~第八章 ダライ・ラマ宮殿~ 

語り手の話が終わった時、始めてわたしたちは太陽がすでに子午線をかなり過ぎていることに気づいた。わたしたちは其処に坐ったまま、茫然というよりは恍惚としていた。それは、わたしたちが眼前にくり広げられた眺望の中に包み込まれていたからである。地平線は一体どこに行ってしまったのか。そのような思いも、わたしたちは全く抛棄してしまっていた。

わたしたちはすでに無限の中にあり、無限に所属したのである。無限に向かい、無限を受け容れた時、無限は吾がものとなったのである。読者はそれを異様に思うであろうか。とまれ、人間の実存の偉大さ、人間の歩み来れる相(すがた)の偉大さが、或は又大宇宙の大いなる計画の中に占める人間の位置の重大さが、わたしたちには把握できたであろうか。

いや、まだである。親愛なる読者諸氏よ、未だ志である。また世界はこれを受け容れてくれるだろうか。わたしたちは遠く遙かなる過去の中を観た。実際に現在を生きることによって未来を証明してみせるまでは、未来が何を予兆するかをわたしたちは知らない。しかし、数百万年もの長きにわたって過去がどんなものであったかは、わたしたちは観たのである。

未来は、わたしたちの眼前に描かれたように、幾百万年にもわたって展開することを知った以上、わたしたちはそれに期待しよう。すでにわたしたちはもろもろの古い信条を放棄し、これまで異端ときめつけてきたものもすでに赦しきってしまっていた。今ではわたしたちは人間のやったすべてのことに期待する。盲目的な期待ではなく、未来を知っての期待である。

古き数々の信条たちよ、今いずこ。過ぎ去りぬ、散りて、霧のごと。代わりて現れ出でぬ、大宇宙、水晶のごとくにも鮮やかに。太陽は常のように輝いてはいるが、日光の背後には常ならぬ水晶にも似た燦爛(さんらん)たる明るさがあり、太陽それ自体も暗く思われる程であった。わたしたちはお互いのノートを集めて、聖所の入口に行こうとした。

ところがわたしたちが足を運ぼうという衝動を起こしただけで、もうわたしたちは光の筋の上に乗り、あっという間に室内に入っていたのである。すでに行動を制約する壁は消え失せてしまったのである。われわれは依然としてあの大宇宙に魅惑され、魅了されたままである。一体、このわれわれがこの巨大な宇宙の複雑なる一部であるということがあり得るだろうか。

しかも、この巨大である筈のわれわれが今、この四囲の美しさの前に平伏しているのである。わたしたちは黙然と坐し、沈黙が完全に全身に浸みわたるままに任した。一語を発する者もいない。誰かが食事の用意のできたことを知らすまでは、時間のたつのも分からなかった。なるほど食事も一時の大きな楽しみではある。しかし先程すごしたばかりのかの幾時間かが、すでにわたしたちの全生涯の基調となったのだ。

わたしたちが食事をすまして食卓から離れ、岩柵の上に歩み出た時には、太陽は再び地平線に至り、急速に姿を消しつつあった。眼前に横たわるこの何たる眺望であることか。それは日没ではなく、久遠そのものである。あたかも永遠の中の短い一章がわれわれのために演ぜられているかのごとくである。しかも永遠とともに一章ずつ生きている親愛なる方々が、ここにわれわれと偕(とも)におられる。

彼らの生命の不死を読者諸氏は審(いぶか)るであろうか。わたしたちが彼らを大師と尊称するのを不審とするであろうか。しかし彼ら自身は大師の「タ」の字も口にしたことはない。『あなたがたを大使とお呼びしてよろしいですか』と、わたしたちが尋ねたことへの答えは、『子らよ、わたしたちはあなた達自身なのですよ』ということであった。

