~第九章 僧院長は語る~ 

翌日の正午に、偉大なるラマが、宮殿で私たちに謁見をたまわるという連絡が届いた。その際の儀式についての心得を教えるために、その晩僧院長が宿舎に来てくれた。謁見の手続きはいつもは遅いのに、この度はそういうこともなしに許可になったことを彼は非常に喜んでくれた。

彼の話では、例のシャンバラから使者が出されて殿下に隊長一行のシャンバラ訪問が伝えられたので、その日のうちにこの特権が与えられたのだそうである。殿下は又、例の住居が忽然として変じた例の村でのわたしたちの言動などもお聞きになったという。わたしたちとしては、この国の全土にわたってわたしたちの仕事の継続を認可して頂くつもりだったので、出来るだけよい印象を与えたかった。

一方、ボゴト・ラマ、即ちこの地方の知事から昼前には御本人がここに来駕して、出来るだけわたしたちの手伝いをする、ということづけをよこしたという。これは全く驚きだった。この文では、明日はわたしたちのこの小人数の一行にとって事多き日となるのに間違いない。さて当日は早起きをして、歓迎隊と揃って知事に会いに出て行った。

知事はわたしたちのこの外交ゼスチュアーを非常に喜び、宮殿からの帰りには彼の賓客として一緒に来てくれと招待されたので、それを受けることとした。知事と一緒に宮殿に着くと貴賓室まで附き添われて行き、そこから、宮殿での謁見が正式に行われる前準備として為される第一番目の儀式が行われる部屋に、まっすぐ案内された。

着いてみると、三人のラマが敷物をしいた高い椅子の上に威儀を正して坐っており、それより低い階級の人達は床の上に結跏趺座で坐っている。赤いひだのある外套をつけた二人のラマが、高い床几の上に立って呪文の指揮をしている。管長は儀式用の傘をさしかけてある立派な席に座って知事を待っている。このラマ廟の堂塔伽藍には大きな中庭があり、今日のこの式のために厳飾(ごんじき)されている。

それらの装飾は一四一七年に起こった事件(1)を表現しているそうである。装飾図の各場面に僧院の石造りの祭壇上にいるツオン・カパ(2)の姿が描かれている。彼は大衆に向かって人間の修業の結果の偉大さについて説法したのち変貌し、肉体もろともに姿を消したのである。その後復活して黄帽派、即ちチベット改革教団を確立し、それ以来ラッサがその中心地となっている。

さて暫くすると、知事が従者を従えて入室し、真っ直ぐ高座に進むと、僧院長が降りて来た。二人は一緒に立ってわたしたちを迎え、ダライ・ラマの謁見室へ案内してくれた。この大きなホールは豪者なアプリケを施した絹の幕と、黄色い漆ぬりの家具で飾られている。従者に導かれてわたしたちは殿下の前に暫く膝まずいてから起立して、席に案内された。僧院長がスポークスマンになって、わたしたちの訪問の目的を述べた。

殿下は立ち上がって手招きをされたので、一人の侍従がわたしたちを玉座の前にしつらえた銘々の席に案内してくれた。僧院長と管長は別のそれぞれの上座(かしら)に席を占めた、やがて殿下が玉座から降りて来られ、わたしたちの前にお立ちになると、一人の侍従が捧げていた笏(しゃく)を受け取り、わたしたちの前を歩きながら一人々々の額に笏で軽く触れられた。

殿下は管長を通訳としてチベットへの歓迎の意を表せられ、この国に滞在中わたしたちを殿下の賓客とすることを名誉とされること、わたしたちが滞在する限り、又この国に戻って来る時は、いつでもこの国と国民との国賓であると考えて貰いたいと仰せられた。わたしたちは沢山の質問をしたが、翌日答えをするといわれ、また宮殿の倉庫にある多くの記録や石碑の調査を勧められた。

やがて殿下は一人の侍従を呼ぶと、幾つかの命令を下された。これは通訳はされなかったが、わたしたちの行動を制限しないで宮殿内を自由に振舞わせるようにとのことだと知らされた。やがて殿下がわたしたちに祝福を与え、一同と温かい握手を交わされたあと、わたしたちは僧院長と管長とに附添われて宿所に案内された。

