想いということ、それから言葉ということ、
これは人間である限り、想いも言葉も、
人間からは死ぬまで離れていかない。あるいは
死んでも離れていかないものなんでありますが、
この言葉というものも、想いというものも、
どちらも自由自在に自分の中でこなしてゆく、
あるいはこなれてゆくというのは、非常にこれは
難しい。実に想いも言葉もやっかいなもので
あります。
私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
切り換えるとか申しますけれども、この場合の
想いというのは、実はあまり良い想いではない。
どっちかというと、この人間商売をやっていて、
もう止めたいなと想う様なことが連続してきて
どうにもならなくなって、にっちもさっちも
いかなくなって、暗い想いが出てきた時に、想い
なんてあるから、こんな気持ちがあるから人間
止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想いで
あります。あるいはそれに付属してですね、言葉
というものも明るくはなっていかない。ところが、
じゃあ想わなきゃいい、言葉を出さなきゃいい
ということになって、それを望んでも、人間
というものは想いからあるいは言葉から切り離さ
れてはゆかないのであります。仮りに想うことを
禁じてあるいは言葉を出すことを禁じて、
一日でも暮せと言われたらですね、これは、人間
というのは非常に生きにくい。もう息がしにくく
なってしまう。そういう存在である訳です。
そして、それは何かというと、想いとか言葉
とかいうものは本来は神様の方から出てくる
エネルギーだということなんであります。
この神様の方からくるエネルギーだという
ことをわきまえておりませんと、非常に
想い違いをしてしまう。想いを軽くするとか
想いが沈んでいく重くなるというのは、これは
自分の中にある人間の我、ここで想いという
言葉を使ってしまうとその想いという言葉で皆
雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは我
という言葉を使いますが、その我の方へ引っぱ
られた想いに皆今なっている訳であります。
ところが、もともとの想いというのはどういう
想いであったかというと、人間生まれた時のその
瞬間というのは、むこうからこちらへ出て来た
時の瞬間の想いというのは真白なんです。その
真白の想いというのは神様のふところから入って
出て来たその想いでありますから、本当にこれは
無垢の、純粋無垢の想いで、このまま大きく
なってゆけば、その人から出てくる想いも言葉も
これは光そのものの想いで、あるいは、何を
やっても光明化されていく想いになっていく訳
でありますけれども、人間の生活の中に我という
ものがありますから、肉体というものを
纏ってしまったその想い癖というものが
ありまして、その我の生活の中から出てくる言葉
なり想いなりというものが年々不自由さを、実は
纏わせていくものなんであります。
ところが、昔から言霊とか申しますように、
本当は言葉というものも想いというものも、
両方ともこれは自分が出すもんではない。
むこうの世界、守護霊さんなり守護神さんなり、
あるいは神様なり、我々を生かしめている
エネルギーの元という風(ふう)考えてもいい
のであります。そこのところがですね、今逆転
してしまっているんです。
あいつはこんなこと言いやがったとか、こんな
こと言われたら俺だまっちゃいられねえー
とかですね。そんなことを考えるから、そこで
その憎たらしいとか、悔しいとかいう想いが
飛んでいって、又争(あらそ)いが大きくなる。
憎いという想いが飛んでいきゃ憎い、に
なります。愛(いと)しいという想いが
飛んでくりゃ、やっぱりこっちも愛(いと)しい、
となるんです。それがつくづく分かるのは死んで
からなんですね。死んで、自由な体になっちまっ
たら、むこうへ行けばですね、想いというのは、
そのまんま実現する訳ですから。
ですから何にも無いんです。全く想いの
まんまの世界が自分の目の前に出てくる。こんな
たまらない世界はない訳ですね。
だから、今何でそれが実現されないかというと、
人間が肉体の世界のこの不自由な世界の中で、
色んな物を物質化して、そして、肉体の波に
合うように、固い鉱物だとか何だとか色んな
ものがまわりにあって、なかなか、その想い
というか想念そのままの世界を実現するには、
ちょっと時間がかかる様に出来ている。ところが、
むこうはひびきそのままなんですね。
人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、
そこへ合わせたひびきが出てくるから、その
ひびきがどういう流れのものであるかということ
によって、その想いが浄められもすれば言葉も
やわらかくなるということになっていく訳です。
(2に続く)