~第三章 神は存在するか~ 

一体全体、神というものが実際に存在するのか――他のどんな質問よりも、この質問をわたしたちは一番多く受けました。この問題に対して、科学は最近では非常に多くの注意と考慮とを払ってきており、又この線に沿うて事実素晴らしい研究がなされつつあります。大体この面の研究は一群の医学者たちの示唆によるものであって、この数年間で相当の進捗を見ているのであります。

さて、人間の経験することにはすべてその背後に、或る大きな原理が存在する、とされています。これは実に偉大なる断定でありまして、こういう断定が下された時代が何時であるかを知るために遡って調べてみても遙かなる過去に属するので、その系譜はすべて失われているのであります(1)。

しかし、かかる断定は如何なる時代にも常に存在したし、又今でも存在しているし、更に又何物を以てしても、この原理を絶対的法則と秩序から除き去り得るものではないことを、われわれは理解するようになりつつあるのであります。人類が今日まで索(たず)ねてき、又今なお、索ねつつある問いは、『神は存在するか』であります。

従来の伝統的見地からいえば、人間の父と称せられる神聖なる存在、即ち或る神なるものが実在することが、信仰の上に立って受け容れられています。この行き方でわれわれは一応、大部分の人類の代弁をしているわけです。しかし今では只信仰に基づいて信ずるというだけでは満足しなくなっています。

要するに人類は知りたいのです――『神が存在することに対して、もはや反馭の余地もないほどの証拠はないだろうか』と。この問題を研究してそれに対する答え、合理を好む精神を満足させる答えを見出すのが、科学の仕事でした。最近になって科学研究の結果、宇宙エネルギーともいわれる宇宙力の存在することが発見されました。

これは全宇宙に遍満して無限の空間を満たしている原始エネルギーです。実は先程ふれた原理の一つの顕れであって、このエネルギーは原子爆弾よりも強大であることが現在つきとめられています。このエネルギーは一切の空間、一切の状態、一切のものにあまねく放射されていて、ただ一人の人間や一個のグループにのみ与えられるのではなく、すべてのすべてであり、すべての人のものであります。

だからそれは、われわれが知ると知らざるとに拘わらず、すべての人々に働きかけているのであって、それを自覚するしないは何ら問題ではありません。それは又、書物の下や暗所にかくれているのでもなく、存在せざる所なきまでに遍在し、ありとしあらゆるものに行きわたっています。それはわれわれが生きて動き、われわれの本質となっている髄質(サブスタンス)であり、原理そのものです。

この原理そのもの、即ち各人の中にある神性がなければ、このグループの写真一枚だって私達は撮ることはできなかったでしょう。このことは経験が証明しています。この神性原理は、一切のもの、一切の生活方法と経験に内在し、浸透しています。久遠常在にして一切を包容するのがこの神性力、この神性エネルギーであります。

わたしたちはそのことを写真撮影によって証明しました。何故ならこの神性エネルギーがなければ、如何なる写真もとれないからです。フイルムの上に感光している像は、被写体たる物体又は人間から放射している波動にすぎません。この事実が各形あるものの中に実在する神的存在〔波動を放射している主体〕の証拠です。

もしこの神的存在を(その形あるものの)外部に求めるならば、失敗するのが落ちです。何故なら、自分の手や足のごとくに身近にあり、又わが心臓のごとくにわが近く、否、実にわが内にあるものを外に求めるからであります。断乎としてわが内に求めて行けば、あらゆる面に神を見出すのであります。であるのに、何故いたずらに神を外に求めては時間を空費するのでしょうか。

大師たち、すなわち先輩たる同胞たちの場合についても事情は同じです。大師方は実に此処、即ち、各人の外形の奥にましますのです。われわれ自身の心臓のごとくにも、身近におられるのです。大使がたに会うのに何もインドまで、いやどこにせよ、外国まで行く必要はない、今自分のいる処、そこでお目にかかることができる。『弟子の準備ができたとき師は現れ給う』(2)のです。

遙かに遙かなる過去、或る偉大なる文明が出現し(3)、挙げて数えることもできぬ長い時代にわたって発生し、顕現した幾多の原理や神の属性で、巨大なる貯源(リザーヴァー)とでもいうべきものが造り上げられました。この一切の善きものの大貯源は、如何なる種類の否定的状態もこれを侵すことのできなかった事実が、現在よく知られています。