このお二人はわれわれといろいろ話したいことが沢山あるのだが、宿舎の中に入ってもよいか等と聞くのであった。さて宿舎の中で、僧院長は語り出した、「あなた方があの小さな村(1)でわたしたちと一緒に過ごしてからというものは、珍しい事がたくさん起こってきました。わたしたちは僧院の中にある石碑を若干調べていますが、皆が皆、かつてゴビ砂漠に古い文明があったことを物語っています。

すべての文明と宗教の教えは、一つの源泉から来ているというのがわたしたちの考えです。いろんな記録はその出所や年代は分からないが。みな数百万年前に住んでいた或る国民の考え方を述べていることを知り、われわれは非常に満足を覚えている次第です。キスウ・アプウの或る遍歴ラマ僧がわたしたちのために翻訳してくれたものがあるが、その要約をここに持っているので、皆さんの許しを得て読んでみます。

しかし、読む前にお話したいことがあります。われわれの今の宗教観念は約数千年前にその源を発したもので、その頃住んでいた人々の考え方や信条のいわば混合物にすぎぬことを、われわれはよく知っています。その中の或るものは神話であり、別のものは伝説であり、さらに又、或るものは純粋にインスピレーションの性格をもったものです。

神のキリスト(神人)となることが個々人としての到達目標の一部であるのに、これらの宗教は何一つとしてこの最高目標を大まかにでも示したものはなく、またそのような目標を理念とする生活を送ることによって、その目標に到達することが可能であることも示していない。しかしながら、このような石碑がわれわれの中に長い間存在してきたのに、われわれがそれに気づかなかったのは一体どうしてなのでしょう。

仏陀や光を得た偉大なる方々が、実はそのことを説いておられたことが、今になって始めてわたしにもよく分かったのでした。この偉大なる方々にかくも身近にかくも長く暮らしてきておりながら、み教えの真実義をわれわれが捉え得なかったのは一体どうしてなのでしょう。われわれが敬愛申し上げるツオン・カパは、生涯をかけてこの高さにまで到達したことをわれわれは知っています。

その他の方々も、また諸氏が今日お会いした高貴なお方も、それを目指して高いところまで到達しておられるわけです。その方々が意のままに去来されるのも現に見ています。しかし一般大衆は僧侶達に支配され、踏みつけにされて、実に惨めです。何故、このようなことが続いているのでしょう。何故、大衆は偉大なる唯一の法則を操り、自分自らをその法則として出直すよう、教育されないのでしょう。

この古代文明時代には各個人がこの法則、この完全なる状態を実際に知り、それに従い、それを生き、それと一つになっていたことが分かります。それ以外の現象は全く人間の側に因由するものであって、それは完全という法則についての無智の結果です。この法則がまだよく整理されていないために、人類家族にそれを知らしてやることができないということはあり得ない。

もしそんなことが本当なら、それは法則そのものではなく、法則の一部であって、たかだか法則の一部しか現し得ない。全体の一部にすぎないものは、全体の一つの現れにすぎず、それは全体から離れて小さく固まり、遂には極もなければ全体とのつながりもない、一個の孤立した粒子となる。それでも猶、それは空間に軌道をもっているかのように見せかけているが、実は自分自身の軌道をもっていないために、自分自身の軌道を求めながら飛び廻っているのです。

それはただ本体の軌道を借りているだけであって、しかも本体と一体になることは決してないのです。われわれの太陽系、特に木星と火星との間には、現在この現象の実例が幾千となくあります。この空域には見かけ上太陽の周りの道を運行しているので、太陽につながっているように見える小天体が数千も存在しています。

それらは実は親である木星の引力と本当の根源である太陽への極の喪失とのために、木星の軌道を廻っているだけです。木星が排出されたときこの小天体群も排出されたのでした。しかし木星とは決して一つにならず、それでも本源である太陽を完全に無視して木星とともに飛び続けているのです。それはこの小天体群の中には、本源である太陽を中心とする極化の性質が欠けているためであることが、決定的に分かっています。

この場合、間違いは木星にあるのでしょうか。それとも本当の親である太陽にあるのでしょうか。それとも個々の小天体の側にあるのでしょうか。このことは人類の場合でも同じではないでしょうか。父なる神が間違っているのか。それとも大いなる悟りや智慧を得ている人々に誤りがあるのか。或は又、悟りや智慧の小さい人達に誤りがあるのか。誤りは全く、悟りや智慧の小さい人々の側になければなりません。

