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イギリスの政治ブログ

今日の午後は、五号館のつぶやきさんの「ブログ」についての授業 があるので、それに因んでガーディアン紙に書かれていた政治ブログについての記事を紹介する。(しばらくみないうちちに、ガーディアンの紙面のデザインが変わったみたいだ。なんとなく寂しい。)

さて、本題の記事はこれ。かなり長い記事だ。
The new commentariat
http://technology.guardian.co.uk/news/story/0,16559,1644361,00.html

日本と比べると、まだまだインターネット接続状況が良いとはいえないイギリスでも、ブログ社会(ブログ圏?=blogosphere)は、それなりに盛り上がってきているらしい。それが、政治放談というのが、イギリスらしいといえば、イギリスらしい。Prime Ministerの

さて、この記事で注目されているのは、政治的に影響力のあるブログのなかでも、「戦争賛成系左派(pro-war left)」系のブログだ。911の後に、イギリスがイラク派兵に向っていくなかで、左派が抱えざるをえなかった葛藤の受け皿になっていたのではないか、というモチーフで書かれている(と思う)。代表的なものは、たとえば

http://www.normblog.typepad.com/
http://www.samizdata.net/blog/

など。下のほうは、イギリスで一番読まれている政治ブログらしい(1日に15000人)。
トップページの、銃とポパーの組み合わせにまずドッキリする。話題はいろいろで何人ものライターがあつまった集団のようだ。ガーディアンの記事を読んだ後だと怪しさ満点に見えてくる。

科学ネタもちらほらある。最近のものでは、デカフェが体に良くなかったという研究を引いて、ああだこうだいっている。この辺は可愛い感じがする。あとは、Research Defense Science というところがブログをはじめた、なんてニュースも。

全体主義的なものには、断固反対するらしいから、どうしてもそういうふうに見られがちな(そしてそういう事例がかなりある)「科学」は批判の的になっているようだ。この辺の単純化は、もう少しなんとかなるはずだ。

大手メディアとブログの関係についての興味深いコメントとしては、
'We can't change the way news is written, but we can change the way people read the news.' So what we're saying is-" "We're not competing with newspapers,"
「私たちにニュースの書かれ方を変えることはできない。でも私たちは人々がニュースを読む方法を変えることができる。だから、私たちがいつも言っているのは、私たちは新聞と戦ってはいない」というもの。

書き手より、読み手の問題だというわけだ。この辺は、同僚諸先輩方がSTS学会で議論したアメリカの「シヴィック・ジャーナリズム」(記事のなかでもCitizen Journalismへの言及あり)通じるものがある。でも、記事のトーンとしては、偽悪的な感じがしてしまうのは、まだまだメディアが中立でいてほしい、と思う旧い考え方が邪魔しているのだろうか。

ブログの威力については、" The power of blogs, according to this theory, lies not so much in the persuasive force of any one specific rhetorician, but in the opportunities for connections to be made
「ブログの威力は、ある特定のレトリシャン=詭弁家の説得力にはあまりなくて、(いろんな記事を読むといった)コネクションを生む可能性がたくさんあることだ」

といっているのが、どこかで聞いたよう文言だなぁと思った(ネットワーク社会の説明だ!)。

この記事の中でも、ブログは大手メディアに寄生しているだけだから、伝統的なメディアがなくなるわけはない。しょせん、ブログは、マスキュリンな男ども(女性の政治ブロガーはすくないらしい)のパブでのいい加減な議論と変わらない。などという議論もある。

しかし、上記2つの引用などをみて、私が思うのは、メディアの影響力についての評価軸が根本的に変わってきているのではないか、ということだ。つまり、ブログをアクセス数だ、とかトラックバックだ、とか所詮素人だ、とかいって評価すること自体が、もう時代遅れな感じがする。それは、旧来のメディアの論理、で語っているに過ぎない感じがする。かといって、どんな論理が働いているのかということも良くわからない。いい加減な言い方をすれば、量と質よりも、「心持ち」の問題のような気がしている。

