天涯孤独の中卒アルバイト、27歳で名古屋大合格・母校の教師へ…宮本延春さんの人生を変えたのは
7/7(金) 10:00配信
読売新聞オンライン
17年前、ある1冊の本が10万部を超えるベストセラーとなった。タイトルは「オール1の落ちこぼれ、教師になる」。著者の宮本延春(まさはる)さん(54)が歩んできた、波乱万丈の半生とは――。(読売中高生新聞編集室)
24歳で定時制高校、27歳で名大合格
「私を知らない人も多いと思うので、とりあえず簡単に自己紹介をさせてもらいます。愛知県出身で、昔から大の勉強嫌い。その証拠に中学卒業時の成績表を見てください。音楽と技術以外は全て『1』。算数の九九でさえ『2の段』までしか覚えられず、知っている英単語はBOOKだけ。漢字は自分の名前しか書けないというありさまでした(笑)。その後は中卒で働き始めますが、いろいろあった末に一念発起し、24歳で定時制高校に入学。27歳で名古屋大学理学部に合格し、36歳で母校の教師になりました。現在は退職して、講演会などを中心に活動しています」
あまりにも目まぐるしい展開だが、順を追って聞いていこう。まずは、勉強嫌いになった背景から。
「気が弱く、体も小さかったので、小学校低学年からいじめの標的にされました。覚えているのは、小2の時にクラスメートの女子に給食費を力ずくで奪われたこと。担任の先生に相談しましたが、何も解決してくれず、どんどんエスカレートしていきました。文房具や上履きを隠されるのは日常茶飯事。休み時間に後ろから蹴られたり、足に画びょうを刺されたり、暴力をふるわれることも少なくなかったです。
いじめは中学に入っても続き、苦痛のあまり、『死んだ方が楽かも』と考えたことは一度や二度ではありません。学校では、なるべく目立たないように心がけていました。そうすると、その日を無事に過ごすことが最優先になって、勉強ができないなんていうことは、大した問題ではなくなるんです。おかげさまで、学校の授業は『何が分からないのか分からない』という状態。一刻も早く卒業して、この苦しみから解放されたいということばかり考えていましたね」
両親が亡くなり天涯孤独に
だが、宮本さんは中学を卒業した後も、立て続けに試練に見舞われる。
「特になりたいものもなかったので、大工の見習いとして働き始めました。しかし、この職場が今でいう“ブラック企業”そのもの。親方に殴られたり、どなられたりするのは当たり前で、常にビクビクしながら仕事をしていました。
当時は両親と3人で暮らしていたのですが、16歳の時に母をがんで亡くします。2年後には父も病死し、私は18歳にして天涯孤独の身となりました。残ったのは父の借金だけ。大工の仕事にも嫌気がさして2年ほどで辞め、しばらくはアルバイトで食いつなぎました。
とにかくお金がなかったので、1か月13円で過ごしたり、栄養不足で口内炎が一度に12個もできたり……。道ばたのタンポポやアリを食べたこともあります。余談ですが、アリは結構すっぱいんですよ(笑)。そんな状況から、どうやって高校に進学し、さらには国立大学に入れたのか。23歳の時に出会った1本のビデオが私の人生を大きく変えていきます」
中学卒業後、どん底の生活を送っていた宮本さんに、人生を好転させる出会いが訪れる。
「20歳を迎えた頃、友人がある建設会社を紹介してくれました。この会社の社長がとても親切で、両親のいない私を何かと気遣ってくれました。正社員として迎え入れてくれ、不安定だった私の生活は徐々に安定します。
さらに23歳の時、当時付き合っていた彼女(現在の妻)から一本のビデオを渡されました。『面白そうだったから』と録画してくれていたのは、NHKの『アインシュタイン・ロマン』という特番。『光は波か、粒か』というテーマに物理学者たちが挑み、最終的にアインシュタインが解明するという内容です。
このビデオが私の人生を大きく変えました。番組を見た後、雷に打たれたような衝撃を受けたのです。それまで物理学という言葉の意味すら知らなかった私が、初めてアインシュタインの相対性理論に触れ、味わったことがないような知的興奮を覚えました。そして強烈にこう思ったのです。『この世界がどういう仕組みでできているのか知りたい』と」
「世界の仕組みを知りたい」。その思いに突き動かされ、大嫌いだった勉強に取り組み始める。
「物理学を本格的に学ぶには、大学に入らないといけないと思い、まずは働きながらでも通える定時制高校に入ることを決めました。彼女や社長も応援してくれ、猛勉強の日々が始まります。しかし、九九もわからないようなレベルだったので、算数は小学3年生用のドリルから始めました。面白いことに、目標ができると、あれだけ嫌だった勉強に夢中で取り組むようになります」