この強大なる貯源、すなわち、神徳エネルギーと純乎として純なるものとの蓄積された力は、凡ゆる時代を通じて実在しており、われわれがその脈々として生動している力について思いを致した瞬間、それが同時にわれわれ自身の中にも実在していることに気付くのであります。この神徳の巨大なる貯源はいつでもわれわれの活用を待っているのであって、われわれは只、それに波調を合わせ、それと一体となればよいのです。

このエネルギーが現在は神という名で呼ばれているわけで(4)、「神」とは現在知られている最大の波動を感受する言葉であります。われわれがこの言葉を正しい意味で使用するならば(尤も何かの影響力を発揮しようというのであれば、それ以外の使用法といってはあり得ないのですが)、われわれはあらゆるものの本質とあらゆる法則と秩序とに働きかけていることになるのであります。

そして正しい形式に従って言葉に出したものはすでに実相において自分のものとなっているのです。まことにイエスが言われたように、『あなたが求める前にわたしは与え、あなたがまだ語っているのにわたしは聞き終った』のです。正確な順序と形式に従って正しい言葉を発すれば、その瞬間、言うたものが自分のものとなるのです。

この真理をよく考えることです。(発した言葉が実相の世界に現れるまでには、)時間・空間は介在しないのです。完全なるものは決してこれから新しく創造されるのではなく、始めから常に存在したし、又今でも存在しているのであります。もしわれわれが自分の表現によって完全なるものを創造するのだと考えるならば、それは完全な誤りです。

何故ならば、完全なるものはすでに実相の世界において創造(つく)られてあり、今此処に現存するからです。従って正しい言葉を使い、正しい想念、正しい行為をなすことによって、始めて口より出る言葉があの偉大なる波動〔神の波動〕の力に達することが出来るのであります。先ず想念を正し、然る後に言葉を出すことです。

わたしたちの聖書に、『始めに言葉ありき、言葉は神とともに在り、しかして言葉は神なりき』とあります。われわれが一切の否定的な想念・感情・言葉・行為を棄て去るようになるにつれて、前に申したあのエネルギーが体内に保存されるようになります。ところが一語たりとも否定的な言葉をもらしたが最後、神の純粋にして完全なるエネルギーを浪費したことになるのであります。

故に、吾々が思念・感情・話し方・行為などを積極的に建設的にするように自己訓練すればする程、われわれはこの強力なるエネルギーをより多く発生して自己の要求を満たし、完全なるものを現すようになるのであります。イエスの言葉はすべて今、此処に顕現しています。イエスの世界においては、未来はなく、一切が今なのです。初めて言葉が出来た頃には、未来を現す言葉も、過去に相当する言葉もありませんでした。

その語彙はすべて今・此処を現すものばかりです。同様にしてわれわれが積極的・建設的に発する言葉は、すべて(アカシック・レコードに-訳者)記録されて、決して消滅するものではないことが現在分かっています。『われ、神なり』という極めて明確なる言明こそ、人類を進化させる決定的要素のひとつであり、この理想によって始めてわれわれは進歩するのであります。

この事は各人が銘々で証明できることです。何かを成就するのは、きまって何か或る理想を掲げ、しかもそのヴィジョンに常に忠実である人であって、かかる人は大抵、何時の間にか成功しているのであります。崇拝とは、拝むだけで自分は何もせず、或いは神に頼んだら自分は何もしなくても神がやってくれるという単なる怠慢な行為ではないのです。

理想を実現するには、まず努力をすることが必要です。完全に描きつづけてきた理念は具体化しなければなりません。実をいうと、想念自体が事物を引き寄せて具体化するのです。ヴィジョンが明確に打ち出されると、その実現に必要な事物があらゆるものの本源から呼び出されて、それが全部凝結して具体的現実となるわけです。

従って、明確に打ち出したヴィジョンが具象化に先行するのであります。一時に一つの状態にのみ集中することが大切です。自分の思念を矢鱈に散らしてはいけません。初めに考えたことが実現するまでは、他の事を考えてさえいけません。一つの行為が完結したら、その事はすっかり放念して、次の行為に移ることです。