"If we lived in a world where actual facts could be discussed rationally, I'd happily disappear back into my cage and sell tat for a living,"
「実際に起きていることが合理的に議論される世界に住んでいたならば、私は進んで自分の住処に帰ってガラクタを売って暮らすよ」

ちょっとした心持ちの違いが、新しい言説空間=ブロゴスフィアを生んでいる。その「純」な感じがブログの魅力でもあり、怖さでもあり、未熟さだ(特にココ)。

"On the internet," Cronin likes to say, "everyone is famous for 15 people."
「インターネット上では、誰でも15人の間では有名人だ」

mixiなんか、まさにそんな感じ。ちょっと、この議論はコミュニティの捉え方を変えなくてはないけない、という社会学の議論とつながりそうなので、そのエントリーを考えることでよりまとまった考えにしていきたいと思う。

自宅からMITに通おう

数年前に、衝撃的なニュースになったMITのe-learningシステムのOCW。
OCWは、Open Course Wareの略、だそうだ。
その後、中身をチェックしていなかったのだが、なかなかすごいことになっている。
http://ocw.mit.edu/index.html


この間、日本でも断続的に議論されていたようた。

CNET Japan
「2007年の完成を目指して進むMITのオープンコースウェア」
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/001322.html


いくつかの大学はちゃっかり、あいのりもしている。
http://www.jocw.jp/


と思ってたら、MITのOCWに大きく関わった日本人の教授がいたらしいことがわかった。

MIT OCW 特別講演会
http://www.titech.ac.jp/publications/j/chronicle/391/391-13.html


しかし、すべての授業がストリーミングされたり、ビデオ学習できたりするわけではない。ほとんどのコースは、せいぜい講義ノートとかシラバスとかアサイメントが垣間見ることができるだけだ。


しかし、MITという威光のせいなのか、それだけでもシラバスがまぶしくてしょうがない。
たとえば、STSの授業。こんなリーディングについていけるやつらがゴロゴロいるのかと思うとゾッとする。知らない本がたくさん・・・。ううぅ。こうなると、怖いものみたさの気持ちがわきおこってくる。だれかが行ってくれれば、遊びにいけるのだけどなぁ。学費高すぎだからなぁ(たしか年間300万円超えだったと思う)。


上の記事によると、数学とか物理学とか、すべての講義映像を見ることができるものもあるらしい。

私は、オーディオを探して、心理学入門にたどりついた。
http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Brain-and-Cognitive-Sciences/9-00Fall-2004/CourseHome/index.htm

おもしろい。しゃべりがうまい。とまらない。
だから、公開されているんだろうけど。


そういえば、弟が心理学がどうのこうのとかいってたかな。(→聴いておくように)


OCWで充実したコースと自分の興味とうまくあえば、お手軽MIT留学ができる。
実際、発展途上国の学生たちには、お宝のようだ。


MITがOCWを、崇高な理念でやっているのか、ビジネスとしてやっているのか、という議論はいろいろあるようだが、利用しない手はない。たとえば、ICUの一年生が経験する集中英語プログラムであるELPは、これだったら良かったのに、と思う。


おもしろい講義を見つけた方は教えてください。

私は、たとえば、今、これとかビビっときてます。
The New Constructionist Learning.
http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Media-Arts-and-Sciences/MAS-962Spring-2003/Readings/index.htm


ほかにやることいっぱいだけどなぁ。。。

メモ:「未来を考える-21世紀に政治的に考えてみる」

備忘録。


All three are speaking at a free-to-attend public debate entitled
'REFLECTIONS ON THE FUTURE: THINKING POLITICALLY IN THE TWENTY-FIRST
CENTURY' in New York this coming Friday (30 September). Details of this
event are also included below.


