①発達障がい〜人間のいいとこ①はこちら


前回からのつづきです。

これは、実際、私の身近な子どもが経験している現場のはなしです。

【全ての場所がそうではありません】


診断名がついた事を

保護者の方は丁寧に、園に伝えました。

私もそれをすすめたのです。

子どものためを想い、した行為。

子どもを理解してもらうためにした行為でした。



しかし、それからは


問題児のレッテル。




ないものばかりに大人は目がいくようになり、


彼のあるものに気づかなくなる。



フラットにその子を見れなくなる現実。



診断名があることで救われる子

診断名があることで居場所が奪われる子



がいる中で



大きな違いは、大人一人一人の力量の違いなのが現実です。



そんな、運任せなところがあるのが現実かもしれません。



それではいけない!


という事になると、全てが数値化されてしまうしかない。


誰が担任でも"同じレベルの教育"をとなる。

マニュアルが必要にもなる。

カリキュラムにはめるしかなくなる。


本末転倒。。。のようなことが起こる。


でも、大人の力量に任されてしまう事をさけるために、今の教育ができたのだと思うし、解決策は、


大人のレベルあげよう!数字じゃないとこで、余裕もとう!余白を活かそう!目に見えないところを追い求めよう!


目に見えないとこにある情報こそが実は1番正しい事実だったりするけれど、それだけだと、ちょっとした寂しさみたいなものも感じるし、何事もバランスですが、実際、現実は様々な情報に私達は忙しい。



盲目の方は坂道を登りながらここには山があったと言う情報だけを感じるけど、目が見えるが故に道路沿いにあるマック食べたいな、コンビニ寄ろうなど情報が多くて坂道がなぜここにあるかなんて考えなくなる。見える人間は見えている情報が先に来るから。ネットもそう。だからこそ、意識をどこに向けていくかは、子育てだけではなく生きること自体に問われている時代な気がします。




昔みたいに時計もスマホもないような時代じゃないから、大人はみんな社会で生きなければならないし、そんな余裕がないんだと思います。。。しかも、コロナ禍、現実問題、様々なストレスも増えています。今の時代は、更に課題が増えている。





集団でたくさんの子どもがいれば

トラブルは起きるでしょう。


なぜならば、またその子どもたちも大人が作った当たり前の世界で生きているから仕方ない。



みんなと同じではない人間を


悪気なく否定する。除外する。



否定された側や

気持ちの表現力が追いつかない子は


手を出す子もいれば



感情をおさえる子は自分の世界を大切にし、


また集団と同じ行動をとらず大人を困らせる。



どちらにしろ、




問題児となる。

【ちなみに、お教室で問題児と思った事は一度もありません。私の話も聞いてくれるし、むしろ好きなことにはまっすぐで感心する。できる事も確実に増えている。愛らしい。可愛い。】



本来なら、子どもに携わる仕事の大人は特に

枠にはまってはいけないのかもしれない。

【だからと言って浮世離れもできないのが教育者でもあるかもしれません。守るべきものがあるから。子どもを守らねばならないから。】



でも、免許、資格、学び自体が枠にはまって子どもの世界に入ってくるので、先生が悪いわけではなく、その環境に変化を起こさねばならないのかもしれないけど


ただ、それは簡単じゃない。。。


横一列で生きてきた人間が


それが正しいとされてきた環境が


事実存在し、今も残る。



その中で私達は生きている。



その中に少なからず、まだあと数十年は今の目の前の子達を交わらせていかねばならないのでしょう。。




大人は時間がないから

そこになかなか時間をかけてあげられない。


ならば、なにができるかな


世の中とのバランスを時には崩しながら発達障がい児を育てるママたちと、子育て中のママたちと、とにかく模索しています。

模索するにも

社会とコミニケーションをとるしかないのです。

向き合い、向き合ってもらうしかないのです。

逃げられるとおしまい。

またはお金で解決。

そんなパターンも過去にはありました。



例えばのはなし。


発達障がいの子は衝動的に感じたままを表現する。


「ゴリラの顔に似てるね」


と、お友達に言うと


大人は


いけない事を言ったと突差に判断し、間に入りがちです。


なんでそう感じたのか?を言った本人にも聞かず、

言われた側にも


「言われてどんな気持ち?」

までしか聞かなかったりする。


本当はもう一つ踏み込んで

「なんでその気持ちになったのかな?」

と、言われた側の子どもに考えさせてあげられたら

「ゴリラは可愛くないから」

などと、答えられるようにもなり、

「なんで可愛くないの?」

と聞けば

「うさぎの方が可愛いもん」

となり、

「うさぎが好きなのね」

と、

またその子のことを知るきっかけにもなる。 


時にはただ単に

大人がゴリラが可愛くない動物だと言う環境を作り上げているだけの場合もあり、

なんで?

と聞くと

答えられない子も居たりして

その子の置かれた環境が見えたりもする。



大人は時間がないから

そこになかなか時間をかけてあげられない。


すぐに、一般的な正論で深い理由なしに


そんなこと言ってはダメよの空気を作る。


けど、空気は目に見えないし、その空気とやらが正しい空気かもわからない。


でも、空気読めないと、更に悪い子扱いになるし、その空気に敏感になりすぎても、子どもは生きにくいわけで。


空気読めない子のレッテルが貼られると

衝動的な部分をマイナス観点からしか見ない空気が世の中には存在しています。

目に見えない部分を、目に見える形で否定する。


その空気が、発達障がいの子が心を閉ざしてしまったり、益々、交われない空気になるのではないかなどと考えてしまう。わからないことをわからないと言う気にすらならなくなると言うか

上底して暮らすことを選択させられてしまうと言うか



その子にとっては

「パパに似てるね」

と、変わらなかったりするのです。


動物に似てると言われて


それがゴリラで


傷つく子も勿論いるでしょう。



でも、パパに似てる!で傷つく子も中にはいます。

でも、安易にパパ似だね、ママ似だねって私達は言いませんか?


それは空気読めないには当てはまらない。



人間関係の中でバランスをとっていることがたくさんあるはずです。



傷つけて傷ついて

人は成長します。お互いに学びの時間。


時間はかかるけども。愛情って時間なのかもって思うくらい。


    

効率の良い子育てなんて
存在するのだろうか





継続できてこその土台作り。

繋がり続けたいと思えるかどうか。



だから


モンテッソーリ教育は


子どもをとことん観察することが最大の大人のお仕事なのです。


大人が子どもを観察できる余裕ができたら

【私は家事は後回しにしかしません💦余裕があるときにするのが家事です。笑

でも最初の10年だけ、そうするだけであとは大丈夫なんです。子どもが自立していきます。】

そして、一人一人に合わせた環境を整えるのが私達大人のお仕事。

人的環境と物的環境がきちんと揃ってこそ、

人間は自己教育力で、自ら羽を広げ伸びていく。

ただののびのび育児では伸びていく方向が違っても気づいてあげられないからこそのモンテッソーリ教育。

親が多忙でそんなことしていられない

の場合、ならば、

どうするか。。。

それを考えるのが親の務めかもしれない。


考えたけど難しいで片づけられるほど

簡単じゃないことの繰り返しだから

その場合は、お教室の門を叩いてください^_^

大人の身の置き場で変わります。

小さな目に見えない積み重ねは裏切らない。



モンテのお教室にも様々な色が存在しているからまずは大人から自己選択なんですよね♫




    

環境なしに自ら真っ直ぐに
伸びることはない




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