細川美香 2017年2月改訂
■1,現在の麻原・オウムに対する見方のまとめ
まず初めに、現在、私が麻原をどう思っているかについて述べたいと思います。
麻原は自分の欲望、そして被害妄想、誇大妄想によって、オウム事件といわれるさまざまな事件を起こし、無差別大量殺人である松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こした首謀者であり、そうしたところから、麻原は主張したように神の化身ではなく、ただの人間です。
オウム時代には、麻原が主張するように、最終解脱者であり、三千世界の中のただ1つの魂であり、神通(超能力)に優れ、人々を救済する慈愛に満ちた人だと思っていました。しかし、さまざまな事件の全容を知って、私たちに知らされることがなかった教団内部での殺人、すなわち、教団に不利益だと思った人たちを残酷にも殺したり、殺そうとしたりという、自分本位で身勝手極まりない行為をなしことを知って、今では、麻原とは単に煩悩が強かった人間であって、最終終解脱者ではなく、神通に優れていたわけでもなく、人々を救済するなどとんでもなく、救済などは、麻原の思い上がりであって、自分の煩悩を満たすために、自分勝手な妄想によって、殺人を犯してしまった、とても可愛そうな人だと思っています。
どうして多くの人を殺したのか、なぜ、あのような事件を起こしたのか、麻原自身の言葉でしっかり説明してほしいと思います。そして、被害者の方々に対して謝罪をしてほしいと思います。
次に、現在、オウムの教義をどのように思っているかについて述べたいと思います。
オウム真理教では、麻原が唯一絶対のグルであるというグルイズム、そして人間ではなく神として崇めていくことで、そこに集う私たちも同様に価値のある魂だと思い、麻原、オウムに縁のない魂は価値がなく、悪業が多く、徳のない魂であると決めつけて排除していくという教義は間違いでした。そして、その教義の延長線上に、数々のオウム事件が起きたと私は思っており、それは決して許されることではありません。
また、麻原の否定、オウムの教義の否定、オウムを脱会すると悪業になり、地獄に落ちると相手を脅して、恐怖を与え教団、麻原に縛りつけようとする、カルトの典型的な教義でした。さらに、オウムの教義は、感謝、尊重、相手を敬うという心がなく、わかりやすく言えば、感謝、尊重、敬う対象が麻原のみに集中していました。そこには、グルと弟子は1対1という教義があるため、信者間にさえ感謝・愛は育ちにくく、人間的な感情を持てば非難、批判の対象になるため極力、そのような感情を出さないようにしていたため、人間らしい感情を表現することができづらい人間になってしまったと思っています。
そして、麻原が誇大妄想、被害妄想にとらわれ、社会全体が敵であるという教義でしたから、必然的に麻原に帰依をしていた出家信者、在家信者は社会を敵に回して、宗教弾圧であると思ったり、フリーメーソンの陰謀論を信じることで、自分の周りには敵しかいないと思わせ、殺伐とした状況が作られました。また、そのような状況を作り出すことで、麻原への意識集中、内部の結束をより強固なものにしようとしたと、今では思っています。また、オウムの教義は、麻原にしか仏性(未来に仏陀になる可能性)がなく、他には仏性がないという教えであり、それによって、よりいっそう麻原のみに意識を集中させようとしてました。
仏教の教えはオウムにもありましたが、それは、二元的な思想でした。例えば、仏などの聖者と凡夫(一般の人)を強く区別したり、涅槃という絶対世界と輪廻の中のこの世界を強く区別するものでした。そして、オウムは麻原を仏とし、教団を聖、社会や麻原、オウムに入信していないものたちを悪と見立て、善と悪にはっきりと分け、常に自分たちが正しく、他は間違っていると否定していきました。また、輪廻転生を絶対視し、この世を軽視し、涅槃に入ることを救済と見て、ポアと称して、多くの生命を奪いました。