- THE MARKET IN FEAR -
by Frank Furedi, professor of sociology at the University of Kent

Politics has become a contest between different brands of doom-mongering.
http://www.spiked-online.com/articles/0000000CAD7B.htm


- MAKING POSSIBLE THE IMPOSSIBLE -
by Russell Jacoby, professor in residence at UCLA

Politics is alive and well, in the age-old search for the best society
and government.
http://www.spiked-online.com/articles/0000000CAD7A.htm


- FRAGMENTED POLITICS, FRAGMENTED LIVES -
by Richard Sennett, professor of sociology at the London School of
Economics

The insurgents of my Sixties youth got what they wanted - in a perverse
form.
http://www.spiked-online.com/articles/0000000CAD79.htm


The public debate 'REFLECTIONS ON THE FUTURE: THINKING POLITICALLY IN THE
TWENTY-FIRST CENTURY' is hosted by the New York Salon in association with
New York Public Radio, and will take place at 6.30pm at the CUNY Graduate
Center on Fifth Avenue. For further details, see:

http://www.nysalon.org/recent-events/index.html

ルネッサンス・ジェネレーション

ルネッサンス・ジェネレーション

http://www.kit-rg.jp/index.html


友人から教えてもらって、はじめてサイトをのぞいたときは

デザインがピンとこなくてスルーしたのだけど、

中にはいってみると、こゆい内容っぽいです。

あの人も!あの人も!

といった感じ。


下條信輔とタナカノリユキが監修。

ぎりぎりのところでは、科学とアートが近いんだってことを示そうしているのかな。


去年のレポートは対談も収録している。(時間があるときに読もうっと)

http://www.kit-rg.jp/rg2004/rep2004.html


行きたくなってしまいますが、今年はもう定員いっぱいだそうです。


東京の草月会館でやるのに、主催が金沢工業大学ってどういうこと?

クリティカル・シンキング

大学に入りたての頃、Critical Thinkingという考え方を教えこまれた。その言葉の意味もよくわからないまま、自力で考えること、ものごとを批判的に疑ってみること、違った視点から見てみること、そういうことが大事らしい、ということを刷り込まれた(という言い方が正しい)。今思えば、クリティカル・シンキングはアメリカ的な考え方で日本の学生に合うものなのかと思うし、当時の先生たちもクリティカル・シンキングが何かなんてあまり考えずに教えてたのではないかという疑念もある。しかし、あの頃に「批判を良し」とする空気にふれたことは、善し悪しは別にして、なかなかどうして、その後の自分に影響を与えていたんではないかと思ったりする。


それでも、まだ批判・批評というものはよくわからないままだ。


批評とは何か?


加藤典洋は、近著の「僕が批評家になったわけ」の冒頭で、批評とは何かと問う、頭でっかちの私を一笑に付すかのような説明をしている。肩透かしを食らった形だ。


・・・批評とは、そうい知り方のレールから脱線することだ、ということだ。そうでなければ、どこが学問と違う?ということにもなる。トロッコが脱線する。ごとごと揺れながら、レールのないところにはみ出ていく。本当の哲学は哲学に抵抗する、といったのはパスカルかな。
批評も同じ。
何か心もとないな、と思われるかもしれない。
しかし筆者の考えではこの心もとないゴトゴト歩きのなかに批評は生きている。
批評は、誰にとってもこうだ、というような言い方ではない言い方、自分にいま感じられる言い方で、誰にとってもそうであるはずだ、というようなこと、普遍的なことを、いってみることだ。というか、普遍的なことをいおうとすると、変な言い方になってしまうことが、「批評を書く」ということなのである。


以下は、加藤典洋が、柄谷行人という批評界では巨人(彼のマルクス批評本はかっこいい装丁の英語訳がある)である人の「隠喩としての建築」という難しい本の批評文を書いている間に、不安にかられて、夜眠れなくなって、夜中に川べりを歩きながら、思い悩み、その上で達した自分自身への結論である。心に沁みたので、ちょっと長めに引用する。