これがイエスの到達した決定的な悟りでした。『汝らは神(複数)なり、至(いと)高きものの子らなり』。これが人間存在の事実についてイエスの持っていた思想でした。常に最高のもの、常に最も気高きもの、常に最も純粋なるもの、常に光りをのみ思念することです。生命とエネルギーを限定するようなことは決して考えぬことです。

決して失敗はしないのです。故に決して疑ってはならないのです。常に自己の想念を規正して一定の目的を把持しつづけること、このようなヴィジョンを持ちつづけることこそが、人類をして恐怖や思念の不調和より超脱せしめ、常に正等覚を維持させ、かくてより大なる功用をもたらしめるのであります。われわれの惑星宇宙も亦、このようにして進行するのであります。

一切の惑星システムの中の太陽たちは、こういう風にして自己顕現をしています。即ちエネルギーを自分に引き寄せてはより大いなるエネルギーを放出しているのです。もしわれわれの太陽が単なる石炭の巨大なる塊であれば、何時かは燃え尽きてしまいましょう。しかし実際にはそうではなく、数億年も続いております。

それは力とエネルギーとを自分に引き寄せ、他の惑星やわれわれの地球にそれを利用させているのです。この事実によって、人間もエネルギーの交換ということを学び取らねばなりません。われわれが力を出すのを控えた瞬間に、停滞が始まります。しかし自己の持っているものを放出するならば、常に新しきものが流れ入ってきて、その空隙を埋めてくれます。

エネルギーは、正しい方向に正しい方法で使用しさえすれば、無尽蔵なものです。これがわれわれの肉体が更新する理由です。このエネルギーがもしわれわれの外に在るのであれば、それは又われわれの中にもある筈です。もし神が外にのみあるのであれば、われわれはその神を中に入れることはできないわけで、その場合、われわれに必要なのは、自分自身をこの神の力の出入口とすることだけです。

この神の力は絶えず脈々として鼓動し、涸渇することはあり得ない。人間、本来不死であるというのも、その真髄はここにあるのであります。のみならず、すべての想念・行為・言葉は消滅することなく永続するものであり、又凝結力があるものであって、人間はこれより免れることはできないのであります。人間が発動し放出した想念・言葉・行為が、すでに常在しているものを実現させて、完結するのです。

およそ事実として存在するものは、すべて始まることなく、終わることもなき大玄霊の中に常在しているのであります。人間はいつも、何かの始まりについてはよく訊ねるものですが、始めのないものを考えることは容易なことではありません。人間に関する限り、人間は意識のある存在、個々別々の存在として始まりました。その前は霊であったのです。

われわれはこの本来の霊の状態にいずれは達するのであります。科学と宗教とについて、従来の因襲に捉われることなく、新しい態度をとるようになれば、これまでにいろいろと宗教や科学によって約束されて来たより善きものを実現できるようになるでしょう。わたしたちが魂の目を開いてそれを認容するならば、そのより善きものは実はすでに今、此処にあるのであります。

神は決して人間の形をしているのではありません。神は全宇宙の一切の形あるもの、一切の原子に充満している至高の英智力であります。この至高の英智力が自分の形体の中に集中しているのだ、とあなたが悟った時、あなたはその力と成ったのであり、更に又、この力が自分を通して働くんだと、完全に認めた時、あなたはその力となったのであります。

人間一人一人にその力となる能力があるのであります。これが実は各人の生まれた処の神国という故里であり、すべての人がこのことを分かり且つ知ったとき、すべての人は神の国の者となるのであります。

          質 疑 応 答 
問 第一法則とは何ですか。
答 第一法則とは『吾は……である』(I AM)です。これは今では、失われた言葉となっています。しかし今では人々はそれを理解し始めています。「神で私はあるのである」という風に使うのです。

問 その『私は……である』"I AM"について大師がたがあなたに教えられたことをもっと知りたいものです。
答 『私は……である』"A IM"は聖語としては第二節目のコトバです。それは自分が神であることを完全に認容することなんです。「神で私はあるのである」God I am.です。従って「神」Godが第一番目です。そして自分がそれ(神であること)を認めて受け容れるのが、(次の)『私は……である』"I AM"という表現です。

