光の声が天(そら)高く ~世界共有幻想を超えて  -2ページ目

光の声が天(そら)高く ~世界共有幻想を超えて 

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この世界は夢。共有している幻想を超えて源へ——

ACIM(A Course in Miracles)を生きていく中で
心の底から湧き出してきたものをここでシェアします

前の記事からの続き……を書こうとして、とある出来事の時期を調べるつもりでこのブログ内を探していたら、こんな記事を発見!



歌いたいって…
歌いたいって…
歌いたいって…

こんなにはっきり言ってるよ〜〜〜〜!!
♪───O(≧∇≦)O────♪


すこーーーんと忘れてた。

もうね、側から見たら「アホなの?頭悪いの??」って感じだろう。
書き留めておいた自分 エライ(と褒めておこう)。

驚きすぎたので、これはこのままアップします。

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追記

しばらく外していた「いいね!」を復活させました。本当に「いいね!」と感じた時に押していただけると嬉しいです。

前の記事の続き

メッセージを観た後、ちょっと夏用のバックでも見ようとファッションビルへ。

2014年の春まで通勤に使っていた駅だけど、その後ほとんど来なかった。駅ビルのお店がすっかり入れ替わっていて、時間の経過に驚く。

ビルに入る前、ちらっとカラオケが気になった。先日、名古屋の 自然美を撮るアーティスト東優子さん と撮影の後 一緒に行って とても楽しかったことを思い出して。
こんなに一人カラオケが流行る前から、結構一人でやってた私。でも「まあ、後で時間があったらにしよう」と店内へ。

そのファッションビルも駅ビル同様、フロアの配置が覚えていたのと全然違って戸惑い……1階の以前バッグ売り場だったところまでとりあえず行ったものの、自分が場違いなところに来た気がして うろたえ……さり気なさを装って すすーっと出口を目指していた時、目に入ってきたもの……

PEARL!!!

PEARLって、ね。
世界一かっこいいバンドだと思ってる。
私にとっては格別。特別。
特別に思い入れがある。

だから、見た瞬間にピン!ときた。
カラオケに行けって言われてる!
了解。

すぐにビルから出て、さっき前を通ったカラオケ店へ。
案内されたのは7階の、大通りに面した壁が大きな窓になっている部屋。
まだ夕方前の時間帯。
夏至前のこの季節、日暮れが遅くて夕空が美しいので、ブラインドを開けて。
PEARLとSHO–TAこと田村直美さんの歌をノリノリで歌いまくる(向かいのビルから丸見えだけど、気にしない気にしない)。
♪───O(≧∇≦)O────♪
超☆気持ちいい。

ああ、私…
歌いたかったんだ! 踊りたかったんだ!

思えば、ずっと歌とリズムに浸ってきた。
幼稚園の時。お遊戯の発表会向けにクラスを2つに分けて違うタイプのダンスを練習しますという時、私は両方やりたくて両方に参加していたらしい…。
盆踊り大好き。
中学・高校は音楽部でコーラス。
学生時代は軽音楽サークルに入って ずっとやりたかったバンドをやってみたり、PEARLやロック系の(たぶんこのサークルに入らなかったら知らなかっただろう洋楽の)ライブに通ったり。

その後、職場で50人規模の合唱団に入団して沖縄まで歌いに行ったり(沖縄初上陸が歌うためだったよ〜!11月だったから海には入らず。ちなみにこの合唱団は練習スケジュールがキツくてついて行けず(それだけが理由じゃないけど)フェイドアウトしてしまった。関係者の方々、ごめんなさい)。
もっと小さいグループにも参加して、こちらは練習自体がゆるい雰囲気で、楽しく10年以上活動していた。
大人のバレエ教室にも少しだけ通った(夢だった〜。子どもの頃に少しでもかじっていれば…と悔やみつつ、脚の付け根の筋を傷めて挫折)。

そして2年前の6月、ララマルさんこと山口由起子さんの『美的世界の住人さんいらっしゃい』で お茶会デビューした時。
ララマルさんのプチ強みセッションで見抜かれていた。初対面、1対1でもなく ほんの2〜3時間ご一緒しただけなのに「歌とか踊りとかはどうですか」と。
この時の様子はこちら→  ☆  