お前は批評というものをしたいのか。批評というものがどういうものか、お前は知らない。しかし、もし、批評というものが、本を百冊読んでいる人間と勝負するのに、自分も本を百冊読んで、そこに書かれたものの善し悪しを云々するだけのものなら、それは学問とどこが違うだろうか。所詮は学問の中途半端なものというにすぎないではないか。お前は批評をそういうものだと思って、やろうと考えたわけではないだろう。批評というものが、学問とはとことん違い、本を百冊読んでいる人間と本を一冊も読んでいない人間とが、ある問題を前にして、自分の思考の力というものだけを頼りに五分五分の勝負をできる、そういうものなら、これはなかなか面白い。そう思ってお前は、この批評という世界に関心を抱いて、これに手を染めてみようと思ったのではないのか。

全編を通して、さまざまな時代のさまざまな形の「批評」を紹介しながら、いい感じの力の抜け具合で真剣勝負している。なおかつ、批評には誰にでもアクセスできるはずで、そういう地平(彼は「一階の批評」とよぶ)にとどまって批評にこだわることの大切さを最初から最後まで主張しているところが、勇気づけられる。


超おススメの本。


実は、私も友人から紹介された本。ありがとう!

文献:加藤典洋 「僕が批評家になったわけ」 岩波書店

アカジャー

高校生ぐらいの時、ある評論家がいっていたアカジャーという言葉に魅了されていたことがある。アカジャーとは、アカデミシャン+ジャーナリストでアカジャーだ。しかし、それは単なる憧れとかイメージの域をでていないまま私の記憶の片隅に残されたままだった。


今日のCoSTEPの授業に登場してくれた粥川さんのお話しを聞いていて、ふとその言葉を思い起こした。粥川さんはアカジャーだ。


五号館のつぶやきさんも言及されているが、粥川さんのお話のなかで、興味深かったのが、ジャーナリストがどのような哲学(倫理?)をもって活動しているかというところが垣間見られたところである。特に、個人の利益(取材者も取材対象者も含めた)と公共の利益の間で、どこまで言っていいのか、という問題は生々しく、大変なマネジメント能力が要求されるのだろうと感じた。


アカデミズムの中にも、たとえば科学技術者倫理のような議論がある。もちろん、社会科学の研究でも倫理は(ethical considerationといわれる)、研究手法を学ぶときに口すっぱくいわれることだ。たぶん、意識としては研究全体の二割くらいをethical considerationに割くべきだという感じだ。いくら研究内容がよくても、ethical considerationが弱いものははじかれる。イギリス社会学会とかだと、研究許可をもらうために(たとえば刑務所とか病院の社会学)、書類やら申請やらで半年ぐらいを費やしたという話も聞いたことがある。


それぐらい、倫理で失敗したときの社会的損失(あるいは学問的損失)が大きいということなのかもしれない。たとえば、個人情報の保護に対する意識が高まっているが、そんな時にある研究者が研究目的で閲覧した情報の扱いを誤ったりしたらとんでもないことになる。たとえしっかりとした手続きをとって調査をしても、理解を得られないことも多いのだし。


しかし、だからといって波風が立たないものだけを世の中に出していくだけでいいのか?いや、それでは意味がないだろう。ということが粥川さんの言いたかったことの一つだったと思う。


言い換えれば、クリティシズム=批判性とは何かという問題になってくる。「批判する人」というと、どうしても「うるさいひと」「なんでも反対するひと」「こまかいところにこだわるひと」というレッテルを貼られがちだが、私は、批判する人が絶対に世の中に必要だと思う。ジャーナリストなり学者なりの役割は、「批判性」をもって、過去を振り返ったり、横道を観察したり、未来を想像したり、モノを眺めたりすることで、日常的には見逃してしまうような社会のなかの「素晴らしさや可能性」と「ひずみや亀裂」の両側面を、見つけていくことなのだから。それが公共性を持っているということなのだろう。


科学技術の場合は、それが正の側面だろうと、負の側面だろうと、カッコにくくられて日常とはかけ離れた場所に置かれてしまうことが多いので、がんばって議論の場に戻していく作業が一層必要になってくるのかもしれない。