おお、何という美しさ、何という単純さであろう。どうしてわたしたちはこのように美しいまでに謙虚になれないのであろうか。初めの予定をかえて、階段を降りて行くかわりに岩柵を去るつもりで、椽の方に歩いて行った。すると椽に着いたかと思った時には、わたしたち一同はもう宿舎の庭の中にいるではないか。唯一人として、一体何が起こったのか分からない。

空中を通ったことも、いや少しでも動いたことさえ気づかなかったのである。しかし、この頃までには、もう驚くことには馴れっこになっているので、只あるがままを受け容れるだけであった。この庭から歩いて村に出てみると、早朝出発の用意がすべて整っていて、部落の者数名が十呎から十二呎位も峠に積もっている雪をかきわけ、道をつける仕事にすでに出ていたのである。

この峠は村から約五十哩はなれ、海抜一万二千呎の高さにある。この土地の大部分はゴツゴツして平坦を欠き、往き来も非常に困離である。それで外出の時は、その前日に雪を押し固めて凍らせておいて、人間や家畜の通れる径をつける習慣になっている。わたしたちは朝明けのずっと前に起きたのであるが、すでに出発準備が細かいところまで整っていた。

ジャストと牟尼とがわたしたちと同行することになっていた。すでにわたしたちへの別れを告げに村人全体が集まっている。わたしたちは二冬も過ごしたこの村と別れなければならないのがつらかった。この土地の人々、一人一人に深い愛着を感じていたし、村の人達も亦わたしたちに同様の感情を抱いてくれていた。この村の人達は純朴で親切であった。

多くの村人たちが名残を惜しんで、五、六哩もついてきてくれた。最後の別れを交わし合い、わたしたちは再びインドへ向かって行った。この後ヒマラヤ山脈の南の斜面を実際に見下ろすまでには、尚数ヶ月を要するであろう。キャラバンの本隊と並んで歩いているうちに、フト気づいたのであるが、わたしたちは何の努力もなしに歩いている。

時には先方の径に幻影の様に何かの点がハッキリ見えた瞬間に、本隊の、時には数マイルも先のその地点に、わたしたちはいつのまにか来てしまっていたりした。正午になると火が起こされていて、わたしたちが出発して来た村の者三名が食事を整えてくれていた。彼らはこの為にわざわざここに泊まっていたのである。食事が済むと、この三人はまた村へ帰っていった。

他にもわたしたちに先行している者がいるので、頂上の雪中の径も歩き易い筈だという。わたしたちのキャンプもすでに入居の準備ができていた。こうしてわたしたちが峠を越え、ギアマ・ヌ・チュ河の流れている谷に降りて行くまで、すべては事前に整えられていたのである。この谷でわたしたちは先発部隊の村人たちに追い着いた。

この人たちは、わたしたちが突兀(とつこつ)たる山地を安全に旅行ができるようにと、わざわざこのような労苦をしてくれたのである。これからの旅は楽なので、この人達はここでわたしたちと別れて行った。ラッサまでの全行程を通じての純朴で親切なこの人達の叮重なもてなしを、大ざっぱではあるがここに特記する次第である。

多くの旅行者たちが好んで書くチベットの酷薄吝嗇の土人には、わたしたちは殆ど遭わなかったのである。ギアマ・ヌ・チュ河のある谷を下り、その支流を経て大トンヂュノル峠に至り、更にツアン・プ(チベット語-訳者註)即ちプラマプトラ(ヒンズー語-訳者註)の支流を下ってラッサへ向かった。ラッサではわたしたちの来るのを今や遅しと歓迎の準備をしている筈である。

ラッサが見えるところまで来た時、わたしたちはまるでニュー・メキシコあたりのタオス族の石造家屋の部落(1)にでも近づいて来た感じがした。この周囲を見渡した時、あのタオス族の大きな石造家屋の前に立った人の気持ちが分かるような気がしたのである。大ダライ・ラマ即ち全チベットの君主の宮殿が、今そこにラッサ唯一の大宝石とも見紛うほどに際立っている。

