日本人はなぜ人間のタイプ分けが得意か
前回、私は、
>いわば性格とは、二つの異質な物質が触れ合ったときの化学反応に喩えられます。
と書きました。
孤立した性格というのはないのです。性格とは、必ず一定の人間関係の中での性格なのです。
しかし、以下のように反論する人もおいででしょう。
「テレビを見ながら本が読めるか、それとも読めないか、といったことは、他人とは関係のない、その人自身の性格傾向の問題ではないか?」
これに対して私は、こう答えましょう。
「そもそもそのようなことが気になること自体、自分の性格を、他人の性格と暗に比較しているのである」
と。
テレビを見ながら本を読めるかどうか、という疑問は、その行動に最低でも2パターンあることを前提しており、したがって、最低でも自分以外のもう一人の人物を想定していなければ考えることすら出来ないことではありませんか?
われわれがそんな些細な日常の行為に関してアレコレと気に病んだりするのは、必ず他人と自分の違いへの気遣いがあるからなのです。
これは、日本人に特に強い傾向ですが、基本的には、人類に普遍的な心理です。
ただ、日本人は、言語も顔も肌の色も大体同じに見える単一民族としての同族意識を、他の国の人々より強く持っています。
目に見える部分では、みんな同じように見えるため、個々人の違いを、目に見えない部分に探し求めることになる。
最近では、DNAにそれを求めようという発想が強いけれども、これはタイプ分けには不向きです。
なぜなら、極端な話、各々の家族の血統の数だけ、遺伝子の組み合わせの数があるとも言えるからです。
そこで、わずか4タイプしかない血液型に、違いの基準を求めたくなるのです。
さすがに単一民族といっても、この4タイプくらいには人間性のバリエーションが分かれても不思議な気はしませんからね。
日本人は、他人と同じでいることを好む民族です。その趣味感覚が、4つの所属集団という発想を生んだのです。
たとえば、自由人に多いと言われるB型の人でさえ、自分がB型集団に所属しているということで、一定の安心感を得ているわけですね。
日本人の場合、B型人間でさえ、他人との比較に余念がないのですよ。
さてしかし、所属への欲求が生み出した4タイプの人間像は、それでも、他人との比較を気にしすぎる日本民族の誇大妄想であり、人類に普遍的には適用できない非科学的な迷信にすぎないのではないか?
違います。逆説的ですが、日本人は、他人との違いを極度に嫌うがゆえに、他人との違いの感覚が敏感となり、人間タイプの違いの根源的原因への科学的探究に、世界一熱心だったのです。
そうして、血液型と性格を関係づける研究でも、世界でトップクラスとなったのです。
ただ、西欧人の真似事が好きな日本人にしては珍しい、この独創的な発見は、残念ながら、世界にはあまり普及する見込みがありません。
それもそのはず、他民族の多くは、所属欲求よりも、個人主義を重視していて、人間性の違いを個々人の存在の違いと単純に考えるにとどまり、AとかBとかの所属集団の違いと考えるような発想を厭うからです。
欧米人やアフリカ人でも、客観的に見れば、似たような性向の持ち主が多くいて、タイプ分けも十分可能なのに、彼らは、みんなそれぞれ違うのだ、という命題最初にありきですので、自分が一定の性格集団に属するなどという発想は、頑として受け付けたがらないのです。
そういう意味では、深く考えない彼らはお気楽で得だともいえますが、また真理から目を閉ざしてるという意味では、いろいろと損をしているとも言えるでしょう。
これに対して、日本人は、他人との比較から、人間性のタイプについて、つねに深い哲学的思索と科学的探究心と感性の洗練に余念がなく、その結果、世界のどの民族よりも、真理に近づいていると、もっと自慢自負してもよろしいかと存じます。
しばしば世界から嘲弄され、さなくとも奇異の目で見られがちな、日本人の血液型へのこだわりには、そのようなからくりがあったのですね。
われわれは、もっとこの発見を世界に誇るべきです。
しかし、哀しいかな、この偉大な発見は、他人の目を気にする気質から生まれたものなので、その発想を世界から理解されず白眼視されるなら、われわれがそれを無視できず、自信を失うというのも、これまた克服しがたい運命の定めなのですが・・・
性格とは、人と人とが付き合って現れる相性のことなり
当ブログのタイトルに「発想が違う」と入れたのが、単なるはったりではなかったということは、
そろそろお気づきいただけたと思います。
血液型より人間性のタイプを基準にすること。
これは、案外発想としては稀有なものなのです。
一般の血液型占いなるものを見てみますと、そこには一種フェティシズム的とも言える決め付けがあるように感じられます。
A型は、こういう人間タイプです!といった感じのね。
ところが現実には、さまざまなタイプのA型人間が存在するわけですよね。
だから、血液型判断は当てにならない、硬直していると批判されるのです。
でも、発想を変えて、ともかく人間に、従属、支配、自由、変化という四つの「傾向性」がある、
ということは、もっと素直に受け入れられるのではないでしょうか?