さらに、行法による神秘体験を重要視していて、精神的な面がおろそかになりやすい傾向があり、出家修行者というだけで傲慢になっている人がたくさんいましたが、人格的には未熟だと思える人がたくさんいました。救済とは言っていましたが、結局は自分中心的な人が多くなってしまう教義で、間違っていました。そして、いわゆる「ヴァジラヤーナの教え」は、麻原の言うことであれば、すべて正しいと思い、目的のために手段を選ばず、殺人までをも犯すことを正当化する間違った教義でした。
こうして、まとめると、仏教の教えはありましたが、それが自分の教団、麻原に有利になるよう歪曲した教えの説き方、導き方は間違っていました。それによって、多くの人が人間らしさがなくなり、不幸になってしまったと思います。
最後に、こうしたことを踏まえて、現在、私は、会員等の皆さんには、麻原とオウムの教義について以下のように説明しています。
1.オウム事件は、麻原・オウムが主張したようにフリーメーソンや国家権力の陰謀などでは一切なく、麻原と一部の信者の組織的な犯罪であって、その最大の責任は、首謀者の麻原にあること。
2.麻原は、自分で主張したような神の化身では一切なく、ただの人間であること。たまたま、人の気持ちを汲み取る能力が高かった面などがあって、信者を集めたが、そうしたものは何ら特別な能力ではなく、世の中にはそうした能力を持った人はたくさんいること。人が神に等しい存在になるわけがなく、最終解脱者という主張も、麻原自身が単にそう思いたかっただけで、確たる証拠・証明・他者の認定などはないこと。
3.麻原は幼少のころ両親との関係が悪く、加えて盲学校での不遇な出来事などで、心に屈折したものが形成されて、それが大人になった際には、誇大妄想、被害妄想として現れ、いわゆる人格障害であると思われること。なお、世間の一部では、今現在の麻原を詐病と疑う人もいるが、精神科医が診断したように、やはり精神病であって、間違った修行の結果として、本当に頭がおかしくなっていると思うこと。
4.信者の前では優しく振舞っているから、優しいように思えるが、実は恐ろしい面を持っており、私自身、麻原に叱られたことがあるが、そのときのドスの効いた声は恐ろしく、どうなるかわからないと思った経験があり、その意味で、裏表が非常にある人格であること。
5.麻原の自分に都合のよい仏教・キリスト教の教えの解釈を広めたが、それは明らかに間違ったものであり、その結果がオウム事件という、凄惨な事件になったこと。そして、それは決して忘れてはいけないこと
■2,私の青年期からオウムへの入信、そして脱会までの経緯
次に、少々長くなりますが、私の青年期から、オウムへの入信、その中での修行、そして、脱会して、ひかりの輪として独立するまでの経緯についてお話ししたいと思います。
●中学の頃、求道心の兆し
中学生の時に一つの出来事がありました。
それまで普通の家庭で、宗教とはまったく無縁の環境で普通に育ってきましたが、中学生の時に突然、自宅に仏像がやってきました。私の母が祖父(母方の父)にもらってきたのでした。
私の家には仏壇がありませんでしたから、タンスを改良し、仏像をおくスペースを作りました。そして私は、誰に言われたわけでもないのですが、朝晩に仏像を拝むことが習慣となりました。
毎朝、仏像にお香をあげて「今日も一日よろしくお願いします。」と手を合わせ、夜、寝る前には、「今日も一日ありがとうございました。」と拝んでいました。こんなことは中学生の女の子がするようなことではないと思うのですが、自然と毎日仏像を拝むようになっていました。きっと神聖なものに対する、潜在的な畏敬の念のようなものがあったのだと思います。
高校を卒業してからは、普通に働き、人並みに青春を楽しんでいました。カラオケ、ディスコ、などなど当時のОLがやっていたことは、ほとんどクリアしていました。というのは、それなりに好奇心がありましたので、なんでも良いから、その時、流行っていることをやってみたい、という思いから、いろんなことをしてみました。
一方、そこから何かが得られるのではないかという思いがありましたが、いわゆる、遊び、といわれるものからは、何も得ることができませんでした。そんな中でも仲のいい友人との旅行は特に楽しみでした。