このラッサは実はチベットの仮首都であって、もっと深い霊的頭首は『活仏』であり、シャムバラ(2)即ち天国といわれている神秘的な市、すなわち中枢を通じて霊的な支配をしているといわれている。この聖地を訪れるのが、わたしたちの宿願の一つだったのである。それはゴビ砂漠の下深く沈んでいるとされている。わたしたちは従者に付き添われて市に入り、宿舎に案内された。

そこにはすでに用意万端が整えられていた。白人がこの市を訪れるのは稀有なことであるため、外の周りにはわたしたちを一目見ようとする群衆が何時間も立ち尽くしていた。翌朝十時に僧院へ招かれることになり、わたしたちの希望は全部前以て知らして欲しいといわれた。それはわたしたちの世話をするのを、皆が名誉と考えているからだそうだ。

何処へ行くにも従者が一人ついてきた。ラッサの住民はお互いの家庭に何のことわりもなしに入って行く風習なので、わたしたちの宿舎のドァーには物見高い人達を寄せつけないための番兵も一人つけてあった。彼らにとってはわたしたちが唯一の気晴らしの種になっているので、その物珍し気な様子をとがめるわけにもいかなかった。

もし一人ででも外出しようものなら連中がよってたかり、まるでわたしたちが一体本物の人間なのかどうかを確かめずにはおかない、とでもいう様子である。この『検査』には、受ける側としては閉口する場合も屡々であった。翌朝は全く爽快な気持ちで起き、わたしたちより二日だけ先に発っていた僧院長に会う仕度にとりかかった。

護衛役を連れて町を出ると、住民全体がわたしたちに敬意を表するようである。僧院に近づくと院長が迎えに出てきたが、驚いたことにエミール師とその母君も一緒である。素晴らしい会合だった。院長は子供のようにはしゃいで、エミール師やその他の方々に会いたかったという。彼はいろいろなことがうまく行かない感じがするので、この方々と話し合い、もっと悟りを深めたかったのである。

また彼が管轄していた村に建てられた小さな家のことも真っ先に知らしてくれた。彼は英語も流暢に話すし、いろんなことを知りたがっている様子だ。わたしたちは揃ってラマ廟に行き、歓待を受けた。院長はエミール師の母堂に向かって次のように語り出した。「力はわたしの父なる神の積極原理の現れです。従ってそれは常に建設的な行為です。

神の完全なる行為と顕現には多過ぎることも少な過ぎることもない。神に失敗は決してなく、不活動も決してない。神なる原理はいつも建設的に働いています。只そうと知るだけでなく、更に進んでわたしはこの活動的な神性原理と、しかもそれのみと、完全に調和しているのです」。ここでエミール師の母堂は、その考え方を受け取って次のように話し出した。

「百尺竿頭、更に一歩を進めてこのようにも又はっきり言えます。『吾が肉体よ、吾はこの聖なる炎を汝を通して注ぐ。故に、汝は、神なる原理の見給う唯一のかの聖なる質料に変性する』」と。あなた達は、神意識を受け容れ、自分の意識を神意識にまで拡大することが必要になって来ます。そうして自分自身が神に夢中になることです。

そうすればあなた達は実際に神となるのです。至高者(いとたかきもの)と一つになるのです。人は本来この至高所(いとたかきところ)に属するものです。人間は本当に神なのです。ここではもはや神と人との間に何らの区別もありません。ところが又、あなた達は、人間自身が神にもなれれば悪魔にもなれることを御存知でしょう。

しかし、人間が神の波動全域の中に住するならば、そこが人間の本来の波動圏なのです。これこそが唯一の科学的領域、人間のための唯一の場なのです。そのような人間は確かに世俗的人間の考えた人間観を越えたものです。あなた方は神の国に属する者であって、人間自身の創り出した何かの悪魔に所属するのではないのです。

