~第四章 久遠の生命~ 

神より特に選ばれ〔神の像を吹き込まれ〕たアミーバ(1)の出現以来、神のイメージは決して変わるものではありません。このイメージは常に理想的な完全な形態のままであり、それが不変のまま、次々と全身の中で創造され行く新しい細胞に一つずつ伝えられて行きます。こうして全人類の肉体のすべての細胞は至高なる英智者の完全なイメージをもつだけでなく、実にこの様なイメージそのものでもあります。

かくして人間、乃至人類は、神性にして至高の英智そのものであり、更に又、それは神であり、征服者キリスト、神人、三位の完全なる一体化の結実であります。この事に対してわれわれはもはや反駁(はんばく)の余地もないまでに歴然たる証拠を持っています。まことにも、すべての種子にはやがて生り出づる形質のイメージが精確に内蔵されているのであります。

さて、ここで静かに座し、かくの如きアミーバが、増殖しながら人体だけでなく、あらゆる樹木、草の葉、花、結晶、岩石、砂粒に至るまで(その完全なるイメージを再生産しこれを送り出し)その形態を成形する細胞一つ一つにこれを伝え、誤りなくこれを植えつける力を特殊のカメラで直接に観察してみることにしましょう。事実、結晶をくわしく観察することによって、岩石の構造の種類がすぐに分類されるものです。

あらゆる鉱物や砂の場合でもそうです。このような結晶の仕方が、その特定の鉱物全体に対する関係、且つ又人類に対する関係と、経済的価値を知る基礎になります。ところで話を今開発中の高増幅速写装置に戻すことにしましょう。一番小さな種子でも、その発芽細胞を高増幅装置の下で撮影してみると、それがやがては誤ることなく造り出し、成り出でる形態を精確に宿しており、且つ又その誕生・発育の全過程を通じて或る周波数の波動を出していることが分かります。

実はこの波動を出すことによって、成熟に必要なエネルギーを自分に引き寄せているのです(2)。この周波は質料を蓄積乃至それ自身に引き寄せるところの神の謂わば生命素(ライフ・エッセンズ)であって、木や花、一切の植物は勿論、一切の鉱物や金属質にまで生命を与えるだけでなく、その質料の生命そのものでもあるのです。わたしたちは、今では誰憚(はばか)ることなく、すべての質料には生命があり、その生命は質料全体に表現されている、ということができます。

神のこの完全なるプランには、人間の想念がこれを高めるか堕(おと)すか(原文のまま-訳者)しない限り、変わり様がないのであります。人間はこれらの『完全なるもの』から放射されている波動を活用して、その生み出す力を益々大なるものにし、且つ又、いよいよ豊かに完全にすることが出来るのであります。もう一度、原始細胞即ちアミーバのことに戻りましょう。

この細胞は植物や鉱物の細胞とは全く違っていて、その波動率も鉱物や動物のそれなどとは比較にならぬ位極めて大きいものです。この波動率が実はエネルギーや質料を引き寄せて新しい細胞となり、しかも次々と創造されて行く細胞一つ一つに、神の誤つことなき完全なる原初の形態を伝えて行く原動力であることが分かりました。人間が神の理念に協力し、我の思いや言葉、行いでその働きに干渉さえしなければ、人間の形態は理想的に完全である筈のことが、この一事でもはっきり解るのであります。

故に、この協力がなされるならば、人体は純粋にして完全なる神体と言い得るのであります。この単細胞たるアミーバから神のエネルギーと「智慧ある原理」が放射され、更に又、独自の大波動原理がエネルギーを自分に引き寄せて分裂増殖を始めて、遂に一個の大きな中枢即ち一個の形体と成り、今度はその中でいろいろ(と細部の)形態を造成したり調整したりして、自分自身のイメージとしての形体を押し出すのであります。

人類の実相はその完全なる形態(すなわち神のイメージ)から未だ曾て逸脱したことはないのです。この完全なる形態(複数)が、一つ一つの細胞だけでなく、新しく創造(つく)り出されてくる完全な細胞まで包摂〔刻印〕しているのが、写真で分かります。一般の科学がまだ証明資料を持っていなかった頃、わたしたちはすでに、人間が〔宗教物理的にいえば〕かの大いなる放射波長体(great emanating frequency)であることを完全に、且つ直接に知る方向に向かって一歩一歩進んでいました。