24歳で定時制高校に入学すると、漠然と描いていた大学進学は、具体的な目標へと変わる。
「自宅から通える距離で、物理学科のある名古屋大学を志望校に決めました。常識的に考えれば、無謀な挑戦ですが、とにかくやる気だけはあったので、先生に相談にいきました。すると、特別進学コースで使用している数学の問題集を渡されました。後から知ったことですが、先生は私を諦めさせようとしたらしい(笑)。もちろん、わからない問題も多かったのですが、必死でやっているうちに、自力で7~8割ほど解けるようになりました。先生はその姿勢を買ってくれ、週1度、私のためだけに特別補習をしてくれました」
物理のテストで満点、名大合格「鮮明に覚えている」
先生の協力もあり、成績は少しずつ伸びていく。そして2年生の時、なんと数学で県内トップになる。
「2年生になるタイミングで仕事を辞め、家で寝ている時間以外は勉強に没頭しました。結果が出ることで自信を深め、さらに勉強に拍車がかかりました。そして迎えた3年生の冬、大学入試センター試験(現在の大学入学共通テスト)では、物理で満点を取るなど全体で8割近い点を取ることができました。名古屋大学に合格した時のことは今でも鮮明に覚えています。特に、応援してくれていた人たちが、まるで自分のことのように喜んでくれたことがうれしかったですね」
中学時代の「オール1」から一転、大学院にまで進み、物理学の研究に没頭した宮本さん。30代半ばにして、教師になり、母校の高校に戻ることを決断する。
「名古屋大学では、大学院にも進み、素粒子の研究に打ち込みました。忙しくも充実した日々を送り、研究者になりたいと考えていました。ただ、徐々に気持ちに変化が出てきて……。いつしか、自分を生かせる職業は『教師』なのではないのかと思い始めます。小中学校では、つらい経験をしましたが、そこから学んだこともたくさんあります。学校が大嫌いで勉強ができない子どもの気持ちも人一倍分かる。そして、なによりも学ぶ楽しさや夢を持つことの大切さを教えてもらった母校に恩返しがしたいと考えたのです」
教壇で宮本さんは、生徒に学ぶ意味をこう伝えてきた。
「私の経験から、学ぶことの重要なポイントは、目標を持ち、そこに向かって努力するところにあると思っています。目的もなく勉強することは苦痛以外のなにものでもありません。ささやかな目標であっても、それが自分にとって価値あるものならば、それを見つけただけでも素晴らしい。さらにその目標に向かって努力することは、この上なく尊いことです。そして、その目標を達成させるための努力こそが、私は『学ぶ』ことだと思っています」
幸せになれるチャンスは必ずやってくる
劇的な人生を支えてくれたのは「人との出会い」。なかでも妻には感謝してもしきれない。
「中高生の皆さんは、多感な時期で、さまざまな悩みや苦しみに遭遇することがあるでしょう。私も人生でたくさんの壁にぶつかってきました。いじめや落ちこぼれ、両親との死別や社会の荒波……。それらはとても厳しくつらいものでした。ただ、どん底にいても、『夢』や『希望』を捨てなければ、幸せになれるチャンスは必ずやってくる。その機会をくれたのは『人との出会い』でした。特に九九の言えない時から献身的に支えてくれた妻の存在がなければ、今の私はなかったでしょう」
現在は講演会などで自身の体験を伝える活動を続けている。
「長男が生まれつき心臓病を患い、次男には知的障害を伴う自閉症がありました。感情のコントロールが苦手で、言葉によるコミュニケーションはほとんどできません。そのため、私か妻のどちらかが面倒をみる必要がありました。どちらも働いていましたが、育児や家事は私のほうが得意。それならばと、学校を退職して“主夫”になることにしました。
コロナ禍では自宅にいる時間が長くなり、炊事、洗濯、掃除などがより一層板についてきました。おかげさまで長男は大学生になり、20歳になった次男も日中は福祉施設で働けるまでになりました。障害を持つ次男のおかげで気付けたこともたくさんあります。
人間の究極の目的は『幸せ』になること。誰も不幸になるために生きているわけではありません。私は10代で、人生のどん底を経験しましたが、今は胸を張って言えます。とても幸せです、と」(聞き手・浜田喜将)
プロフィル
みやもと・まさはる 1969年1月4日生まれ、愛知県出身。中学1年で「オール1」の成績表をもらう。16歳で母親、18歳で父親を亡くし、天涯孤独の身に。23歳でアインシュタインの相対性理論に出会い、猛勉強の末、24歳で私立豊川高校の定時制に入学。27歳で名古屋大学理学部に合格する。36歳で豊川高校の教師となり、現在は退職して講演活動などを行っている。