この旅行でたくさんの神社仏閣にも行きました。ここでも潜在的な何かが働いたのかも知れません。ただその時は神聖な気持ちで神社仏閣を訪ねたわけではないので、何かを得られたということはないのですが。
そして「ひかりの輪」で今、行われている聖地巡礼修行で訪れた神社仏閣の多くは、このOL時代に訪ねたところが、いくつもありました。聖地・神社仏閣に、縁があるんだな、と思いました。
●オウム真理教との出会い
順調だったOL生活に変化が現れたのが入社3年目でした。だんだんと仕事がつまらなくなり、会社を辞めたくなって来ました。しかし、このときは考え直して思いとどまりましたが、その1年後にまた会社を辞めたくなってしまいました。
そして「今度こそ会社を辞めたい」と思い悩んでいたとき、去年と同じことで再び悩んでいる自分に気がつきました。「もしかして自分はまったく成長していない、去年と変わっていないのでは」と思い、愕然としました。自分が成長していない、という事実が自分にとっては耐え難いことでした。成長していない自分を許せませんでした。
私はもともと「一年前よりも今年、昨日より今日の自分は少しでも成長した自分でありたい」という気持ちを持っていました。それなので、成長していない、不甲斐ない自分に対してとても腹が立ちました。なんとか自分を成長させなければ、という想い、焦りが強くなっていきました。
そしてこのころ、以前から人の役に立ちたい、人助けをしたいという思いがあり、そういった道も模索し始めていました。当時は「カルマの法則」なんて知りませんでしたが、人の役に立つ生き方、人を幸せにする生き方をしなければ、自分は幸せになることはできないということをなんとなく感じていました。だから何かをしなければという焦りのようなものも感じ始めていました。
ただ、何をどうしたら良いのかは、まったくわかりませんでした。そんなときに、オウム真理教に出会ったのでした。88年3月のころです。
出会ったと言っても、私が直接的にではなく、私の母が宗教本をいろいろと読み漁っており、そうこうするうちに、「マハーヤーナスートラ」という本に出会い、母はそれを読み、「これが私の求めていたものだ」と思ったそうで、すぐさま入信に至りました。
同じ3月、私の弟の一人が入信しました。
そのころの私はと言えば、宗教には興味がなく、というより胡散臭いものだと思っていました。
それまでも母の勧めで、立正佼成会や生長の家などにも、多少首を突っ込んだことがあるのですが、どちらもこれで人が救われるとは思えない、という印象だけが残ってしまい、宗教に対して、興味が持てませんでした。ですから、当然、オウムについてもそうでした。
3月、母が入信する際に、一緒に道場に行って欲しいと言うことでしたので、行くだけならと思い、一緒についていきました。
初めて訪れた道場を見て、まず、祭壇に違和感を覚えました。私はどちらかというと、控えめな感じが好きでしたので、祭壇に掲げられているグヤサマジャを見たときは、「ちょっとこれは好きになれないな」と思いました。
でも、そこで印象的な出会いがあったのです。それは都沢さん(ウッパラヴァンナー正悟師)との出会いでした。
彼女は私を見たときに「どこかでお会いしたことありませんか?」と言われたのでした。今までの経験の中で、このように言われたことがなかった私にとって、これはとても印象に残った出来事になったのです。なぜ、このときのことが印象深かったのか、というのは、後でお話ししますが、それは、アニメーションなどで培った私の潜在的な欲求と関係しています。
●入信したときは、まったく信仰がなかったこと
ともかく、こうして、親に一緒について、道場に行ったものの、その日に入信することは、当然しませんでした。
しかし、そのような私が、最終的には、なぜオウムに入会したのかと言うと、そのころ、私が悩みを抱えていて、精神不安定になっていたこと、それを見るに見かねた母の強引ともとれる、強い勧めにあったからでした。
人に言われて入信はしたくなかったのですが、反抗もできなく、言われるままに、親に連れられて再び道場に行きました。