(かくて全身の細胞の一つ一つが完全なる神のイメージなのであります。)試みに暫し静坐して、『吾、神なり、もの皆、亦又然り』、『吾、神の智慧なり』との言を作(な)し、〔その反応を体得してみるがよいのです。〕かくて又、一切の疑いを去って『吾、神なる原理(God Principle)なり、吾、神の愛にして、神の愛、吾より流れ出て、全世界を霑(うるお)す』ことを自認することです。

自分自身の神と観じ、自分の会う人々、相まみゆる人々すべてを神として観ずるのです。〔常にこの観をなしつづけていると〕やがてあなた方は極細微の生命界で演ぜられつつある神秘が見えるようになるでしょう。即ち、ジェリーのように透明で、不可視ともいうべき一滴の原形質が、太陽からエネルギーを抽出して運動するのを見るようになります。

この原形質は光線を利用して、原子を強制的に分離して空中の二酸化炭素を破壊し、水から水素を取り出して炭水化物を創り、かくして世界で最も安定した化合物から自分自身の食物を造ることをすでにやってのけているのです。この透明な小水滴のような渺たる単細胞は、その中にすべての生命の萌芽を擁しています。

それは萌芽だけでなく、大小一切の生物に生命そのものを分与する力を有(も)ち、且つ又、海洋(わだつみ)の底より頭上の宇宙にさえ至るまで、凡そ生命の存する処、その場所の如何に拘わらず、当該生物をしてその環境に適応もさせるのであります。一切の生物は、時間の経過に従い、且つ環境に従って、無限に異なる様々の条件に適合するように、その形態を塑造します。

こうしてこれらの生物は〔次第に〕独自性を発達させて行きますが、〔その反面、或る段階までくると〕その変化する柔軟性を若干犠牲にして、特殊化し固定して〔環境に合致させ〕、やがて原初〔の形態・機能〕に戻る力は失うが、〔その代り〕その生存条件に対するより良き、より大なる適性を得るのであります。この小さな一滴(ひとしずく)の原形質の力とその中身〔の力〕は、地球を緑で蔽う植物群〔総体〕よりも偉大であり、生命の息を呼吸する動物すべてよりも偉大であります。

なぜならば、一切の生命は原形質より来るのであって、それなくしては如何なる生物も存在しないであろうし、又存在し得ないからです。皆さんは、以上申しのべたことが絶対的な真理であることが次第に解るようになりましょう。又人間こそがこの生命の普遍的根源であること〔原文のまま-訳者〕を、人類全体がいずれはわれわれと同様に知るでありましょう。

人間は至高の英智を完全に与えられており、鉱物・植物界はもちろん動物界の主であり、事実ありとしあらゆるものの中心であります。この神智を人間は未だ曾て失ったことは〔本当は〕ないのです。ただ残念ながら彼の思想が低下し、且つそれがそのまま次々と累積して行ったために、この神の相続財産に気付かないだけなのです。

では、われわれはこの辺でこのような低下した思想構造を中絶し、放下し、忘れ去り、赦し、人間としての真の思想構造〔物の考え方〕、即ち〔人間が〕至高の英智者、一切の主、神人一体である事を明らかにする人間構造を確立しようではありませんか。さて、一個のアミーバは秩序整然と配置された無数の原子より成り、顕微鏡でしか見えない高度に発達した生ける細胞です。

しかし無限者にとってはその大小は何等問題ではなく、渺たる原子でも太陽系と同様に完全に造られているのであります。この細胞が分裂して二個となり、二個が分裂して四個となり、かくして無限に続きます。すべての生物の細胞がそうです。一つ一つの細胞それ自身の中に新しい完全なる一個の細胞を生み出す力がある。細胞自身は不死です。

この細胞が現在の動物・植物、その他一切の生物の細胞を形成するのであって、しかもその各々がそれぞれの先祖と全く同じになるのであります。人類としてのわれわれも亦、この無数の同じ秩序正しき細胞から成っているのであって、一つ一つの細胞は定められた働きを献身的に完全に且つ知的に果している肉体という一王国の一市民のごときものです。

この一個の細胞が又日光を利用して化合物を分解し、自分の食物を自分で造る。しかも同胞たる他の細胞の分まで造る力があるのです。以上の分裂は生命それ自身の本質の一つであって、絶対的・基本的なものであることが分かります。これらすべてが神の働きであり、この働きが不滅である証拠が揃っているのに、それでも猶且つ人間が地上に於いても本来不滅であることを否定し得るというのでしょうか。

生きとし生けるものはすべて単一の細胞からスタートしたもので、人間であろうと、亀であろうと、兔であろうと、この原発細胞はその子孫たる細胞全部に否応なしにその職務を果たさせ、且つ被造物としての形態機能(デザイン)を一歩も逸脱せずに守り通させているのであります。これらの細胞は明らかに、推理力と本能ともいうべき英智とを持っていることが分っています。

