シェークスピアの『リア王』をはじめて読んだのはいくつの時だったか覚えていない。たぶん小学校の高学年くらいだったのではないかと思う。
だが、よく覚えていることがある。
物語の中のあるシーンの印象が強烈だったのだ。
それは、
この物語のはじまりの場面で、王が3人の娘に、父への愛情を示せと言い、愛情があるが故に末娘が、大袈裟なことをなにも言わない場面だ。
末娘に
ものすごく共感した。
私も“本当のこと”にとてもこだわっていたから
いまもその気持ちはとてもよくわかるし、ともすると、それに似たような言動をしてしまうこともある。
しかし、
考え方が少しだけ変わってきている(^^)
いまでも、うわべだけ取り繕ったような行為自体はあまり好きではない。
けれど、それで相手が気持ちよくなれるのであれば、
それはそれでいいのではないかなーと思えるようになったのだ。
かたくなに“本当のこと”にこだわらなくてもいいのではないか、と思えるようになったのだ。
リア王の悲劇も、コーデリアがリア王を喜ばせることよりも、自分の想いを貫くことからはじまっているのだ。
このシーンで興味深いのは、ケント伯がリア王に忠言している間、というか退場する直前までコーデリアのことはセリフはおろか、ト書きにさえも記されていない点だ。
父を愛している純真な娘というよりも、自分の想いを通す、リア王の気質をある意味よく受け継いだ娘と考えることも出来るのではないだろうか
このシーンだけでも
もっともっといろんな読み方が出来るとは思うけれど、今回は、
以前はとても共感したコーデリアの言動にひっかかりを感じたので、この読み方だけ挙げてみた。
自分が大切にしている想いって、自分の言動の基盤になるものだ。
だから、それが大切なものであればあるほど、ないがしろにされた時の傷や怒りが大きくなる。
ということは
もし
『あなたはそう考えるのね~。私は違うけど、そう考えるのもわかったわ』
と考えることができれば、
つまり
自分の大切にしている価値観と違うものを、ある程度、許容する範囲を作ることが出来るのであれば、
怒りやかなしみ等のダメージを減らすことが出来るのではないだろうか
もしかしたら
その“大切にしている”ものこそが自分を不自由にしていることがあるのかもしれない。
人は自分をしあわせにするために生きているのだ。
そして、しあわせになるために“大切にしている”ものがあるわけだから
こだわるところをしっかり見極めなければならないんじゃないかなと思う(^^;
リア王をかなしませ、怒り狂わせるまでして守ったコーデリアのその想いは、本当に自分を大切にする想いなのだろうか?