池上正樹「ひきこもりの家族を持つということ。成績優秀、スポーツ万能だった弟は高校中退、定職に就かずひきこもりに。両親亡き後、孤独死した」
8/13(日) 9:02配信
婦人公論.jp
高齢の親が自立できない子を養う「8050問題」。その負担は、きょうだいにまで及ぶことが少なくありません。取材を続ける池上正樹さんにも、ひきこもりの末に亡くなった弟がいました。当時を振り返って感じた「家族としてできること」とは(構成:古川美穂)
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◆親が健在なうちは問題が表面化しない
自立できないきょうだいに関する相談は、私が携わっている「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」にもたくさん寄せられています。メディアなどで「8050問題」を知ったのをきっかけに、連絡をくれる方もいるようです。
一番多い悩みは、「親が亡くなったら、自分がきょうだいの世話をしなければいけないのか」ということ。親が健在なうちは、問題はなかなか表に出てきません。しかし親が認知症になったり、病気で入院、あるいは亡くなったりすると、問題や負担が一気にきょうだいに降りかかってくるのです。
たとえば、ひきこもる本人に医療が必要な状態でも、病院へ行きたがらない。入院できたとしても、退院後、どこに住まわせたらいいかわからない。そんなふうに日々判断を求められ、親が動けないので自分がやらざるをえない、という状況に追い込まれてしまいます。
そもそも支援が必要なひきこもり状態であることを、家族も本人も認識していない場合がほとんどです。ひきこもりというと、不登校などをきっかけに家から出られなくなり、一度も働いた経験がない若者のイメージが強いからかもしれません。
しかし実像は少々異なります。厚労省の研究班は、ひきこもりの定義を、〈社会参加をしていない状態〉が6ヵ月以上続くこととしている。ただ実態は、期間も外出できるかできないかも関係なく、さまざまな事情から他人との交流を避けざるをえなくなっている状態なのです。
また、先日発表された内閣府の調査では、40~69歳のひきこもりの方のうち約9割が就労経験者でした。もともと社会に出ていたけれど、そこで心身の健康をかされたり、尊厳を傷つけられたりした人が多い。
そういった社会側の問題が引き金となってひきこもることから、誰の身にも、何歳からでも起こりうると考えるべきでしょう。
◆優等生だった弟と内気だった兄
実は私自身、ひきこもりがちな4つ下の弟がいました。両親が亡くなった後は、アパートでひとり暮らしをしていたんです。しかし7年前、自宅で亡くなっているところを発見されました。
本人が「自分のことは記事に書かないで」と言っていたので、ずっと心の中に封印してきたのです。しかし歳月が流れ、彼が生きた軌跡をどこかに残したほうがいいのかなという気持ちになってきました。それに、この話が教訓として誰かの役に立つことがあるのではないか、と。
とはいえ、もともと弟のことがあったからひきこもりの取材を始めたわけではありません。このテーマに取り組み始めたのは、25年以上前のこと。当時、教育現場で精神を病む教師や学級崩壊などの取材をしていたのですが、そのなかで「話ができない子ども」に出会いました。
実を言うと私は小学校時代、特定の場面で話すことができなくなる「場面症」で、学校で誰とも口をきけない6年間を送っています。その子の姿が過去の自分と重なり、どうしてこういうことが起きるのかを調べていくうちに、「ひきこもり」という言葉をインターネットで見つけたのです。その頃、弟はすでに不登校を経て、働いたり辞めたりをくり返していました。
わが家は、都市部に暮らす高度経済成長期の典型的な4人家族です。父は大手企業の管理職、母は専業主婦。仕事人間の父は、家のことは母に任せきりでした。母は社交的で、PTA会長や町内会長を務める地元の有名人。教育や躾に厳しく、「教員か公務員になってほしい」と言われたことも何度かありました。
「あなたのためだから」「将来が安定するから」と言いながらも、母の期待する価値観を押しつけられてきたように思います。
弟は小さい頃から成績優秀。スポーツ万能で友だちも多かった。親の期待はもっぱら弟にかけられている気がして、内気で劣等生だった私には、弟がうらやましく眩しい存在でした。
しかし中学に進学した頃から弟の成績は急落し、その後、高校を中退することに。時々働くこともありましたが、親戚などが家に来ると部屋にこもりがちになりました。ただ、弟は英語が得意で海外に長期間出かけていましたし、その頃は弟が「ひきこもり」だと認識することも疑うこともありませんでした。
親が悩んでいたのは、弟がちゃんとした職に就けないということです。いつまでも親に依存して、自立できない。そんな弟の心配をしていました。親戚から弟の生活のルーズさについて兄の私が注意されることがあり、弟もその親戚を嫌がっていましたから、ますます避けるようになっていったようです。
◆母に頼まれ、弟を雇うも......