というのは周知の通り、分裂を終えるとこの細胞たちの一部は、身体全体の要求に応ずるために自分の性質をすっかり変えさせられるからです(3)。何故でしょうか。それは神のプランがそこに印せられているからであって、しかもこのプランは外部の変化に屈従しないからです。これ即ち人間が神性であり、完全であり、不敗である所以(ゆえん)であります。

人間の我がどんな考え方を組み立てようと、このプランには絶対に抵抗し得るものではなく、変更し得るものでもありません。これは強制支配の第一原理であります。その故にこそ人間は最高なるものに到達し得る能力を持つのであり、しかも実に豊かに有つのであります。たとえ頓得の悟りによって至高の域に一気には達し得なくても、これまで何かと自分の邪魔をして来た迷妄の想念構造を、真実なる想念構造に変えるだけでよいのです。

この真実の想念構造は、実は本来彼自身の心の中にしっかりと定着し、天賦の本能として常に宿っているのであって、何かものを思うにつけても最高なものに憧れ、最高のものに到達しようとの考えを起こさせる仕組みになっているのであります。この最高の目標(ゴール)を達成するのに最も容易(たやす)い方法は、「繰り返し(輪廻再生)の車輪」に自分を縛りつけていた虚仮不実(こけふじつ)の想念構造を永久に放下して、確実に至高の域に到達せしめる不敗の想念構造を築き上げるように直ちに実践に移ることです。

そのために先ず勧めたいことは、すべて一切の成功は神から出て来るのであって、神が一切の成功の源であり、唯一の中心点であることを明確に知った上で、『神』という思いと言葉とを心に植えつけることです。次には『吾、神なり、故に吾、成功す』という想念を、成功の想念とともに定着させること。次に、『吾は神にして、真摯な努力をなすが故に、すべて豊けく成功す』と想念すること。

次に、『吾、神なるが故に精確なる智慧にして且つそれに伴う能力を兼備し、常に成功するのである』と宣言すること。次に、『吾は神にして無限の愛なるが故に、一切の質料(サブスタンス)を吾に引き寄せて成功をもたらす』と宣言すること。愛は宇宙における最大の集結力であることがわかれば、次に出てくる宣言は、『吾、神なるが故に、適正有効なる方法経路を以て一切を成功に導く英智である』、となり、更に次に続くのであります。

即ち、『吾神なるが故に、完全なる三位一体、神にして常勝キリスト、神人、一切の創造の焦点である。』さて、今度は神の細胞(複数)について見てみましょう。神の細胞は決して失敗することも変化することもなく、従って人間は神性である他に変りようがないのであります。人間の脳はこの神の細胞で造られています。人間の本性としての心が変らないのは、この道理によるのであります。

想念はもともと潜在意識の単なる反射にすぎないから、一分間に数千回も変ることがあります。人間に自由意志があるというのはここのことです。人間はどんな考え方でも、或は又自分が見たり聞いたりしたことを、自分の潜在意識に信じ込ましたり、貯めておいたりさせることが出来るわけです。しかし潜在意識は脳を構成している部分ではありません。

それは心臓中枢の真下にある真細胞(true cells)の神経叢なのです。この細胞達は不純とか不完全とかいうものを全く知らないので、およそあなた方が考えるもの、話すものをすべてそのまま受け取って貯えるのであって、取捨選択することがありません。更に又、貯えておいたものを繰り返すくせがあって、そのために人間は繰り返されたものを真実と思って信じ始め、やがて真実と虚偽との見分けがつかなくなるのです。

しかしながらこの細胞群に直接話しかけ、聞かせてやることによって虚偽を一切放下させ、真実絶対なるものを受け容れ記録するようにさせることができるのです。故に、この細胞群に虚妄や消極的な性質を帯びたもの、そのような思想・言文など一切を放下するように暗示することです。そうすれば、そのうちにあなたの潜在意識界には只、真実にして建設的な思想のみが記録されているのに気付くでしょう。

それはやがてあなた自身に、且つ又あなたを通して外部に反射して行き、かくして主体的な目的意識より生ずる深い落ちつきが自分に具わっていることが、自分でも分かるようになるでしょう。これらの細胞群は特に教えない限り取捨選択することを全く知りません。従って、それは非常に従順で、真理の導きや影響を喜んで受けることが分かります。