人は本来神であるが故に神となり得るということ、その反面、また自らの想像力によって自らを神の国より疎外し、自分自身で魔圏を造りだし、それを実在と錯覚することもできるということは、全く科学的であり、論理的ではないでしょうか。そのいずれを採るかの判断はあなた方にまかせましょう。これこそは人類が立つか倒れるかの唯一の問題点です。

撰ぶべきものはただ一つ、ただ一つの目的、ただ一つの真理、ただ一つの学問があるのみです。その正しい撰択があなた方を解脱させます。あなた方は自ら撰ぶがままに、神ともなれば奴僕ともなるのです。しばし雑念妄想を止め、神乃至第一原因がすべてであること、それは始めもなく終わりもなく、全宇宙にわたり、全宇宙の中にあって、あなた方を取り巻いていることを考えてごらんなさい。

あなた方が素直にこのこと、そしてこのことだけ、即ち、一なる神、全能なる存在のみを礼拝するならば、あなた方は自分の体のヴァイブレーションが人間のそれから神、即ち原始ヴァイブレーションに変わることに気づくでしょう。あなた方がこのヴァイブレーションを思いその中で生き、動き、且つそれと一つになることが、それを礼拝することになるのです。

そしてあなた方が崇拝し、生きる理想とするものに、あなた方は成るのです。すべての人類は、かくのごとくであり、すべての人類にとってかくあるのです。一つの神、一つのキリスト、一つの融合、一つの人類があるのみです。すべての兄弟姉妹より成る一つの総世帯があるのみです。すべては一つなのです。神は在る一人の人間、または一つの人間像としてだけ現れるものではなく、一切に貫通し、一切を包含する普遍として現れます。

神を人格化したその瞬間には、もう神を偶像にしてしまっているのです。かくの如きは空虚な偶像を抱いているのであって、もはや理念は消失しているのです。ここにいう理念とは、死せる救世主、乃至は死せる神ではありません。神を自分にとって生けるものとし活力あるものとするためには、自分自らが神であると思い且つ知らなければなりません。

他の如何なるものよりもあなたにとって、それは生けるものであり、活力あるものです。これが人間の本質に関する聖なる科学です。その時あなた方、即ちキリスト、即ちあなた方自身の救世主は生けるものとなり、あなた方と一つとなる。あなた方はそのものである。このことがあなた方の全生涯の動力となる。あなた方は自分で自分自身、即ち真我を贖(あがな)ったのであり、神、真の神と一つなのです。

このことを拝し、愛し、尊ぶことによって、それはまこと内在して活動する神、即ちあなた方の理念となるのであります」。ここでお話は、シャンバラに行く可能性の有無に移っていった。僧院長が自分にも行けるだろうかと尋ねると、肉体を一旦放棄してからまた組み直すのであれば苦もなく行けるし、今晩一同そろって行くことになろうという返事であった。

この方々はわたしたちの宿舎で夕方早目に落ち合い、わたしたちの隊長も同行することにきまった。わたしたちが帰って暫くして御一行は集合し、短い話のやりとりのあと、ドァーから出て行かれたが、その後数日間、姿を見せなかった。その間わたしたちは、僧院の中で慎重に製図に専念していた。或る日のこと、古い僧院の幾つかの地下室の一つでガラクタをあさり、アレコレと動かしていると、或る古い大理石製の碑にぶつかった。

それを屋外に運び出して掃除をしてみたところが、彫刻の美といい細部の細工といい、その出来栄えの見事さに皆驚いてしまった。ラマ僧達までが驚いた程である。以下は、ある一人の老僧の語る由来である。この老僧が、ほんのまだ小さい子供の頃、彼はこの古い廟を管轄していた大ラマ僧達の中の一人の弟子となった。

その頃、この石碑は壁の中の凹みの中に安置されていて、師の老僧は弟子達に対して、毎月第一月曜日の朝九時にはこの石碑の所に行くように強くいいつけるのであった。彼らが石碑の置かれている壁龕(へきがん)にやって来て、三、四分の間沈黙したまま立っていると、どこからともなく或る声が聞こえて、この石碑の歴史と碑文に録(しる)されている『大いなる事ども』を歌うのであった。

