(1の続き)
実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、
自由で不自由なものはない。こんなものが
あるから生きにくいと想っても、これを離れる
ということが出来ないということになれば、
じゃあこれをどうすればいいか。
想いを浄めていかなければならない。あるいは、
言葉を高めていかなきゃなんない。それは何に
よって浄められるかというと、やっぱりこれは、
祈り言、祈り言葉、祈って浄めてゆける。
あるいは、祈り心によって浄めてゆける訳
であります。
ということはどういうことかと申しますと、
神様から来た想い、神様から来た言葉である
ということを、もう一度見つめ直して考え直して、
それを神様の元へ一回かえす。かえして生命を
いただき直す。
私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、
何一つ自分で造ったものはないんですね。
生まれて来た時も、我々が製造して持って来た
手だとか指だとか、そんなものはあり得ないん
ですね。全部借りてきた生命なんです。貰って
きた生命なんですね。どっから貰ってきたか、
神様から貰ってきた。でも神様から貰ってきた
けれども、その神様が下すった生命を支えている
光の流れというものは、神様と等しいものな訳
ですね。そして、神様の本質、本体、本心という
ものは、ただただ深い愛念なわけですね。
ですから、この深い愛念と等しくなって
しまうと、想いとか言葉とかいうものが、
だんだんだんだん色々な余分なものがとれて
いって、角がとれていって丸くなって、そして
柔らかくなって、そうして、ただ溢れるばかりの
愛念、光、祈り、そういうものに一致していって、
ついに調和の世界の方へもっていける様に
なる訳ですね。
しかし、長年長年長年、この地球世界という
ものは、業で汚れ切って汚れ切って汚れ切って
おりますから、ですから、その汚れ切った世界の
中でいくら人間が頑張って愛念を出しても、
祈っても、ちょっとやそっとのことでは清く
なっていかない。何しろ、汚れの方の歴史が
長いんですから。むこうの方が古いんですから。
ですから、それを浄めるというのは、本当に
並み大抵のことじゃない。並み大抵のことじゃ
ないけれども、今それをやらなかったら、この
地球世界はともかく、もっともっと広い宇宙
そのものの調和も本当には完成していかないんだ
というこの視点に立ちますと、やっぱり我々は、
汚れ切って汚れ切っているこの中でも、祈って
愛して、そうして言葉も想いも神様から来たもの
であるということを大事にしながら、やっぱり
出来るだけ愛念の言葉を想いを出していかないと
いけない。
出しても出しても何にもならないという想いも
又、これ消えてゆく姿で、消してもらって、
そうして、段々段々、徐々に徐々にでもいいから、
この地球世界のひびきというか流れというかね、
そういうものを光明化していく。
その為には何が一番いいか。それは世界人類が
平和でありますようにというこの祈りなんですね。
これを想わない人はないんです。自分だけが
平和でありますようにといったって、これは
自分だって世界人類の一人なんだからね。
ですから、それを想わない人は一人もいない
わけです。
例えば、こういう祈りを知らない人でも、
世界の平和が保てなかったら、自分はもう核爆発
で死んじゃうだろうと。そういう何か一触即発の
危ない世界の状勢なんだということは、皆、今
子供から大人まで分かってる訳ですから。
そういう危ない世界の中に私達はいる
訳です。生きてる訳ですね。
で、これをどうすればいいかということで、今、
米国もソ連もヨーロッパも皆苦労してる。
レーガンとゴルバチョフだって今必死に握手
しようとしている。あれはもちろん、それぞれの
国益もまだまだ持ってるし、まだまだ真の
世界平和のところまで想念そのものはいっては
いないけれども、しかし、まず現実世界の中で
握手をして、そうして、世界平和の為に戦争の
手段のものをどんどん減らしていくという現実
そういう政府間の協議がなければ、まず障害
というものは取り除かれてはいかない訳ですね。
それで、それを支えるものは何かというと
祈りなんです。
(3に続く)