寺の坊さんになっており、住職(門跡)であっても、「お寺を出れば何も経済的、軍事的基盤のないひとたち」です。

 

 

ですから、畠山、山名、斯波、細川らにとって、将軍になる者は「自分らの言うことさえ聞けば、誰でも良い」のです。

 

 

しかし、実質的な現将軍、大御所義持はある程度力を持っており、「義持の意向」も尊重しないといけません。

 

義持は跡継ぎに関して、「勝手にせえ、お前らが決めろ」的なことを言っていますが、本当にそうだったのか、非常に疑問です。

 

 

内心は、「自分が決めたい」と思っていたに違いありません。

 

 

 

しかし、室町将軍といえども「連合政権の諸大名たちの総意」がなければ、「跡継ぎ(室町幕府の次の将軍)すら決められない」のです。

 

 

 

以下、義円を将軍にする(くじ引きをする)畠山、満済のやり取りを想像してみました。

 

満済

「畠山はん、石清水八幡宮でくじ、作らせましたで。」

 

畠山

「満済はん、山名、斯波、細川にはワシがひとりで石清水八幡宮の神前でくじ引くこと、納得させましたんで、準備オッケーですわ。」

 

「そやけど、ワシ緊張しますわ!4つのくじから、ワシが引いたひとが次の将軍になるんやさかい、今からドキドキですわ!」

 

満済

「畠山はん…何眠たいこと言うてますねん!アンタはん、ほんまは将軍誰にしたいんでっか?」

 

畠山

「ワシ、山名、斯波、細川らと話ししたんですけど…。

正直言うて、誰でもええんですわ。ワシらの言うこと聞く上様やったら…。」

 

満済

「山名はんらと話して、誰でもええ言う結論でっか?」

 

畠山

「はぁ…。順序から言うたら義円はんやけど…。

一応、義円はんでええんちゃうかってなったんですけど、義円はんアタマええから、ワシらの言うことホンマに聞くんやろか、若いモンのほうがええんちゃうかて…。

そやけど、候補者全員、世間知らずの坊さんやから、何もようせんやろし誰でもええんちゃうかて…。」

 

満済

「確かに畠山はんらの言うことは分かりますわ。そやけど、将軍になる方は「生まれ」も大事なんですわ。」

 

「上様の弟さんたちの父親は鹿苑院さま(義満)やけど、母親はそれぞれ違うんですわ…」

 

「五男の青蓮院門跡義円はんは、今34歳で25年坊さんですわ。

母親は、鹿苑院さまの第二夫人北向殿で、今の上様の母親ですなぁ。」

 

「六男の大覚寺義昭はんは、今24歳です。

母親は、日野家の一族で、鹿苑院さまの第三夫人です。

ワシとおなじ真言の大覚寺におられるんで、ワシ、この方がええんちゃうか思っとりましてんけど、義円さんと比べると血筋がなぁ…。

 

「八男梶井義承はんは、今22歳です。母親は鹿苑院さまの第四夫人ですわ。

鹿苑院さまの弟さんの夫人でしたけど、鹿苑院さまが強引にの夫人にしてますさかい、この方は、まずいんちゃいますか。」

 

「九男虎山永隆はんは、今25歳です。母親は池尻殿で、出身がよくわからん女性ですからなぁ…。

この方はちょっと…まずいんちゃいますか。」

 

「こないして見たら誰が次の跡継ぎにふさわしいか分かりますやろ。

そやけど、畠山はんが若いモンのほうがええ言うてやったらくじ作り直しますわ。」

 

畠山

「なるほど…実はワシも思ってましてん。

誰でもっちゅうわけにもいきませんわなぁ…血統が一番、大事ですから。

そやけど、くじ作り直すてどういうことですのん?」

 

満済

「畠山はんが引く石清水八幡宮のくじは、「義円」に決まってるんですわ。

 

畠山

「あぁ!なるほど…上様もご存知なんですか?」

 

満済

「上様にはワシから言いましたから、上様はそれでええ言うてました。くじは山名はんに封印してもらうから、山名はんにも言うといてください。」

 

 

 

以上の会話は、「個人的想像」です。

 

 

足利義教は、表向き「くじで選ばれた将軍・跡継ぎ」ですが、義教が選ばれたのは、至極当然のことではないかと思っています。

 

 

義円は、他の候補者たち(弟)の中で、決定的な決め手は、『義持の同母弟』という事実です。

 

 

同母弟は非常に意味が大きいのです。

 

 

その後の江戸幕府の将軍、大名家においても、「血統」が一番大事で、悪い言い方をすれば、少々アホでも、周りが支えれば上手くいくという考え方です。

 

 

良く「政略結婚」というのは悪い言葉の代表のように言われますが、現代でも企業や政治家の間では政略結婚が行われているように、組織の求心力、団結を保つためには、政略結婚はある程度必要なのです。

 

 

現代の日本でも、「家」という「単位」が守られているように、「家=血統=格式」なのです。

 

 

「家=血統=格式」を何より重んじていた「中世」なら、尚更です。

 

 

「くじ引き」を行なったのは、確かであり、出来レースか否かは歴史学者の間でも論争は分かれています。

 

 

「室町幕府崩壊」の著者の森先生は、くじ引きはあった以外触れておられません。

 

 

秦野先生は、満済が大覚寺義昭推しでホンマに引いたんちゃうかと言っておられました。

 

 

東大の本郷先生は、「出来レース」説です。

 

 

くじ引きは「手段」だけで、義円が選ばれたのは、決して「偶然」でなく「必然」だったと思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長くなり申し訳ありません🙇

 

 続きます🙇

 

最後まで読んでいただきありがとうございます🙇

 

 

 

 

 

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