これらは、人間社会がある限り、民族を超えてどこででも見ることの出来る普遍的な現象です。
ちょっと話は大きくなりますが、個人間の関係を超えて、国家間でも垣間見られる現象ですね。
それもそのはず、民族にせよ国家にせよ、所詮は一人一人の個人の傾向性が、純粋和算的に合わさって、
大きくなったものにすぎないからです。
ですので、私のこの人間タイプ理論は、心理学だけでなく、政治学や社会学や文化人類学などの、
人文科学全般の基礎をなしているとも言えるでしょう。
ところで、このことから、私の発想が、完全に孤立した一人の人間の性格分析を目指すものではなく、
人と人が出会ったときに現れる性格の分析を目指すものだということがご理解いただけると思います。
「あの人はB型だから、こういう人だ」という命題ではない。
むしろ、
「あの人はB型だから、A型の人と付き合うと、これこれこういう性格を現す」という命題から入るのです。
いわば性格とは、二つの異質な物質が触れ合ったときの化学反応に喩えられます。
水素と酸素は、水になって、初めて自分が水素あるいは酸素だったと気づくのです。
その意味で、私の理論では、孤立した性格など存在せず、
すべての性格は、人と人との相性と切り離して考えることのできないものなわけです。
私が、このブログを「血液型相性相談」と名づける所以です。
人間性の4タイプ
人間のタイプは、大きく分けると、
従属型、自由型、支配型、変化型、の四つがあります。
これが、血液のタイプのA型、B型、O型、AB型に対応している。
それで、血液型は、輸血時に問題になるだけでなく、性格判断のときにも何か関係があるはずだ、
という発想が生まれたわけです。
しかしながら、人間性の4タイプと、血液型の4タイプが、
一致しないように見える場合も多々ございます。
たとえば、従属型に対応するはずのA型の人間が、自由を求めたり、支配したがったり、相手に合わせて自分を変えたりするということは、当然のことながら、随所に見られる一般的現象ですね。
そもそも、人間性の4タイプは、大なり小なり、誰にでも備わる気質なのです。
そこで、私の血液型の発想では、A型は従属型とは規定しません。
A型にはA型なりの従属願望があるし、A型なりの自由欲求があるし、A型なりの支配欲求があるし、A型なりの変身願望がある。そのように考えます。
従いまして、私の血液型相性判断の基礎をなすのは、血液の4タイプではなく、人間性の4タイプのほうなのです。
誰しもが備える4つのファクターのバランス具合を、その人の血液型から読み取るのですね。
この知識を踏まえていると、対人関係で躓くことを未然に防止したり、現在躓いている場合は、軌道を修正するのに大いに役立つでしょう。
血液型判断は科学である
なぜ血液型が相性判断と関係するか。
それは、人間の性格が、血液型と同じく、四つに大別分類されるからです。
いわば、偶然の発見なのですね。
しかし、多くの科学者は、ここに必然性を見出そうとして、血液型と人間の性格の関係付けを行おうと試みました。
それゆえ、その後、血液型占いとか血液型性格判断と呼ばれるものの評価は、
科学的か科学的でないかを巡ってなされる運命となってしまったのです。
ですが、よくも考えてみてください。科学的とは何ぞや?