多くの人々がこの真理の応用の仕方(潜在意識の性質を利用して、潜在意識に真理のみを考えるように訓練すること)を聞いて、実際躍り上らんばかりに喜んだものです。幾千兆億の細胞は、これを正しい処で正しい時に正しい事をするように仕向けることができるものです。われわれが真摯である限り、潜在意識は文字通りいつも従順であります。

人間の生命は、無生物には全くないような、又全く理解のできないような、抑えることのできない衝動とエネルギーとを以て、新しい、より善きものを造り上げ、修正し、伸展させ、創造しながら前進するものです。人体の各細胞には、英智ある本能と支配力とが満ち満ちています。尤も、細胞達がこの神性なる支配力より一見したところ逸脱したように見えることがあり、その逸脱がどの程度のものであるかは今問うところではありません。

外部の事情、つまりこの細胞群に催眠効果〔本来非実在の病・貧困・不能等の消極状態に迷い込ませること〕を与えているものは暫く問わぬとして、これらの細胞がこの神性なる支配力を受けているのを肉眼を以て見るのは全く私達にとっては特権であります。又そのような催眠効果に迷い込んでいる人にしても、本当は皆、人間頭脳という無限に複雑なる細胞構造を備えていることを知るのは、何という喜びでしょう。

実にこの頭脳にこそ人間、否、全人類を最高の完成の域に進ましめる力が潜んでいるのです。全人類が神の心というこの偉大なる建物の中で互いに繋がり合っているのを知ることは、まことに神より与えられた悦びであります。崇高なる神の心より発するこの『吾は……なり』(I AM)を試みに使用してみれば、それが天の窓々を開き、実相顕現への道はすべてこの『吾は……なり』(I AM)によって満たされることがわかり、祝福せざるを得なくなりましょう(4)。

篤信家たる者はすべて、『神なる私は一切を知る原理(knowing principle)である』と自分に言い聞かさなければならないのであります。そうするとき宇宙の数々の神秘が開かれ、尽くることなき宇宙の豊かさに目が開かれるようになるのであります。先ずは、試してごらんなさい。但しその際、必ず思った通りになるという積極的態度を崩さぬことです。

エリアのように、コップを一旦挙げたら、満ち溢れるまで持ち続けることです(5)。唯一心(神)の能力(ちから)を夢にも疑わぬことです。人間が神の心に斉合すれば、神は常にこれらの奇蹟を演じようと待ち構えておられます。その点で、実は人類の歴史は少なくとも百万年前まで遡れるのであって、その証拠も科学者を満足させるだけのものは十分に備わっています。

しかし、この百万年という長さにしても、実は最少限の見積りであることを知らねばなりません。と申すのは、人類の歴史は、実は人間の理解を遙かに超えた古代にまで遡るからです。われわれが唯一心に即入すれば視野がおのずからに拡大され、人類が曾て神の心に対して忠実であった過去の時代を全人類に示すこともできるし、又『神なる吾は神の心なり』と宣言することによって、自分のものの考え方をすぐに神の心に合わせることができるのであります。

同時にそう宣言することが真理であって、神の法則と原理に完全に一致することが容易に理解されるのであります。前述の『吾は……なり』と『神なる私は一切を知る原理である』との神我顕現法を駆使すれば、宇宙の豊かさを知り、自己の無限の能力が開かれ、欲するもの好ましきものがおのずと展開するようになり、かくして、あなたは自分の周囲ことごとくが本来是天国なのであったことを十分に自覚するようになるのであります。

然も自分のみならず他の人々も亦、自分と同じくかかる境地に達せしめ得るものであることを、今こそ悟る絶好の機会であります。さて、物質という観念は、妄念によって実在として祀り上げられるまでは、本来は無かったことをよく知って頂きたい。物質が微笑むことは決してないし、自分自身を統御する力もエネルギーもないことを忘れないで頂きたい。

物質には本能も、自分自身の意志も、欠けているのであります。渡り鳥は季節の来る毎に移動して行くべき先を実際に知っているから、外部から方向をガイドする器械など不要です。器械はまさしくあの小さな頭の細胞の中にこそあるのです。まして万物の霊長であるあなた方の場合は、一層偉大なる器械がガイドしているのです。

なぜなら、まさしくあなた方の脳細胞の中にガイドするものが具わっており、自分の心は完全にコントロールをしていると考えた時、直ちに心はその通りにコントロールの働きを始めるものだからです。渡り鳥は千哩以上もの大海の上を翔(と)んで行くが、方角を見失うことは絶対にありません。人間にも本来は全くこれと同じ方向感覚があるのですが、無いと思い込んでしまっているためにこの能力を見失ってしまっているのです。

