白光真宏会から退会してから、世界平和の祈りや印を行うことがなくなりました。
★例外はこの本です(感謝の訓練)
祈らなくてもこの本だけは、小さく軽く、短文で読みやすく、教えがギュッと凝縮されている感じで、出かける時簡単に持ち運べるのが良かったので読んでいました。
この本の中で私は「感謝」の奥深さを思い出しました。
また、日々「感謝の訓練」をしようと思い立ちました。
★痛い>>ありがとうございます
手や足をぶつけた時に「痛い」と言ってしまうのは普通ですが、五井先生は「ありがとうございます。」と言ったようです。
私はこれにチャレンジし始めました。
最初は中々できませんでした。続けているうちに「痛い」の代わりに「ありがとうございます」と出てくる事が少しづつですが多くなってきました。
もちろん、すべてが「ありがとうございます」に置き換わったわけではないし、
心の底から感謝できてるわけでもありませんが。
(心の底から感謝できるとはどういう状態なのか、よくわかりません)
まずは「小さな事からコツコツと」by 西川きよし
★感謝
私の感謝の訓練は、いま白光真宏会でやっている地球世界感謝業のように「人類にかわって~」なんて大きな事は私にはあわない。
まず、自分の小さな事から感謝・ありがとうをやりたい。
まずは良いことがあれば「ありがとうございます」から
こっちはやりやすいですからね。
ちょうど知り合いのLINEグループで週1回感謝の投稿しようとあり参加。
また感謝が最初からすっと出来ない人向けにの「私これ出来た」という
#みんなdeポジティブ人間化 というハッシュタグでのTwitterでの投稿など始めました。これはやりやすい、「自分はこれ出来た」は意外とやっていない。まずはここからが私の第一歩。
★感謝の構造
足の小指を角にぶつけても「ありがとうございます」なぜそう思えるのだろうか?こんな考えかな?
「身体をぶつける事で、過去世から現代にいたる業想念が消えて、自分の神性が現れる」ので感謝できる(でいいのかな?)
私はチャレンジし始めました。
最初は中々できませんでした。
続けているうちに「痛い」の代わりに
「痛った、いや、ありがとうございます」
と感謝が少しづつですが多くなってきました。
もちろん、すべてが「ありがとうございます」に置き換わったわけではないし、
心の底から感謝できてるわけでもありませんが。
(心の底から感謝できるとはどういう状態なのか、わかりません)
★徹底した感謝の先には妙好人があるのでしょうか?
宇右衛門のこの素直さはどうでしょう。現代の人からみたら、馬鹿ではなかろうかと思われますが、何事が出てきても、過去世の因縁の現われと思いこみ、すべての出来事事柄を、過去世と結びつけていて、今生だけの出来事とは思っていないのです。
自分の顕在意識では判らないが、すべては阿弥陀如来様のみ心によって現われてくることなので、その事柄が如何に自分に都合の悪い事柄であろうと、素直に受け切って生きてゆく、という素晴らしい真理の生き方を、何気なく当然のこととして行じている、この宇右衛門の素直に徹した姿は光り輝やく尊いものです。
現代の人の生き方の習性は、自分のした間違った行為でも、何んとか言いぬけて、自己の損にならぬように、という、今生の瞬間瞬間利害関係で動いているそういう人が多いのです。天と地の差です。これが白隠ほどの学問修行を積んだ人なら又格別ともいえるでしょうが、
馬子上がりの百姓爺の学問知識のない人の行為なのですから、宗教の道は百知は一真実行に及ばず、という守護神の言葉がよく判ります
どんなに自分にとって都合の悪い事が降りかかろうと「ありがとう」といえてしまう妙好人。
はたして私にできるだろうか?
つづく