もしそれが科学的だとすれば、方法はデータ集めと実験観察、成果は概念の一般法則化、目的はこの法則を未来の予測に応用することなのです。
とすれば、血液型判断が従来通り行って来たことは、実は科学的すぎるほど科学的だったわけですね。
鑑定人は、非常に多くの人間関係の経験をして来て(データ集め)、
それぞれが自分の血液型判断の仮説に当てはまるかどうかを確かめ(実験観察)、
そして、上手く当てはまる事例を集めて分類し、一般法則化して来たのです。
科学は、法則性の例外を認めます。なぜなら、無限のデータ収集は不可能であり、
一定の有限個のデータから導き出された結論は、どこまでも蓋然的に留まるからです。
同様に、血液型判断も、科学である以上、はずれることがございます。
しかし、100回の血液型判断に対して、7、8回大外れがあったとしても、
残りの90回以上が当たっていれば、その結論を変えるには及ばないはずです。
血液型判断は嘘だいんちきだと騒ぐ人たちは、
意地になって反証例を探し回り、たった一つでもはずれているような例を見つけると、
それだけで血液型判断はでたらめだ、と言い募るのですね。
ところが、彼らが、その観察の中で、多くの当たっている事例を見て見ぬふりをしていることを忘れてはいけないでしょう。
非科学的なのは、どちらかというと、初めから自分の都合のいいものしか見ないように務める批判者の目のほうだとは考えられないでしょうか?
「血液型占い」と言ってしまうから、非科学的に聞こえるのでしょう。
鑑定人には、まるで神通力が備わり、何千回鑑定を行っても、一回もはずれることがないなどと、
大見得を切るから、胡散臭く感じられるのです。
また、鑑定人も、あきらかにはずれているのに、我田引水の理屈で、はずれていないと言い張らなければならず、冷静さを失い、自分の言うことを信じきる人間しか相手にしなくなり、常軌を逸してしまうのです。
鑑定士は、本当はもっと冷静で人間臭い科学者であるべきなのです。
はずれることもそりゃあるさ、でも、当たる確率のほうが遥かに高い、
そんな意味で、とりあえず鑑定士の判断を信じて実践してみたほうが、
頭ごなしに否定するよりも得ではないか、ということです。
参考程度に留めることですよ。
でも、目下の人間関係をどうしてよいかわからずに自殺しそうなくらい悩んでいる方にとっては、
そのわずかな参考でも、砂漠の中のオアシスになり得るでしょう。
だから、私は、自分の営みを、単なる人助け程度に思っていて、
「占い」などとは呼びません。それは科学的確率論に基づく分析判断なのですから。
さて、私独自の血液型相性判断の方法論については、さらに何回かに分けて解説して行きますが、
その間にも、さっそく恋愛その他のあらゆる人間関係のことで悩みの相談のある方は、
さしあたりコメント欄に、匿名で結構ですので、相談内容を書き込んでくだされば、
解説と並行して、できるだけ全員にお答えしていく所存です。
その際、当然のことながら、貴方の血液型とお相手の血液型を書いてください。
また、もう一つ重要な情報として、なるべく双方の家族構成を、わかる範囲内で教えていただきたいのです。
あとは、年齢、職業、趣味、人相、体格、を教えていただければ幸いですが、
プライバシーの関係上言いたくないという場合は、結構です。
ただし、上記の情報を一つでも多く提供していただいたほうが、一層正確な判断とアドバイスが出来ることは言うまでもありません。
最後に、私・四条光の素性に関する質問への回答は一切控えさせていただいております。
良きにつけ悪しきにつけ、鑑定人に対して主観的感情が芽生えると、
科学的であるべき血液型判断およびその実践において支障を来たしてしまう恐れが生じるからです。
鑑定人・相談者の双方が、お互いに顔と素性を晒さずに、純粋に人間関係の事象とその分析判断をすることができるネット媒体というものは、血液型相性判断にとって、途轍もない朗報をもたらしました。
この純粋情報空間のおかげで、極めて確度の高い科学的判定が下せるようになったからです。
私が、直接面談しての鑑定のほかに、このブログでの鑑定を並行して行おうと考えた最大の動機はそこにあります。