しかし神心には一物(いちもつ)とても失われるものはありません。この感覚が人間に備わっているのも、この神心のためであって、人間は本来心であり、神性であるのです。従って神の心と再び一体となるのであれば、人間が真理から逸脱することは決してなく、又何事も成就し得ないということも決してないでありましょう。動物には逆念を起こすことがないために、本能や直覚を失う事は決してありません。

犬に人間や動物の足跡をつけさせても、『自分にこんなことができるだろうか』などと考えたりはしないから、素直に歩き出して、結局、匂いが消されるか、又は目標に達するまで足跡をつけて行くものです。人間は獣や鳥より遙かに能力があるのに、自分で動物に劣ると決め込んでしまったのです。

人間の体内には本来完全なる種々のカラクリが具備していることを本当に知り、本来すでに神=神心に完全に即入していることを十分に悟るならば、場所から場所への移動にしても無限の速度で易々としてやってのけることができるものです。人間の頭脳はすでに真実心が完全に備わっており、見えざるもの無く、知らざるもの無き真・心と協力するとき、あらゆる才能の高みを瞬時に、且つ完全に極めつくし、道すでに明らかにしてもはやさ迷うこと無き境地に達するのであって、そのことはすでに明々白々に証(あか)しが立てられているのであります。

皆さん、ただ手を差し出しさえすれば神に触れることができるのです。さあ、ご自分の身体に手を当ててごらんなさい。皆さんは今、神を同時に見、且つ触れたのです。仕事の都合で一日中に百人から千人の人に会えば百度から千度も神々を見たことになるのです。人によっては毎日それを繰り返しているのもいる筈です。すべての人を神と見て、いつも身近に神を感じつづけることです。

そうすれば、神は本当にあなた方の近くに臨在し給うようになり、神を二度と何処か遠い天国や神殿の中に押し込めることはしなくなり、従って又神の在所とは人の手を以て造ったものではないことが分かるようになるでしょう。更に又自分の身体こそ、およそこれまでに造られたものの中の第一にして最大の神殿であり、唯一の神の在所であることも分かるでしょう。

然らばこの聖所の中にこそ、征服者キリストたる神人を見ることです。これこそがあなたの身体を維持している生命そのものです。神を抜き出してごらんなさい、或は前者〔生命〕を後者〔肉体〕より引き離してごらんなさい、あなたの肉体は死あるのみです。人間は今日まで、およそこの地上において過去に存在し又且つ現在存在している大いなる神殿をすべて建造して来たが、肉体というこの偉大なる神殿と全く同じものを建造したことは未だ曾てありません。

肉体は最大の工場であるだけでなく、自己自身を再生させる力をも備えています。然るに人間はこの肉体神殿を極度に冒涜して来て、いわゆる死の中に横えなければならぬ所までそれを冒涜したのであります。しかし今や勝利の誇りとともに、それは再び起ち上がります。人間は自己限定をしているため、一個の目すら造ることはできません。ここで一切の自己限定をかなぐり捨てることです。

そうすれば、目にしろ人体の如何なる部分にしろ再生せしめ、新たならしめ、死を征服することさえできるのです。さて、神性なる英智と原理とが厳然として存在しているのであるが、〔以下、特に本叢書第三巻第七章参照〕それは決して一つのものや一人の人物が打ち樹てたものではなく、数億人もの人々の築き上げた或る偉大なる文明を通じて打ち樹てられたのです。

この人々の考え方が非常に強力(ダイナミック)であったので、人体のすべての原子は勿論、全宇宙のあらゆる原子に浸透し、すべてを支配する力をも持つようになり、さらに又精神行為を規正する力になり、そのままの状態で固定するようになりました。こうしてそれは人体の全細胞にその力を刻印し、この神性英智を現す光が一番始めの細胞に集中した結果、人類各個人の神の真実の似姿に何らの変化も生ずることなしに、神性は世代から世代へと数十億年も伝わってきたのであります。

すでに不変の法則として確立された以上、言い換えれば宇宙において一旦法則となったものは不変である以上、それは今後尚、数十億年もの間、不変のままで存在し続けるでしょう。法則(ロー)は主(ロード)とならねばならない、すべての精神行為には一つの法則、即ち一人の主のみしかないからであります。そして人間こそが神聖なる法則を完全にコントロールする主なのであります。

先に述べた偉大なる精神行為から数百万年にわたって太平の時代が現出しました。その間、各人が自分自身の領域においては征服者キリスト・王でありながら、皆んなのためになることに関しては、何ら自分とか自分の利得とかの考えを持たず、喜んで人々を援助し人達のために働いたのであります。ところが、やがて或るグループたちが現れ、自由意思にもとづく思想と行為を主張して自分自身のことにかまけ始めたのであります。

