私の教室には


発達障がいと言われる子どもたち、大人たちも通ってくれています。


クラスも同じ。特に何も変わりません。


モンテッソーリは、最初から一人一人に合わせた教育法なので、クラスを分ける必要もないのです。


そして、特にirodoriは少人数制なので

みんな落ち着いて活動がしやすい環境となっています。




今でこそ名前がある個性。


その個性は


近年は


自閉症スペクトラム



と、一つにまとめられて診断されるようにもなりつつあります。グレーゾーンと言う枠も。

グレーだから軽症、名前があるから重症というものでもないのですが。





その中には


一つではまとめられない


一つ一つの行動に、一人一人違いがあり、


対応もそれぞれ異なると言う



いわゆるどんな人間、誰にでもそうである"人間関係"が求められているんですよね。



100点満点の正解はない中で



手探りでとにかく心を通わせることは



発達障がい者も、健常者【平均的】も変わらないと思っています。



私はその手探りを子どもたちと繰り返すお仕事。

針の穴に糸を通すような作業かもしれません。


困ることはない。考えさせられることはあるけれど、迷惑とか、大変とかは一切ない。

心が通じ合わず悲しい気持ちになることはある。

何がよくなかったのか自分の無力さにぶつかることもある。その度にただただ反省したり、今何をするべきか考えてしまう。答えがすぐに出ないときもある。

けど、頭の片隅にいつもある。


むしろ、私自身を伸ばしてもらう事も多いのです。

その方が多いかもしれないくらい。


だから、別に私がすごいわけでは全くないのですm(_ _)mすごいのは私と出会ってくれた人たち。

きっと保護者の方は、私と出会うまでの間にどん底も見てきている人かもしれないです。

障がいは個性だよね!

なんて、すぐに思える親はなかなかいなくて当たり前だと思うし、不安になったり、もがいて、時間が過ぎて私にたどり着いてくれたのかもしれない。

だから、安易にも考えたくないし、傍観者でもいたくない。






一人一人に合わせたぴったりな環境を


追い求め、ぴったりがはまったときは



小さな達成感で私自身も幸せにしてもらっているわけです。ありがとう^_^と言う気持ち。時にはこんなに時間かかってごめんねの気持ち。


私はお医者様じゃないから

何かをしてあげるわけじゃない。

ただ、一緒にいることが楽しい。面白い。

どんな人間も誰かを幸せにできる。

私はそこがブレないだけかもしれない。

この子達ともっと楽しいことしたいなって。

いつかもっと深いところで分かり合えるんじゃないかって。



"楽しい"は知識となり、
誰かの役に立つときがくるから。





ただ、現実はその器がある場所ばかりではなかったりします。

私みたいに楽しいだけでは済まない環境の人たちも勿論います。



悲しい現実の話が耳に入ります。



集団生活とはこう言うこと







それは大人に余裕がない


の一言につきるのかもしれません。


誰のせいでもない。



金銭的余裕


心の余裕


体力的な余裕


時間の余裕


知識をつける余裕


経験を重ねていく余裕



様々な余裕のなさが



発達障がいの人間が迷惑に変わるのではないか。

発達障がいは「問題がある」にされてしまうのではないか。


もっと言うならば


子育てが大変


にしか光が当たらないのではないか。



だから、私はこのお仕事を続けるために

様々な余裕を心がけています。

自分のご機嫌は自分でとる努力。

誰になんて思われても、自分の心を大切にする努力。時には自分で自分を騙す術も必要になる。

このお仕事には、知識と経験を重ねる事と同じくらい必要なことだと思っていて

余裕のない先生はお金はもらえないと思っています。





国がお金を出せば余裕なのか。


子どもの相手ができる手が増えれば余裕なのか。


いい施設を増やせば余裕なのか。


社会人をやめたら余裕なのか。


それは、私もまだよくわからない。

わからないし、わかったからと政治家じゃないし、ジャーナリストでもないから大きなことができるわけでもなく、

変わらず、ただ目の前の子どもの幸せが続くように育てていくだけなのですが。

何が子どものためなのかを探究し続けるしかできない。けど、そこの気づきが何かを小さくても変えていけるなら。

だから、探究心は持ち続けたい。



次に続く…

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