一方、私は大学入学と同時に家を出て、卒業後は大手通信社に入社。母は、私が〈大きな会社〉に就職したことをとても喜びました。しかし3、4年で退職してフリージャーナリストになった時、母からは「ショックです」と一言だけ書かれたハガキが届いた。私はそれがショックで、気づいたら次第に実家から足が遠のいていました。
今にして思えば、弟も私も、母から巧妙でソフトなコントロールを受けていたのかもしれません。親から諦められていた私は早くに家を出て呪縛から解放されましたが、同居していた弟は、親の価値観を素直に飲みこんでしまったように感じます。
母方は伊達藩の士族の家系で、祖母の日記に教えが残っているんです。「士族の子どもは、どんなにひもじくても、他人様に物を乞うてはならない。また、いやしいことをするなと口ぐせのように言って聞かされた」と。
きっと母も、それを刷り込まれて育ってきたのでしょう。母は弟が就職できないことを嘆いて、たびたび私に電話をかけてきては愚痴をこぼしていました。そして、弟に仕事を紹介できないか、と言うのです。
弟はジャーナリズムに興味があったので、私のアシスタントとして雇うことにしました。しかし金銭感覚がマヒしているのか、事務所の備品などを経費で大量に買ってしまう。相談なく、何でもお金で解決してしまうのです。
本人は良かれと思って行っているものの、私自身の生活に支障が出るようになって、半年で辞めてもらわざるをえなかった。弟は得意な英語を生かしたいと翻訳や校閲の仕事をしたこともありましたが、どれも長続きしなかったようです。
でも根が真面目なので、将来のことはすごく心配していました。それに、「自分が家を守る」という意識が強かった。親の価値観でもある家父長制に縛られているようでした。弟から、「お兄ちゃんは長男なのに、なぜ家を出たの」と責められたこともあります。小さな頃は仲が良かったのに、価値観のズレを感じることがよくありました。
◆両親が亡くなり、生きる希望を失った
やがて母にがんが見つかります。その頃に私の発案で、4人で家族旅行に行きました。本当はこの時、将来について家族で話し合えば良かったのですが、楽しそうにしている時に切り出せる話ではありません。母は臆病で、自分の死について考えるのを嫌がる人。その後も万一の時の話題を持ち出すタイミングがなく、先送りが続きました。
しばらくして母が亡くなり、その1年後、追うように父も脳腫瘍で亡くなります。母の時も父の時も、弟は足しげく病院に通っていました。自分ひとり家に取り残される寂しさや不安があったんでしょうね。
父が亡くなった時が、弟を公的な支援につなげる最後のチャンスだったのかもしれません。しかし当時は、40代のきょうだいの負担を強いられている人が相談できる制度はなく、弟の意思もあり、誰にも言えませんでした。
そもそも、父の企業年金などまとまったお金が遺され、持ち家もあった。弟が働かなくても生活していけるだろうからと、支援を求めるほどの深刻さもなかったように思います。
ところが、弟は両親が亡くなり、一気に生きる希望を失ったようでした。いつ実家を訪れても、真っ暗闇の中で布団を敷いて寝転がっている。そして、「誰か怪しい人いなかった?」「ひそひそ声が聞こえるから雨戸を閉めている」と言うのです。
さらに話を聞くと、両親の遺産はすでに底をつき、クレジットカードや消費者金融などからお金を借りていることも判明。いったん、私が代わりに返済しました。
外からの視線に怯え、抜け殻のようになっていた弟は、ある日、自ら病院に出向いて入院。驚いて面会に行くと、「返済」のことばかり気にしていました。それくらい真面目なんです。
「統合失調症」と診断されると、「違う」とかたくなに受け入れず、診断名は「不安障害」に変わりました。それでも治療して元気になるにつれ、「家に帰りたい」と訴え始めます。実家に戻すと家を担保に再び借金を重ねる危険があったため、グループホームへの入居を提案しましたが、「集団生活は絶対に嫌だ」と断固拒否。
実家がダメならひとり暮らしをしたいと言うので、生活保護のケースワーカーをつけようと相談したら、「生活保護なんて絶対に嫌だ」とまた拒否。それで入院が長引きました。