そして彼らは変化を求め、物質的なものについての智識を求め、全体よりは個人の利益を追求するようになり、かくして沢山の人々が当時のいわゆる本家から離れて行き、遂にはこの反対派のグループたちが合流して大きな勢力ともなり、そのうちに彼らの思想自体に混乱が生じ、後にそれを反映して自然条件までが混乱して太陽の中で大爆発が起こり、それが少なくとも百万年は続いたのでした。

さて、われわれの太陽系宇宙の惑星や星座はそれぞれに間をおきながら出現したのでした。一方、既述の混乱状況が起きる前に一応人類は心の中で神性にふさわしい調和を取り戻していたので、さすがの変動にも秩序が回復しました。それはいかにも神性にふさわしく精密で完全であり、未来に星や惑星が出現するとすれば、その場所を秒の時刻まで数学的に予知できる程でした。

この釣合は過去十億年の間、何らの変化もなかった程の完全さであり、従ってそれは今後も永遠に不変であることを示しています。そういうわけで、完全なる法則(ロー)即ち行為の主(ロード)となることが如何なるものであるかが皆さんにもお分かりになった筈です。このような完全法則、即ち行為の主たることは人類が嘗て打ち樹てた或る偉大なる文明を通じ、且つ又その文明を通じて発揮された完全なる真理の理解にもとづく打って一丸となった意志によって出現したのであります。

かくの如く理解されたものに対して与えられたのが神という言葉乃至名前であります。この言葉を最大の周波数で発声することも十分に知られていたことで、そのために神なる語は一切の言語の最上位に置かれたのであります。この神なる言葉には、始めは人間の形態を示唆するようなものは何一つ無く、ただ全人類が打ち樹てた大いなる神性原理を意味するだけでした。

この人類は天国に住んでいたわけですが、天国とは彼らにとっては(今だってそうですが)変わることなき神性原理そのものであり、人体内部の調和であり、それが心であり、その心を又神といったのであります。この言葉の尊い由来と内容とが分かったとき、この言葉によってあらゆる円満完全なる状態が人類にもたらされるのであります。

この神聖にして不偏完全なる法則即主が全大宇宙を支配しています。従ってそれが全太陽系宇宙をも支配していることが分かります。それと同時に植物・鉱物・動物界のみならず、人間全体をも決定的に支配しているのであります。さて、先程申し述べた大変動の間に、大部分の正しい考え方の人々から分離した連中は、殆ど全部が非業の死を遂げました。

生き残った者は洞穴や僅かばかりの隠れ家に雨露を凌がなければならなくなり、食糧も乏しくなったため、当然食うことが大切な問題となり、結局、彼らの大部分が人間の肉を喰うようになったのです(6)。自ら招いたこのような状態のため、彼らは「本家」から益々分離するだけでなく、お互い同士をも引き離す結果となり、やがて行き永らえるためには種族の形をとらなければならなくなり、結局は前に持っていた智識も全部忘れ果て、かくて遊牧の民となったのであります。

これが『物質的』といわれている民族の先祖に当たります。さてこの分離は百万年をかなり上廻る間も続いて来たのですが、文派の彼らには自分たちが実は神の計画の一部に組み込まれていると感得する半ば本能ともいうべき或るものがまだ残続していました。従って彼らの中には恐れ気もなく、公然と誰憚るところなく、自分たちに主たる資質の備わっていることを言明する者も少くなく、更に一切の束縛より完全に脱するところまで進化したものも一部出たのであります。

一方、かの「本家」の大集団で行動を共にした人々は、あの混沌たる変動を、すべてその神性をいささかも失うことなく、完全な平安と落ちつきの中にやり過したのでありますが、それは何ものを以てしても彼らの神性を失わせることも取りのけることもできないことを彼ら自身が知っていたからです。しかし彼らは、こういったことも彼らが特に選ばれたからであるからとか、すべての人々以上の力があったからなどとは、決して言いませんでした。

この偉大なる文明がこの地球上を支配している間は陸も海も平穏で、陸海ともに何らの変異もなく、微風が柔しく吹いては人々に活気を与え、人々の行動の妨げとなるものも一切なく、又時間・空間の制限も受けずに、欲するがままに何処までも移動して往き来しました。彼らは常に永遠の立場において物を考えるのでした。