問 聖霊(ホウリイ・ゴースト)とは何ですか。
答 聖霊とは、吾がすべては霊(ホウルスピリット)にして、その行為は(本来)いかなる形に於いても完全である、との意味です。 

問 どうすれば内在のキリストが出せますか。
答 一人一人の中にキリストが生まれなければなりません。イエスがその範を示されました。わが内にあるものに注意を向け、それに集中する事によって出ます。キリストはわが内にあるのです。

問 あなたのお書きになっておられる大師方に肉体離脱ができるというのに、それを知っている人々が非常に少ないのはどういう訳でしょうか。
答 人々が信じないからです。大師方は肉体離脱をするのではないのです。普通解り易くするために肉体離脱というのですが、本当は、大師方は肉体を自分の魂と共に連れ去るのです。

問 聖(サン)ジェルマン(5)に接触したことがありますか。
答 私達は聖ジェルマンも、彼の一生涯についても知っています。偉大なる生涯でした。聖ジェルマンが仮にも死の関門を経たと思うものは一人もいません。それに関連して、私は義弟と共に或る面白い体験をしました。義弟はアメリカで政府の或る大きな工事に従事していましたが、その後それをやめると、パリから彼に招聘の電報がきました。

パリ当局はパリ市の背後にある大きな沼沢地を干拓して肥沃な農地にすることを計画中だったのです。ところがその工事を始めている内に、セーヌ河が聖ジェルマンの墓を浸蝕し出したので、墓を移転しなければならない羽目になりました。そこで義弟はこの機会に、聖ジェルマンの棺を開けて遺骸を見ることもできようかと思い、私に電報を打って渡仏をすすめてくれました。私はそれに応じました。

さて、現地に着いて棺を開けてみると中には何と犬の股骨があるだけじゃありませんか。ところがそれ迄この場所で次々と数千の霊癒が起きていたのです。一体これはどうしたことでしょうか。実は、そこに来る人々はみな聖ジェルマンの成し遂げた偉大なる業のことばかり考えて、それに一心集中していたため、自分たちの病患は跡形もなく消え、完全円満な本来相が実現したのです。これは其の他の礼拝所に集まってくる殆どすべての人々にも当てはまることです。

問 神よりの権利によって、本来われわれのものとなっているものを何か欲しいと思うとき、それを要求するのは正しいことでしょうか。
答 神よりの権利によって、本来あなた方のものであるものが何かあるならば、ことさらにそれを要求する必要はありません。無い、足りないという迷妄をわれわれが認容するならば、われわれの欲する善きものは打ち消されてしまいます。

あなた方の内なる神性を現しさえすれば、使用したいものは何でもチャンと手許にあるのに気付くものです。これが悟れればことさらに善いこと、善いものを言い出さなくとも、すでに成就していることを知るようになります。欠乏など起こりようがないのです。

訳者註
(1) これは著書の誤解であって、この系譜はブラヴァッキー夫人の著書『ヴェールを剥がれたアイシス』と『シークレット・ドクトリン』(一八七五-一八九〇年)によって、その多くが恢復された。
(2) わざわざ師を求め、師について修行しなくても、独習によって魂が或る段階まで浄化されれば、内在の或は外在の師は現前するの意。
(3) 例えば曾て実存した太平洋上のムー(レミューリア)大陸、大西洋上のアトランティス大陸。
(4) 神を人間に似たものとする神学説が神人同形同性論で、これは実質的には神の無限・絶対性を否定する未発達な論である。神は一切の具体的説明を超越するものであって、これを力の面より捉える時、「神はエネルギーである」ということになる。事実神智学(Theosophy)では神をエネルギーとしての捉え方もする。
(5) 正確な生年月日は不明。稀な美貌で生国のイタリア語の外、英、仏、独、西、葡、露、瑞、デンマーク語及び、スラヴ語、東洋諸語を話す。全楽器に堪能で、特にヴァイオリンはパガニーニをさえ凌いだという。生来特別の霊能をもち、数々の予言を誤ったことがない。無類の記憶力もあり、同時に右手で詩を書き、左手で最も重大なる外交文書も書けた。

想念によって金属・鉱石を他の種に変えた。不死で今猶時折その永遠の若き美貌を現すことがあるという。いわゆる超人の一人。又、人類を指導する七大師の一人。別名、ラコーシ大師。本書巻末付録参照。