思い描いた未来とは違う結果となったとしても、私はあきらめない。彼女はそういって、目を閉じた。血管が透けて見えるような白い肌の中にひとかけらの意志を輝かせて。彼は彼女の隣でぎゅっと手を握って、一緒に目を閉じた。彼女の体温は徐々になくなっていった。彼は自分の手のあまりの暖かさに涙を流した。一筋のしずくは勢いを増し、氾濫し、洪水になった。今は泣く時じゃない。そう自分に言い聞かせても、彼は心を止めることができなかった。
彼女は寝そべりながら病室の窓から外を眺めていた。早朝の朝日は病室の真っ白な壁やシーツ、机をまんべんなく薄水色に染め上げる。すずめのさえずりも、うるさい排気音も、まだ聞こえない。彼女は朝日が昇ろうとする一歩手前の時間が好きだった。世界がこの時間帯だけ、いっせいに止まる。そんな時間に起きて外を眺めているのは自分だけのような気がして、こんな自分でも生きている気がした。生きている実感は彼女にとってとても重要なものだった。なぜなら、死を間近なものとして考えているからだ。彼女は死ぬということを毎日考えていた。いつか死ぬ、そんな悠長なことはいってられない。考えるべき、乗り越えなければならない問題はもうすぐ死ぬという予感を完全に消すにはどうしたらよいか、だった。
彼は寝そべりながら寝室の窓から外を眺めていた。「早朝の朝日は、完全な朝日よりも薄くて儚くて、そんな時間に起きているってなんだか特別じゃない。」と言っていた彼女の言葉を思い出した。うるさいバイクの音も、近所の幹線道路の騒音も、まだ聞こえない。この時間に起きているであろう彼女のことを思い出した。彼は彼女の支えになれるか不安だった。彼女はとても強くて、聡明で、それでいて美しい。もし世の中に、生きるべき人間と生きられない人間を振り分ける必要があるのなら、自分のちっぽけな存在とは比べものにならないくらい、彼女は生きるべき人間だと思った。そんな必要に迫られた世界で生きていたいとは思わないけれど、彼女のためになるのなら命を分けてもかまわない。彼は何もできない自分を無力だと感じて、切実にそう思った。
薄水色の世界はやがて黄金色に輝いていく。そして一日が始まる。彼女は病院の中庭で絵を描いていた。中庭の風景画を描くのが彼女の日課だった。徐々に完成に近づき、あとは仕上げをする段階だった。きれいに彩られた絵を見て彼女は、一日の始まりは絵を描く工程と似ていると思った。始めに下書きをして、その上から色を乗せていく。白色のキャンバスに輪郭しか見えなかった対象がだんだんと形をもって、色をはっきりとさせていく。まるで朝日と同じだ。彼女の下書きはいつも薄水色の鉛筆だった。彼女は作業に戻り、色を付け足していく。そして輪郭をもった絵は、自分のいない場所を映し出していく。自分の存在しない世界を描いているような気持ちになってしまう。彼女は仕上げをまた今度にして、病室へと帰っていった。
彼は連絡を聞いて、病院へと急いだ。愛用のクロスバイクは彼を乗せて風をきって走っていく。病院へと脇目もふらずに走って走って、彼がたどり着いたときには彼女はいつものように眠っていた。
透き通るような肌。何者も触れてはならないような、そんな神聖さを彼は感じた。彼は彼女に触れることはできなかった。自分には触れることさえ許されないとも思った。美しく眠る彼女を見て、彼はまた一筋の涙を流した。
帰る途中に彼は中庭で一枚の絵を見つけた。見覚えのある絵だった。彼女は体調がまだ良かった頃、この絵を見せてくれた。いろいろな絵を中庭で描いたけれど、今回の絵は今まで以上に真剣に描きたいと彼女は言っていた。何か鬼気迫る雰囲気の彼女を見て、何も気の利いたことを言えなかったことを彼は覚えていた。だがその絵は、彼が見たものとは明らかに違っていた。彼はまた泣きたくなった。その捨てられている絵を大事に包んで持って帰った。
キャンバスには青い日差しを放つ黒い月が描かれていた。太陽のように木々を照らす、真っ黒な月。なにものにも変えられない運命があるとすれば、それは絶望でしかないと彼は思った。だが、変えられる運命もあると彼は信じている。彼女のことを考えるたび、彼はそのキャンバスを見る。