又ものを考えるにしても言うにしても、神の教えの通りに、しかも、明確な目的を以てしたので、それが神の心の中にしっかりと定着し明確に記録され、これらが後の世のあらゆる供給・行為・計画に役立つ一大貯源の基礎ともなり、堡塁(とりで)ともなったのであります。こうして人類は何処においても、あらゆる種類の成功を可能ならしめる給源を身近に有つことになったのです。

それというのも、全人類がお互いを神人と見なしたからでありました。人各自が神・征服者キリスト・神人の三位一体、すべてに完全なる三位一体であり、神を顕現する焦点であったのであります。当時の言葉には一語と雖も消極的な言葉はなく、片々たる過去や又未来を現す言葉もなく、すべては今此処に於いて完全に成就し、完成している意味の言葉だけしかありませんでした。

現在の人類が復帰しようとして苦闘している高度の進化の状態は、すべてこのいわゆる高度文明時代に達成されてしまっており、それは全部記録の上に残っています(7)。人類がもし様々に分裂した思想や個人の様々な業績とで混乱した、このいわゆる物質主義時代に超然として己を持するならば、これらの記録に接することもできるのです。

こういう業績・行為はすべて普遍心質料(8)という大倉庫に明確に記録されており、人類がもし自らの自由意志で災害を招き寄せた、前述の人々の持っていたような騒がしき利己心を静めれば、その瞬間にこれらの記録を抽き出すことができます。事情かくの如きであってみれば、最大の希望は未来の若き世代です。

若き世代の人々は肉体的、精神的、更に機械的にも最良の技能・力量を持っており、欠けているのは、礼儀と判断力であって、これは今後の体験によって調整され、やがて完熟した人間となるでしょう。しかし体験に代って最大のガイドとなるのは習慣です。何故なら、善い習慣は得るに易く、悪習慣と同じく破るに難いからです。

前述の偉大なる文明の後に生き残った人々の考えによれば、当時の人々が一人残さず先程申し述べた大変動によって失われたとしても、すでに真理ははっきりと打ち出されて普遍心質に徹底的に記録されていた以上、一物として失われるものはなかっただろう、ということですが、成る程と思われることです。

これはよく知られている事実ですが(9)、行為や語調にしてもそうですが、本来の意味を明確な意図を以て発した積極的な言葉はすべて神の心と吾々が称している神性心質に全部秩序正しく記録されていて、肉眼・肉耳を以て目のあたりに見たり聞いたりすることのできる程度にまで再生したり、写真にとることもできるのです。

これもよく知られている事実ですが、この偉大なる文明はその一部分が今日までもそのまま伝わっています(10)。多少人目のふれぬところに引っ込んではいますが、今や時節を待っているのです。しかもその時節はそう遠くもなく、その時にこそ出現してその姿・由緒を明らかにするでしょう。

その時とは、人類の中で相当数の人々が、思い思いの神について持っているそれぞれの先入観念、しかも神を自分の外部に存在する偉い者という先入観念をすてて、その代り一切の人々が絶対神・征服者キリスト・神人の三位一体を認め、それが全人類を通じ、全人類によって述べられ得るようになった時であると、大師方は言っておられます。

先ほど述べた「記録」は決してこれを変えたり歪めたりすることはできないし、いわゆる時の流れもこれを曲げることはできません。又、奇蹟や超人体験でもなく、自然不変の状態なのです。事実それはあらゆる星辰を支配し統御している不変の法則と全く同じであります。この法則やこの法則の及ぼす影響こそは、どんな数々の言葉よりも人間の成し遂げる力の偉大さを雄弁に物語るものです。

しかもこの人々は、何も超大な支配力をもった人種でもなければ、超自然的な種族でもなく、現在のあなた方やわたしのように、全部同一の神に似た同一の姿形であるところに素晴らしさがあるのであります。

では皆さん、わたしたちは先ず一切の人々に神を観じ、すべての人々の顔に征服者キリストを見、すべての人を自他一体の神人とし、自己の外部に立てられた形像一切は、言葉のひびきだけでもすぐに崩れ去る偶像にしかすぎぬことをよく弁え、その上で唯一の崇高偉大なる神人、即ち人間一人一人を相共に崇拝しようではありませんか。

こうして始めて人は科学と宗教とに、源を共にする衣を着せることができるのであります(11)。それは一切は唯一の真理から発しているからです。真理がすべての科学にとっての法則です。神性を考えることによって人は自分の中に神性を確立し、同時にあの宇宙エネルギーと力との大貯蔵を増やすことになり、その力を増大させることになるのであります。

皆さんにもそのような力を高め、それを大いなる行動力に仕上げることができるのであります。現に四六時中、その力を増やしつつある人々が数百万もいます。皆さんもその気になれば、その仲間に加わることができるのであります。