懇親会で粥川さんと一致したまとめをすると、物書きは「ロックンローラーだ!」。私は、まだまだ歌いかたも心得ていないので、まずは歌えるようにならねば。


<<追加情報>>

●調査とインタビュー関連のオススメ本

インタビュー術!(永江朗)

フィールドワークの技法(佐藤郁哉)

活字復権

もう終わりそうな今日、
10月27日は「文字・活字の日」らしい。あ、そういえば、弟の誕生日でもあったな。

>弟よ、誕生日おめでとう!


今日から11月9日まで読書週間。ということもあって、新聞には書評関連の記事が勢ぞろいしていた。いちばん読んで嬉しかったのは、読売で小泉今日子と角田光代が対談しながら本について語っている記事だ。Switchかなにかの特集で小泉今日子の偉大さを思い知ったことがあるが、本についてこんなに楽しそうに語れる人だとは思わなかった。さすがに、あの函館出身の作家さんの奥さんだけはある。


そして、朝日の対談では阪大の鷲田清一氏がシカゴ大の日本文学・日本文化論の研究者であるノーマ・フィールド氏と対談していた。「2005年の新・教養主義」と銘うった二枚ぶち抜きの記事である。ノーマ・フィールド氏はこの一年間、北海道・小樽で生活していたらしい。世の中に対する彼女の強い危機感を鷲田氏がうまく受けて、なにがいま大切なのかということについて語り合っている。


なかでも、鷲田氏が、「誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験(小林傳司著)」を選書にあげ、「対話のレッスン(平田オリザ著)」をあげ、そして自らがかかわっている「哲学カフェ」について多く語っているのが印象的だった。なんでも、哲学カフェのルールは、


・・・哲学の知識は使わない。十数人で、何について話すかを決める。偉い思想家の考えを繰り返さない。具体的な経験を引くことから始める。人の話は最後まで聞く。手を挙げて、指名されてから話す。


だけだという。こうしたルールのもとで話しはじめると、みんなが「自分を開いていく」のだという。これは、鷲田氏の長年のテーマ(専門の現象学ともつながるのかな?)でもある、他者とどうかかわっていくのかという問題にもつながってくる。私は、サイエンス・カフェも、同じような可能性を持っていると思っている。哲学カフェだろうと科学カフェだろうと、その場にいる人たちが、普段はあまり考えないようなことについて、普通のことを考えていない人たち=専門家をまじえて語りあうことでうまれる化学反応が、その「場」にいるひとたちにとっての勇気の種みたいになっていくのだと。


しかし、それと「本を読むこと」がどうつながっているのかについてはあまり考えたこがなかった。

鷲田氏は、哲学カフェのような他者同士が交流する場に触れつつ、


その場を成り立たせるためには本を読んでいないと。こう考えたらこうなるという思考の筋道をきちんと示している本。そして学問の外で起こっていることを当事者の声のままに記述している本。その両方です。一つの問題にこんな窓口や思考の回路があると知っていると、交通整理も少しは余裕が出る。


と言い切ってくれている。(まあ、活字賞賛の場なのであたりまえだが)

最近私は、コミュニケーションの活動や実践ばかりやって、活字を読むことをおろそかにしてもいいのだろうか?と考えていたところだったから、ストンと腑に落ちる説明だった。


これで、少なくとも鷲田氏の言う論理で活字を礼賛していくことができる。


今日は、きょんきょんと鷲田氏の言葉に勇気づけられた。まるで、2人が私のとなりで語りかけてくれているかのように。これも活字のおかげだ。


この秋は、活字復権といこう!