何故なら彼らは、彼らよりも悟りや智慧の大いなる人と一つになることを肯(がえ)んじないからです」。そのあと今度は、エミール師に向かって、また語った。「大いなる悟性がわたしを全部包み込んでいるのに、小さな悟性にわたしがしがみついていたことが、あなたにお会いして始めてわかりました。ところで、例の翻訳文のことに戻りましょう。

わたしが生涯の重要な転機に来たのはこの翻訳のおかげだからです。(読み出す)『大原因、即ち支配原理は、その子キリスト、完全なる人間を見給いて言い給うた。これは主なる神、吾が実存(My Being)の法則である、吾は彼に天と地とその中にあるすべての統治権を与えたのである。この完全なる一者はいかなる世俗の観念にも繋縛される必要はない。

そは吾が完全なる理念はいかなる束縛をも超えて高く挙げられ、吾が持つ権能(ちから)と領域とを持つからである。吾は、吾が実存(My Being)たる主なる神を通して、かく語る。吾が汝に与えるのは命令ではない。汝が神聖なる創造意志において吾と協力するならば、汝は他のいかなる者をも必要とせず、また吾が前にも汝自身の前にも、如何なる彫像をも崇拝の対象として立てる必要はない。

かくして汝はもろもろの像を神と呼ぶことなく、汝自らが神であり、吾またいたく汝に歓べることを知るであろう。汝は吾と同じ支配力を持つ。吾が子よ、いざ吾に寄れ、吾と一つとなれ、吾は汝自信である。共に吾々は神である。汝の体は理想たる神の体であり、しかも現に存在し、且つ人類がその形を取る以前にすでに存在していた神の体である。

これこそ人類の実存、神の創造である。全人類はこの真の自己の相(すがた)を受け容れさえすれば、この完全なる形と相とが現れるのである。これこそ人に属し、人として完全なる神の宮である。汝は天上、地上、若しくは水中にあるいかなるものをも彫像として崇拝してはならぬ。いかなる質料をも本尊、乃至、偶像としてはならぬ。

一切の創造的質料は汝に使用せしめるため、最大限度に押しつけてまで汝に与えてあるからである。汝はいかなる被造物に頭(こうべ)を下げることも、それらに仕えることも要らぬ。かくて又、妬むものとてなく、又、汝の後代の児孫に累を及ぼす罪、乃至、不義とてないであろう。何故何となれば、汝は常にその目を第一原因にのみしかと向け、毅然として立つからである。

その故に、かの第一原因なる汝の理念は減ずることができぬ。かくして汝は吾が汝に現したると同じ愛を示現する。この究極因者、即ち統御因者こそは、汝の父にして母である。その故に、汝の生きる日々は数知れぬ浜の真砂(まさご)よりも多きことを知り、この究極因者、即ち統御因者を崇敬するがよい。汝は傷害、破壊、殺害を欲してはならぬ。

一切の被造物は汝が創造したものだからである。彼らは汝の子ら、汝の同胞であり、吾が汝を愛するが如く、汝もまた彼らを愛するのである。汝は姦淫を犯してはならぬ。これらのものに汝が為したることは、何にてもあれ、汝の父母・兄弟・姉妹・乃至、汝の愛するものに為したこととなる。彼らは第一原因者が汝を愛するが如く、第一原因者の愛するものなるが故である。

汝は盗みを犯してはならぬ。何となれば、第一原因者より盗むこととなるが故である。もし第一原因者から盗むならば、汝自信から盗んでいるのである。汝はいかなる被造物にも偽りの誓いを立ててはならぬ。何となれば、そうすることにより汝は、汝自らである第一原因者に偽証することとなるからである。汝は貪(むさぼ)ってはならぬ。

何となれば貪ることにより汝は、汝自信である第一原因者より貪ることとなるからである。常に第一原因者と一体であることを肝に銘ずれば、汝は完全にして本来汝のものたるべきものを手中に収めるであろう。かくて汝は金・銀もて本尊を造り、神々として崇めることなく、汝自らを一切の至純なるものと一体と見るであろう。本来、汝は常に純乎として純なるものである。

然る時、汝は恐るることはないであろう。汝自身の他にはいかなる神も汝の証を立てには来ぬからである。第一原因者は人格をもつ者にはあらずして非人格的なる者であり、すべてのもののためにあり、又すべてを完全に包容する。然からば汝は祭壇を建て、その上に低き神々の火にはあらで、至高神なる支配原理の不尽の火をこそ起こし、常にそれを燃やし続けるがよい。真の原理即ち究極原因者の完全にして唯一人の生みし子、キリストなる汝自らを観よ。