そしてこのブログの名前にしたって、歌の歌詞をお借りしている。詳しくは↓



こんなに書けちゃう あれこれを、どういうわけかすっか〜〜り忘れてるんだよね。


え〜と…話の行方が見えなくなってますが。
続きます。

↓PEARL・田村直美さんの公式HP


ちなみにファッションビルで見かけたPEARLはコレでした↓
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毎日がとても濃くて、映画『メッセージ』を観てから2週間経っていないのが嘘みたい。

(『メッセージ』のことはFacebookには書いたけど、こっちにはまだだった)

 

あぁ、そうか…『メッセージ』はスイッチの役目を果たしたのかも。

ええと、何から書いてよいやら…なのだけれど。

 

映画『メッセージ』には地球外生命体との いわゆるファーストコンタクトが描かれている。

世界各地の上空に複数あらわれた宇宙船に人々の緊張は高まるが、相手がどんな方法で意思疎通するのか皆目見当がつかない手探り状態(口とか耳とか、あるのか わからないし…)の中、言語学者である主人公が地球外生命体と対話し、彼らが地球へ来た理由を探っていく。

 

映画の中にキーとして「サピア・ウォーフの仮説」という理論が出てくる。

「サピア・ウォーフの仮説」とは「個人が使用できる言語によって その個人の思考が影響を受ける」ことを体系化した理論(Wikipedia の「言語的相対論」の説明より)

 

これ、個人的にとても興味がある理論で、今日この記事を書くために少し検索したら、こんなページ(『使う言語「世界の見え方」を決めている:研究結果』)に辿り着いたり(そして余談だけど、この辿り着いたページの第2段落に出てくる小説『1984』は、2ヶ月くらい前に書店で見かけて気になっていた本だった!)。

 

この世界を天国と見るか地獄と見るかは本当に自分次第だなぁと感じている。

ACIMを拠り所にしてキリストの目でみることを日々、練習しているところなのだけど。

(またまた余談だけど、「きりすとのめで」と打って漢字変換させたら「キリストの愛」と変換されたよ〜

 *\(^o^)/* 素敵すぎる)

 

そして。。(Facebookから引用↓)

観ましたヽ(^o^)
あるシーンで号泣しました。板垣 昭子さんが「号泣するような映画ではないけど号泣」という旨の投稿していましたが、そのとおりでした。
理屈や理由がわからないけど「そうだよね〜〜!」という、私には割とお馴染みの あの感覚がやってきて。

ただ、半田 広宣さんも投稿なさっていましたが、題名は原題『Arrival』のほうがより良かったかなーと。
『メッセージ』では伝えられる情報に重きが置かれている気がする。一方『Arrival』の場合、そのArrivalによって(新たな境地・次元・世界に)Arrivalする主人公(あるいは人類)…というように、重層的に意味を込めることができるなと。

 

 

その地球外生命体が伝えてきたメッセージの内容は…

(注! 画像より下はネタバレあり)

 

 

 

 

その地球外生命体が伝えてきたメッセージの内容は「時間」に関するものだった。

彼らは、過去から現在そして未来へというように「線形」に時間を捉えるのではなく、すべてが同時にあるものとして捉える。

主人公は地球外生命体の言語を習得していく中で、彼らの思考体系をも習得していき、この「同時的認識様式」(事象を同時に経験し、その根源に潜む目的を知覚する認識様式)を獲得していく。

そして主人公は、いずれ愛娘を失うことになるということを知りつつ、それでも愛する人と結ばれ 娘を産むという選択をする(しかも、その後 夫と別れてしまうこともわかっているのだ)。

 

自分だったらどうするだろう?

失うことをおそれて、愛することを諦めるのか?