その歌は、この碑文が幾百万年もの昔、現在のアメリカ大陸の大部分に存在して栄えたあの偉大なる白色文明(3)を記念するために刻まれた二枚の中の一つであること、今一つのいわば兄弟に当たる石碑も現存して、その産みの母国で見出し得ること、従ってそのような土地が存在していることを告げていたという。

わたしたちはこの歌の告げることをそのまま受け入れた。数年後、言われた通りの土地で仕事をしたが、この双児の片方の石碑が、この歌の告げた通りの場所の大きな壁に嵌め込まれているのを発見した。その壁は、今では廃虚と化した中央アメリカにある或る石寺の壁である。これを以てしても、いかに伝説や歌を通して真理が明るみへ出るかが分かる。

この歌の中で繰り返されている石碑や伝説にわたしたちが興味を寄せたおかげで、他の色々な記録や資料に近づくことができ、それがまたその後のわたしたちの調査事業に無上の助けとなった。この出来事は、数百世紀もの間護られてきた僧院の中にある記録や、特にまた活仏即ちダライ・ラマ宮殿にある数々の記録(4)に通ずるドァーを開くのに預かって力のある要因となったのである。

多くのこれらの記録とその意味は、それを護っている人々には全く知られずにいたのである。わたしたちがこれらの記録に惹かれたのは、歌の中に唄われた伝説のおかげである。尤もこの二つの石碑を除けば、他のものは写しにすぎぬことが分かった。しかしそれにしても、これらの写しは注意深く造られていて、後になって原本への道を指し示してくれたのである。

わたしたちはこの仕事にすっかり夢中になってしまったため、同行の大使がたや隊長が滞在を延ばしていたことに気がつかなかった。しかし、後でようやくそれと気づいたのであるが、殆ど気にはしなかった。というのは、この遙かなる国では、予見し得ない状態がいくつも起こり、そのために滞在延期となるのはどうしようもないからである。その間に土地の人々はわたしたちに或る程度馴れてもくれ、わたしたちもまた彼らの行き方になれるようにして行った。

両方の側から好奇心が友愛へと道を開いていった。十二日目の朝、僧院に行く準備をしていると、外がざわめいているので一寸外へ出てみると、僧院長の一行が帰っていたのである。かれらの旅行は成功だった。シャンバラという場所は(5)実在していたのである。その芸術と文化の美しさと壮大さは、初めの姿そのままに保たれ、その荘厳なることは類(たぐい)もないという。

訳者註
(1)アリゾナ、ニュー・メキシコ及びメキシコ、テキサスの近傍にあるインディアン族の部落。家屋はすべて石造で、数階の大きな建物に小数家族が群居する。屋根は平たく、内部へは屋根に秘密に造られている梯子で入る。地下に儀式用の室を有する。従って著者は、ダライ・ラマ宮殿を遠望して、この部落の建物を連想したのである。
(2)「道」の教えるところによれば、キリスト、仏陀(いずれも人名ではなく人類を指導するための聖職の名)等の上に位して、地球上の一切の存在の進化を司るサナート・クメラとその機関の存在する聖所。ゴビ砂漠の地下にあるといわれる。この方々は肉体、幽体、霊体でもない聖なる体のみをもつという。
(3)ムー大陸の植民地として栄えた文明か〔ナーガ・マヤ文化〕(チャーチワード氏の諸著書参照)アトランティス大陸の植民地文化、又はその双方。「白色文明」とは、黒魔術に堕した文明(ムー大陸の末期)と区別するためであろうか。
(4)例えば、『わがチベット-ダライ・ラマ自叙伝』(講談社刊)六四頁参照。
(5)日本語文献では、三浦関造氏著「聖シャンバラ」(竜王文庫発行)参照。