店の前の道にはきれいな街路樹が等間隔に植えられている。きれいな銀杏並木だ。今の時期になると、黄色に染まった葉がはらはらと落ちて、落ち葉の絨毯が一面に広げられる。朝にはジョギングする人がそれを踏みしめ、昼には備え付けのベンチに腰掛けた人がコーヒーを飲みながら、それを片手でいじる。そして夜には、私の店のランプがともる。
アンティークでそろえた外装も内装もお気に入りだ。わざわざ輸入しにヨーロッパまで買い付けにいったランプは同じ種類で統一し、暖かい光を町ゆく人たちに投げかける。とてもきれいなオレンジ色の光で、暖かみが感じられた。そのランプは多少値が張ったが、一目惚れで買ってしまったのだ。
その光を初めて見たときに、私は落ち着きを感じた。難しく言えば、心の平穏というのだろうか。こんなことを感じるようになったのは、私が十分に年をとった証拠なのだろう。何か美しいもの、気に入ったものを見つけたとき、心に暖かいミルクが注がれていくように感じるのはとても良い気分だ。これを誰かと分かち合えたなら、それ以上の幸せはないだろう。それ以上の幸せは。
今日もいつものようにグラスを丁寧に磨き、氷の量を再度確認し、通りに面した入り口のランプをつける。開店だ。私のバーはとても儲かっているとは言えなかったが、いつもの常連客とたまに来る酒を覚えたての大学生がやってくるだけで満足だった。独りで暮らすにはそんな大きな金は必要ない。ただこのゆっくりした時間さえあれば満足なのだ。
今日も大学生がやってきた。男と女の二人連れだ。男は店の雰囲気に気圧されているようだが、すぐになれておしゃべりをはじめる。だがとても緊張しているのが見て分かる。彼はウイスキーをロックで頼んできた。あまりウイスキーに詳しくないようなのでオールドターキーやヴァランタインなどを紹介してやりつつ、ヘンリーマッケンナを出してやった。彼は少しむせながらも、うまそうにそれを喉奥に流し込んでいた。きっと居酒屋でハイボールしか飲んだことがないのだろう。彼はウイスキーが麦からできていることなんて知らないに違いない。麦が糖化され、蒸留され、姿形を変えてこの液体になっているなんて想像もできないだろう。
私にもそんな若い頃があった。なんにでも興味津々で、無鉄砲な若い頃が。でもそんな昔の思い出は、ちょうどウイスキーのように姿形を変えて跡形もなくなる。そこには独特の匂いと、敷居の高さを感じさせる雰囲気が残るのだ。私の場合はただのしがないバーテンだ。ひっそりとこの店を開き、ひっそりとこの店を閉じる。人生も同じようにひっそりと終わるのだ。何も変わらずに。
大学生の男はかなり酔っぱらってしまったようで女に抱きかかえられていくように出て行った。すこし微笑ましかった。カウンターの片付けをしていると、常連の客がやってきた。彼は、近くの商社で働いているようで仕事帰りに一人でやってくる。とても重要な役職のようだが、そのことには触れない。なので私もそのことには触れない。空気を的確に読むのもバーテンの仕事の一つだ。
「こんばんは、マスター。ラガヴーリン12年をロックでくれ」
彼はとても大酒飲みで、テキーラを飲んだと思えばスピリタスまで飲む。とても酒の強い男だ。そんな彼がレモンをかじりながら私に話しかけてきた。
「マスター、その左手の甲の傷はどうしたんだい?」
「これは、さっきアイスピックで刺してしまいましてね」
彼はいやいやと手を大げさに横に振り、
「いやいや、その傷じゃない。そんなの見たら分かるよ。第一、甲にアイスピックは刺さらないだろうが。そうじゃなくて、その、手首近くにある擦り傷のようなやつさ、古傷なのかい?」
私は、ええ、古傷です、と言いながらアイスピックを持ち、氷を打ち崩した。
「昔、怪我をしましてね。交通事故を。」
「交通事故を?それは大変な目にあったんだなぁ。結構大きな事故だったのかい?」
彼はとても興味津々のようだ。私は昔話を始めた。
「昔、車に轢かれかけたことがあるんですよ。普通車に。ただなんとか直撃だけは避けられたんですが、思いっきり擦りむきましてね。それでこんな傷を残すことになってしまったわけです。いまでも時々かゆくなって困ったもんですよ。」
私は、はははと乾いた笑いをして、再び氷と格闘しに意識を手元へと移した。
「そうなんですか。いやぁ、災難ですねぇ。実は私も交通事故をおこしかけたことがあるんですよ。もちろん私の過失ではないですが。車を運転していると、いきなり飛び出してきたんですよ。小さい子供が。よく聞く話でしょう?ボールを追いかけて、とか親の不注意で、とか…とても冷や汗をかきましたよ。そんなことがあったもんだから私の孫がとても心配になりましてね。今ではすっかりおじいちゃん子に育ってくれたんだが、交通事故なんてよくある話なんで心配になってねぇ。」
「そうですね。とても心配になる気持ちはわかります。小さなお子さんなら特に…」
彼はたくさん酒を飲み、良い気分になったといっておもむろに携帯電話を取り出した。
「息子が迎えに来てくれるんですよ。今度この店を紹介してやろうと思ってね。マスターはとても気さくだし、とても良い店だから来た方が良い。大人の世界ってもんを勉強させてやらんとねぇ」
わはは、と大きな声で笑いながら彼は電話をかけた。
ほどなくして彼の息子が迎えに来た。その頃には、よっぽど気が良くなったのか酒を飲み過ぎたらしく、珍しくつぶれてしまっていた。
「父さん、帰ろう。お店の人に迷惑だよ。」
「ここにはよく来てるんだ。マスターもわかってくれるさ。はは。」
迎えに来た息子は、30なるかならないかの青年だった。高級そうなスーツに身を包み、背筋が伸びた好青年だ。
「わかってますよ。息子さんが迎えにいらっしゃるのを楽しそうに話してらっしゃったんですから」
「すいません。父がこんなに酔っているのはあまり見たことがないので…とても楽しかったのでしょうね。年も考えず飲み過ぎて。ほら、父さん、行くよ。すいません。では、今度は節度ある客として伺わせてもらいますね」
「えぇ。お待ちしております。」
車が排気音をだして動き出す音がした。そろそろ店じまいだ。私は入り口に行き、ランプを消す。ふっと消えると、街灯の無機質な白い光がぼんやりと道路に浮かぶ。少し寒い。木枯らしがたまに吹き抜ける中、私はふと空を見上げた。きれいな空だ。星はあまり見えないが、空は澄み切って見える。見上げながら感傷的な気持ちになってしまった。
きっと大きくなっていたらさっきの青年くらいの年になる自分の息子を思い出した。かわいかった。なぜ助けられなかったんだろう。私の左腕を犠牲にしても守ってやりたかった。私が生きて息子が死んだ。その事実は今も私の心を苦しめている。私の腕の中から離れ、車にはじかれる息子。何年経っても忘れる事なんて出来やしない。酒に溺れ、相手をしてやることもできなかった私を許してほしい。醜く生きながらえた私を。
閉店準備をしなければ、と我に返り、濡れた頬をぬぐった。店内に戻り、グラスを洗う。常連の彼は酒を残していったようだ。琥珀色に光るウイスキー。この輝き、この香りは何年も熟成されて初めて生まれる。人も何年も年を重ねて生きていれば、見事な風格を備えた人間になれるのだろうか。
ウイスキーは「命の水」とも言われる。美しく香りを放つこの命の水を、私はもう飲む資格はないのだ。