 

失うことをおそれて愛を諦めることなかれ。

自分へのメッセージだ、と今 気づく。

 

続く

 

 

何に価値を置くのか。何に時間をかけるのか。

何に自分のエネルギーを注ぎ込むのか。

 

以前は、まず仕事に価値を置いていた。

自分ではそんなつもりはなかった(あまりに大前提すぎて気づいてなかった)けれど、

実際に時間をかけ エネルギーを注いでいたのは仕事だった。

 

自分が価値を置きたいと思っているものと

結果として自分が価値を置いているものとの間にズレがあるとき、

苦しさを感じるのだと思う。それが昂じると病になっていったりする。

 

今、最優先にしているのは

心の平安。

 

外(のように思えるところ)で何が起きてい(るように見え)ようとも、

静けさの中にいることはできる。

でもまだしばらくは、外側を調えることが

永遠の平安の中にいる(と自覚する)ために役に立つ。

 

だから

休みをとって、美しいものや感動するものに浸りに行ったり、

気持ちいいと感じるところで ひたすら ぼ〜〜〜っとしたり、

心が浮き立つものを使ったり身につけたり、

気がすむまで引き出しの中を片付けたりする。

昼寝をしたいなら存分に。

美味しいものを食べたいのなら とびきり美味しいものを。

 

自分をメンテナンスする。

自分に滋養を与える。

あふれんばかりに豊かに、与えて与えて与えまくる。

 

自分が清々しい気持ちでいること、心地よくいること——

 

 

 

 

六本木の国立新美術館で Mucha 展 を観た。

 

Alfons Mucha(アルフォンス・ムハ)—— アール・ヌーボーの巨匠として名高いミュシャ。

彼の名前だと思ってきた「ミュシャ」はフランス語による発音で、彼の母国語であるチェコ語では「ムハ」と発音することを知った。

 

 

 

19世紀末のパリ。34歳のとき、花や女性の姿を装飾的に描いて一躍有名になったムハは、グラフィックデザイナー(ポスター作家)としての顔を持ちつつ、祖国への熱い想いを胸に、フリーメイソンに加入し、神智学やスピリチュアリズムの薫陶を受け、思想表現のツールとしても芸術を用いた。

その集大成が《スラヴ叙事詩》20連作。

基本寸法6×8mの巨大なキャンバスに描かれたスラヴ民族1500年の苦難と栄光の歴史が20点揃って公開されるのは チェコ以外では日本が初めてとのこと。

 

スラヴの意味も曖昧なまま出かけた先で観たのは、祖国を そして人類を愛してやまない

ひとりの芸術家の魂。

 

平日にもかかわらず人でごった返す中、壁画のように大きな絵の前で立ち尽くしていた。

映像コーナーで紹介されていたムハの言葉が何度も蘇る。

「私の祖国が打ち捨てられ、どぶ水で喉の渇きを癒している時に、金持ちのための仕事や 花や女性を描く仕事で、私の貴重な時間は無駄に費やされていたのだ」

失われた時間を悔い、以後は祖国のための仕事に自分の人生を捧げようと決意するムハ。

 

涙が出た。

 

でもね、ムハ。

ぜんぜん無駄では なかったよ。

あなたが植物や女性たちをあのように麗しく優美に描いたことによって、100年後、アジアの片隅のこんな小さな島国にまで、あなたの想いが伝わっているよ。

こんなにたくさんの人たちが、あなたのスラヴへの そして人類への愛を感じようとして、連日ここへ足を運んでいるよ。

そのなかのひとりがあなたの想いに打たれて、あなたの絵の前に立ち尽くしているよ。

だからそれらの時間は決して無駄ではなかったよ。

 

確かに、あなたが思い描いたとおりには《スラヴ叙事詩》は活かされなかったかもしれない。間に合わなかった感もあっただろう。時代遅れのものという批判や誤解もあった。

でも、私たちが理解できる域幅はとても限られているから、私たちには理解できない理由で、今この時代にもう一度、ここ日本で展示されているのだと思う。

 

クローバークローバークローバー

 

会期が6月5日までと残りわずかだけれど、時間をつくって ぜひ もう一度行きたい。

 

撮影可能なエリア(!)あり。

↑《スラヴ叙事詩》20番 スラヴ賛歌(究極のスラヴ)の一部

 

↑ 同上

 

↑《スラヴ叙事詩》の中で唯一 未完成の18番(政治的な理由?)

  一番好きかも。完成していたらどんなに素晴らしかったことか。。

 

クローバーこれから行くかたへのアドバイスクローバー混雑してますクローバー

チケットはコンビニなどで入手しておくと待ち時間短縮に。

音声ガイドを借りて作品の世界に浸るのがおすすめ。

水は必携。一口で食べられるおやつもあると安心かも。

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