結局、1年後に退院。家を売ってアパートでひとり暮らしを始めたのですが、様子を見に行くと常に雨戸を閉め切り、暗闇の中でパソコンの画面だけがぼんやり光っている。薬を飲んでいなかったのか、あるいは薬の副作用なのか、話をしていると妄想が膨らんでいく感じでした。
弟と会ったのは、お正月におせち料理を持って訪れた時が最後。部屋が暗いので照明を天井に設置していると、「明るくして何するの?」「誰か連れてきてるでしょう?」と言われて追い出され、それからしばらく連絡しなかったのです。
その数ヵ月後、「家賃を滞納している」と連帯保証人の私のもとに連絡があり、弟は亡くなっていたことがわかりました。すでに腐敗も進んでいて、ショックで言葉も出ませんでした。
◆自分の人生を守ることが第一
弟を亡くした今、親が生きている間に家族で何ができただろうか、と考えることがあります。
親が元気なうちに信頼できる第三者とつながって、弟がひきこもりながらでも生きていけるように準備しておくことができたかもしれない。親には、残される家族に負担がかからないよう、加入していた保険や年金、財産、葬儀の手続きなど、亡くなる前に情報を共有してもらうべきでした。将来、弟が生活していくための選択肢を、一つではなくいくつか考えておくことが重要だったのです。
そもそも「働く」ことは義務ではなく権利なんだ、という考えを家族みんなで共有できていたなら、また違った展開になっていたのではないか。弟が働けず、親が悩んでいた頃は、そこまで思いが及びませんでした。今なら言えます。一日一日を生きてくれるだけでいい、と。
冒頭でお伝えしたように、ひきこもる状態はいつでも誰にでも起こりえます。ただ傾向としては、優しくて「人に迷惑をかけたくない」と抱え込むタイプが多いようです。潜在的には、「もう一度社会に出たい」「やり直したい」と思っていますが、これまでの経験から、いろいろな事情や理由があって働くことができなくなっているのです。
それなのに、周りが一足飛びに「就労による自立」をゴールに定めてしまうと、必ずどこかで本人が無理をすることになります。期待に応えようとして、ますます心も体も壊してしまうケースを多く見てきました。特に状況が深刻な人ほど「ひきこもり」というレッテルを貼られるのを嫌がり、支援を遠ざけ、孤立しやすい。そして生きる意欲や希望が枯渇してしまいます。
彼らに必要なのは、解決型ではなく寄り添い型の支援です。ゴールは就労ではなく生き延びること。「期限内での就労」という枠に当てはめたり、社会に適応させようとしたりしても、うまく合致しないのです。
これまでの支援体制は、本人や家族に寄り添い続けるように設計されていないことが多く、人材も育成されていません。結果として、負担はすべて家族に降りかかってくる。「育て方が悪い」「親が甘やかしたからだ」という自己責任論で覆われているのが、今の日本社会なのです。
それに加え、「家族が面倒を見るのは当たり前」という圧が、きょうだいをも苦しめている。私もよく親戚に「お兄ちゃんなんだから」と言われましたが、その一言で追いつめられ、矛先がひきこもる本人に向かってしまうことも多いと感じます。
自立できないきょうだいを、自分の生活を犠牲にしてまで扶養しなければならない、という法的な義務はありません。まずは自分の人生や家庭を守ることが第一。そのうえで余裕があれば、時々「どうしてる?」と声をかけたり、親を交えた家族会議をしたり、できる範囲でサポートする。それで十分です。
何より大切なのは、親が元気なうちに、家族以外の第三者とつながっておくことです。たとえばKHJ全国ひきこもり家族会連合会本部が主催する「兄弟姉妹の会」や、私が今年度立ち上げる予定の「兄弟姉妹オンライン支部」に参加して、同じような境遇の人に話を聞いてもらうのもいいと思います。「自分はひとりじゃない」と知るだけでも、心の支えになる。
それに、本音で愚痴を吐き出せる場所は大事です。「邪魔」「消えてほしい」といった言葉が出てくることもありますが、そう思ってしまう自分を責めたり抑圧したりしなくていい。
特有の境遇を「うちも同じ」「その気持ちわかる」と言い合えることで、行き場のない不安や不満がきょうだいに向かわずに済みます。まずは自分が幸せに生きること。そこで初めて、兄弟姉妹にも優しく接することができるのではないでしょうか。
(構成=古川美穂)
池上正樹