このことを十分に知りたる暁に、汝が神なるコトバを発すれば、かのコトバは目に見ゆるものとなって現れるであろう。汝は造られたるものであると共に創り主でもある聖なる支配原理なる神の四囲、上、下、中にありて、共に一体である。諸天は神の声に従う。声なき神の声は人を通して語り給う。神語り給い、人また語る。神は常に人を通して語り給う。かくて人が語る時、神が語り給うのである」。

僧院長は、更に語りつづける、「以上読んだことに関して、わたしはこう思いました。これによってわたしの将来が今まで以上に明らかになったこと、又、自分の思い、言葉、行いはすべて明確でなければならないこと、又この明確な原理と一体となって生きて行かなければならぬことが分かりました。先ず最初に、思いと言葉と行いの中に描けば、その通りの者になることが分かりました。自分が表現した理念が具体化されるのです。

一番暗い時でも、その間中、神は依然として在すことが分かりました。恐れを抱いている時でも、わたしはわが裡に在すわが父なる神に、更に一層信頼し奉ります。すべて善く、わが完全性は完全にして、すでに今成就していることを十分に知るが故に、全く心安らかです。神は一切を包容する心、わが父であり、人は神のキリスト、わが父なる神の似姿であることが、今更ながら分かりました。

本源とわたしとは一つなのです。ゆっくりと、しかし確実に、絶対的な霊的ヴィジョンが近づいて来る。わたしがそれと気づいた時に、それはすでに此処にある。それは今、此処に十分にして完全に実在する。絶対的なる霊的ヴィジョンをわたしは讃える。それがわたしの最高の理念を成就しつつあることを、父よ、感謝し奉る。

働く時、わたしは違うことなき、神の意識ある法則と一致して働いていることを、いつも自覚しなければならないのです。『吾汝に吾が平安を与う、吾が愛を汝に与う、吾、汝に与うるは、世の与うる如きものに非ず(3)』という、み言葉が今解りました。『吾に裡なる宮を建てよ、I AM(神我)-が其処即ち汝らの中に住まんが為なり』の意味も悟りました。

即ちI AM(神我)とはあなたの神であり、あなたは又わたしと同じ(as I AM)神なのである。こう言えばとて、何らかの教会や組織のことを言うているのではありません。それは人の裡なる真実の平和の宮のことです。そこにすべてのものの源泉である神が現実に住み給うのです。人類は真の理念、即ち裡なる真我即神我I AMを共に来りて崇めんがために幕屋を建てたのです。

この裡なる宮を、神と人はすべてのもののために、持続し給うておられるのです。ところが、やがてこの幕屋そのものが崇拝せられ、空虚なる偶像が造り出されるようになったのです。それが即ち今日の教会です。わたしが真の理念を固守すると、わたしはわたし自身の裡なる神の声を聞く。この声による啓示が、人生におけるわたしのなす業に、慰めとインスピレーションと導きとを与えてくれます。

『二人もしくは三人ありて吾が名に於いて集らんに、I AM(神我)来りて彼らの中にあり』。これらの聖言の何と真実なることでしょう。それはI AM(神我)が常に裡に実在するからです。もしわたしが進歩したいのであれば、わたしは努力し、それ一筋に貫き通さなければならない。決してひるんだり挫けたりしてはならない。

わたしは父なる神の一人子キリスト、神の理念である。神は吾にいたく歓び給うておられるのである。わたしは父なる神を知り、見且つ神と同労する唯一人の者、神の知り給う唯一人の児孫――しかも神は又すべてを知り給うの――である。なぜならば、すべては一様にこう主張することができるからである。『こと成れり(4)』と」。

訳者註
(1) 後述のツオン・カパによるチベットの宗教改革。
(2) 当時のチベットの宗教を改革し向上させた。それまでの旧い紅衣紅帽に対し、黄帽を着したので通称「黄帽派」ともいう。
(3) ヨハネ伝十四章二十七節。
(4) 原語"IT IS FINISHED"(事終りぬ)は、イエスが十字架上で息絶える前に叫んだ言葉であるがここでは人間の実相の完全なることに寓意してある。