インテリジェント・デザインは学校で教えられるべきか

インテリジェント・デザインは、生命の起源をなんらかの知性(インテリジェント)をもったものが創ったと主張する考え方らしい。一般に進化論は通説のように考えられているが、アメリカではインテリジェント・デザインを学校で教えてもいいのか、ということで大激論になっている。もちろん、宗教的な背景もある。


現在、その連邦裁判が行われている真っ只中に、フラーが召喚された。科学史・科学哲学で学位をとった彼が、どちらを弁護したのかというと・・・インテリジェント・デザインの方だ。


英米の各紙でも取り上げられている。

http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1599852,00.html

http://www.msnbc.msn.com/id/9805776

http://ap.washingtontimes.com/dynamic/stories/E/EVOLUTION_DEBATE?SITE=DCTMS&SECTION=HOME


フラーの主張は、インテリジェント・デザインもひとつの科学的学説と認められるので、学校でも教えられるべきだ。というもの。日頃から、進化論的思考に慣らされている身としては、なじみにくい考え方であるが、フラーがインテリジェント・デザインを擁護している理由は、新聞の記事に書かれていることだけではあまり見えてこない。


おそらく、彼が言いたいのは、科学の営みのなかでもマイノリティ(この場合、インテリジェント・デザイン)を迫害してはならない、ということ。


科学の歴史は誤りの歴史であったといった科学史家もいたが、いつ、なんどき、今、まさに真実だと思われていることに誤りが見つかるともしれない。その可能性を残してきたことが、科学の良さではないのかと。


つまり、ここでフラーはインテリジェント・デザインが正しいから、それを擁護しているのではなく、むしろ、進化論もインテリジェント・デザインも「誤りうる」可能性がある科学的学説のひとつとして考えるべきだといっているのだと思う。その方が、議論が生まれ、新しい考え方や学説が生まれる可能性があるのではないかというワケだ(と思う)。


インテリジェント・デザインを擁護するなんて、その道の(進化論というパラダイム下にいる)人にとっては、受け入れがたい考え方なのかもしれないが、科学って何だろうということを広い視野で真摯に考えてみると、意外としっくりくる主張なのかもしれない。あるいは、進化論の最前線で研究している人には、すでに進化論はそれほど確かなパラダイムでもないのかもしれない。


フラーなりの喧嘩両成敗をしているつもりなのだろう。サイエンス・ウォーズでも似たようなことをやっていたが、調停の仕方がよくわからない。どちらかについているようでいて、どちらも倒す!ってそれはとってもかっちょいいのだけど。。。


さてさて、来週の判決がどうでるのでしょうか。

ランディさん、めっけ

アメーバで書いているほとんど唯一の理由である、ランディさんのブログが更新されなくなって久しい。


と思っていたら、exblogではじめているではないか!

http://bluecoyote.exblog.jp/

タッキィの由来

科学技術コミュニケーター養成ユニット(略称 CoSTEP)のエントリーをする。


CoSTEPにかかわる前からのブログなので、なんだか気恥ずかしいし、あたらしいブログをつくろうかなとも考えていたのだが、実名を出しているわけで、前々から丸裸ということもあり、このままで行くことにする。


五号館のつぶやきさんの集合の合図にも遅ればせながらお答えして、トラックバックを打つ!


さて、本題はCoSTEPのラジオで私が持たせていただいている「Tackyのやさしいイングリッシュ」の話題だ。「いくら名前がTakeshiだからって、Tackyはないだろう」というラジオの聴取者からの声が聞こえてきそうなので、少しだけその由来を話してみたい。


私も、実はTackyと名乗るのには少し抵抗がある。いくら芸能界にうとい私といえどもあのTくんぐらい知っている。しかし、イギリスで生活していた時に、毎日のように顔をあわせる大家さんにどうしてもTakeshiを発音していただけなくて、しかたなくTakiでいいですよといったときからの私のイギリスでのニックネームだったのだ。そういうこともあり、この名前で通させていただいている。あやしいTackyという演出もおもしろいかなと。でも、Tackyの発音はタッキーではなく、むしろタキィなので、よろしくどうぞ。みなさん、そう呼んでいただいてもかまいませんよ。ちなみに中・高時代のあだ名はオカッキーだったなぁ。