         質 疑 応 答 
問 インスピレーションは何処から来るのですか。
答 アイディアの世界はわたしたちの周囲一切にあります。インスピレーションの意味についてはいろいろ考え方がありますが、大抵のいわゆるインスピレーションは感情の表現であって大した意義はありません。但しもっと深いところから催してくる感情の表現は別です。その他のインスピレーションは聡明の閃きであって、危急の際に賢明なる行為を可能ならしめるものです。多分質問者は、哲学者や聖人たちがその精進努力によって獲ち得られた深遠なる思想のことを心で思っておられるでしょうが、それが本物です。

問 どうすればインスピレーションが得られますか。
答 わたしたちの身体をよく訓練して、宇宙心の流れを受信するチャンネルにし、その力を変圧して、種々様々の現象の中に現れている宇宙法則を感じ取るようにすることです。それによって、インスピレーションを或る意味では自分自身の中で発生させるわけです。

問 それなら、われわれのアイディアが外部から来るように思われるのは何故でしょう。
答 わたしたちの現在の発達段階では、自分の中で活動している力全部の本源を認識するところまでは行っていません。生命がひとつの宇宙力であることは、われわれの生理機能を営んでいる組織で解っているのですが、生命が何処より来り、肉体を去ってからのち何処へ去るのかは解っていません。例えば、われわれは電気を毎日使用し、電気を起し得ることは知っていますが、それが何処から来るのかは解っていません。

想念をアイディアとして現れたひとつの力だと定義すれば幾らか解りにくいかも知れないが、電気の場合とよく似ていることははっきりしています。われわれは物を考えはしますが、そのエネルギーがどこから来るのか、その源は秘められたままです。しかしそれにも拘わらず、われわれは考える能力や効率を増やすことはできます。

インスピレーションが自分の中から出てくるといわれると、普通の人々が混乱するのは無理もありません。インスピレーションは見かけからいえば確かに外から来たるべきもののように思われます。丁度電気と生命の場合と同じで、或る条件を整えると生命と電動力とは自分の自由になります。それと同じく、心の準備を整えると、確実にインスピレーションが自分の中で起こるのです。

問 現在の混乱した社会状態について、あなたはどのような態度を持しておられますか。
答 わたしはそういったことには全然エネルギーを使いません。われわれが混乱状態について考えるために消費しているエネルギーを引き揚げて、それで以てわれわれ自身の身体条件を整えるならば、われわれはどんな状態でも、すぐに是正することができる筈です。

訳者註
(1) 本叢書第三巻七章参照。
(2) エネルギーの放射と吸引については、ゼイムズ・チャーチワード著『ムー大陸の宇宙力』(James Churchward:Cosmic Forces of Mu)第二章参照。
(3) 皮膚・骨・神経・筋肉・内臓各器官・眼球・歯・血液等々、悉く同一細胞が変成したもので、これらに欠損等が生じた場合は、他の器官・組織の細胞が動員されて、欠損した箇所に移動して、同器官の細胞に変性する。
(4) 自分が成りたいと思う理想の状態に『吾(すでに)成れり』『吾は(理想の状態)である』と宣言すれば、その通りになる――との意味。これはあらゆる状態に適用される。
(5) 旧約聖書、列王紀上、十七章一-七節。
(6) チャーチワードも同様の説を立てている。『ムー大陸の子ら』参照。
(7) 例えば、トランス・ヒマラヤ仏教の諸文献にもあるが、ここでは「アカシック・レコード」を特に指すと思われる。
(8) 『秘められた教え』に従えば、宇宙は大別すれば七層にわかれ、最下層の物質界より、漸次、幽界・霊界・精神界(以下省略)等に及び、それぞれ物質・幽質(半物質)・霊質・心質より成る。これに応じて人間は物質体・幽体(幽質によって構成)・霊体(霊質によって構成)・精神体(心質によって構成)等(計七種)の複合体である。この個人の心質には、本人が現象界に出現して以来の一切が、又宇宙の精神界の心質には、宇宙が発生して一切の歴史が記録されているという。
(9) 現在の段階では、『秘められた教え』を学んでいる人々の間でのみ知られている。
(10) 南米のインカ文明の遺跡、東南太平洋上のイースター島の巨人像、等。チャーチワードはクメール文明の遺跡アンコールワット等も、その中に含めている。
(11) 往古にあっては、宗教と科学(医学を含む)とは不可分の一体であり、神職者は同時に、科学者・技師・医師等でもあった。