私が北海道新聞の記者になり、
初めて赴任したのは小樽支社でした。
石原裕次郎さんが小学生時代に過ごした縁で、
赴任した翌年に「裕次郎記念館」が建てられ、
小樽観光ブームが訪れたころです。
小樽運河沿い一帯が注目を集めました。
石造倉庫を活用して、
おもちゃ鑑定で有名な北原照久さんが、
古いおもちゃを展示する博物館を開設したり、
ガラス工芸品や寿司店も。
これらの再活用、再利用はほとんど、
小樽出身者ではなく、
移住してきた人の発想でした。
ここにヒントがあると思います。
何か新しいことをするヒントが。
魅力を見出すヒントが。
新鮮な目で見る。
石造倉庫を倉庫としてだけで使わない。
倉庫を「物流の中継点」としてだけで見ない。
移住してきた人たちがおしゃれだと感じ、
建物の魅力を引き出したからこそ、です。
関連して
新聞記者の話を書きます。
北海道新聞社の場合ですが。
北海道新聞社の記者は、
私がいた当時ですが、
北海道出身者が約半数で、
道外出身者が約半数。
北海道出身者を、
出身地に赴任させないことが
慣習になっていました。
これには2つの意味があるのです。
出身地は何かと「しがらみ」があるため、
記者活動を制限させないようにという意味。
もう一つは「新鮮な目で見る」ためです。
私は登別市内で育ち、
隣接する室蘭の高校を卒業しました。
ですから、慣習に従えば、
室蘭支社には赴任させないということです。
実際に室蘭支社には縁がありませんでした。
本社のある札幌以外で赴任したのは
小樽と十勝の広尾町だけです。
(広尾支局は広尾、大樹、忠類の2町1村が管轄)
小樽にいた2年数カ月、
記者になったばかりというだけでなく、
何もかも新鮮に感じたのは、
見るもの、聞くことすべてが、
慣れ親しんだ「当たり前」の環境ではないことが
大きな要因だったと思います。
パブリシティを考える時、
私が大切にしているのは「常識を疑う」ことです。
例えばこういうことです。
新聞社の仕事は何だろうと考えた時、
「新聞を発行すること」になりますが、
では、新聞とは何かとなると…
「紙に印刷したもの」という考えから抜け出さないと、
新たな発想はできません。
新聞=紙だという「常識」を持つ自分がいたことに気付くと、
違う形で発行してもいいじゃないかとなります。
私が記者になった1990年から28年経ち、
インターネットで記事を読むことができます。
私は記者になった当時から、
新聞の常識のいくつかに疑問を感じていました。
「トラックで配送する理由はなぜか」もそうです。
すでに当時、ファクスがありました。
新聞社が時代の変化に対応するために、
通信会社、電器メーカーと手を組んで、
新たな「総合受信機」を出せませんかと、
会社への意見に書いたこともありました。
なぜ、そう考えたのかというと、
北海道は広いため、悪天候の日は
新聞が届く時刻が遅れる地域があったので。
新聞という商品を同じ価格で売る以上、
同じサービス(時刻)を提供するためには
新しい発想が必要だと感じたからです。
そんなことを新人当時、
先輩たちに話したら…
「印刷部門、発送部門も同じ組合員なんだぞ」と
怒られました。
そういう「常識や通例」は改革を妨げます。
今は世界中がインターネットで結ばれ、
報道機関だけでなく個人発信も瞬時の時代に。
記者になった当時の発想を大きく超える
状況の変化ですね。
元新聞記者、元テレビ局デスク
メディアコンサルタント・荒川岳志
オリジナルのパブリシティ講座
道のりを動画で紹介しています。