そして、入信を勧められた際も、「私、修行する気ありません。それでもよければ入信します」と言い、なんとか入信を避けよう、と思いましたが、スタッフの方が、「それで良いです」と言われたので、私としては、抵抗する理由がなくなり、結果的には、ヨーガタントラコースと呼ばれるコースを選択する形で、オウム真理教に入信をしたのでした。88年、6月15日のことでした。
やる気がある状態で入信していませんし、松本智津夫死刑囚(以下、麻原と表記)に対してもまったく信頼がありませんでしたから、修行はほとんどしませんでした。本もほとんど読みませんでした。
母が自宅に麻原の大きなポスターを張り、それに向かって拝んでいる姿を見るにつけ、私はその行為が理解出来ず、悩んだものでした。なんで、こんな人が良いのかな、と。
●転機が訪れて、教団の活動に参加し始める
しかし、こうした私に、あるとき、転機が訪れました。それは何かというと、失恋でした。その失恋をきっかけに、少しずつですが、オウムの修行、活動を行っていくようになりました。
まずは何か目標を持つ必要性がある、と思い、石井さんが行なう、教団が「シャクティーパット」と呼んでいる密教的な儀式を受けることを目標としました。
その後、89年初冬に行われた10日間の合宿となる「狂気の集中セミナー」に参加。当時、その宣伝文句は、「狂うか、悟るか、解脱するか」という、激しいものでした。
私自身は、まったく参加する意思はありませんでしたが、ある時、母と共に道場に呼ばれて行ってみると、都沢さんに道場の祭壇の前に座るよう促されました。そして、私たち二人にたいして、このように言われたのです。
「解脱するか、天界にいくか、どちらか選んでください」と。それを聞き、母はすぐに「解脱します」と答えたのですが、私はと言えば、ひどく悩み、どうしようと思い、「家で考えてはだめですか?」と聞きました。しかし、「どこで考えても同じ。ここで結果がでないものは、家でも結果はでません。だから、答えるまで、今日は帰れません。」と言われたのです。
私は観念して、しばらく考えた末、「どちらも極限で行わないといけないという点では同じある。それであれば自分にとって、より得になる方が良い」と思い、私は「解脱します」と答えたのでした。
そしたら、都沢さんはにっこり笑って「それでは麻原からのマハームドラーです。お二人とも狂気の集中修行にでるように」と言われ、「え?なんでこうなってしまうのだろう」と思いながらも、その言葉に逆らうことが出来ず、積極的ではないにしろ参加することになりました。
自宅に戻ってから、この日、起きた出来事を考えてみましたが、「もう、後戻りできない」という、なんともいえない気持ちだけが心から湧いてきて、しばらく気持ちが落ち着きませんでした。
10日間の狂気の集中セミナーを無事終えた後は、セミナーで燃え尽きたこともあり、脱力感が強く、しばらくは道場に通いませんでした。
●麻原が選挙に落選する夢を見た
年があけ選挙が近づく中で、東京に出向き、奉仕活動を行いました。そして、教団の中では、麻原が当選する、ということが言われていました。多くの人がそれを信じているようでした。
ところで、私は、その選挙結果が発表される朝に、麻原が落選する非常に鮮明な夢を見ていたのでした。今もそうなのですが、私は、非常に鮮明な夢を見て、それが現実になることがよくあります。それほど多くはないのですが、いわゆる正夢、予知夢と言われるものだと思います。
しかし、当然ながら、そんな夢を見たことは、教団の中では、口に出せるわけがありませんでしたから、しばらく、その事実は言わずに、それから20年近くたった、新団体ひかりの輪で開かれた総括会合で、ようやく口にしたことを覚えています。
今、思えば、私は、その選挙のころから、麻原のことを否定するようなことを言うのは、「してはいけないこと」、というただならぬ雰囲気を教団の中に感じていたのだな、と思います。
さて、この選挙活動を通じて、多くの人が出家をしていきましたが、私自身は、選挙活動が終わり、しばらくまた、道場に通わない日々が続いていました。
そして、90年の4月に、名古屋道場長から母と一緒に道場に来るように言われました。これが、私にとっての大きな転機、つまり、出家する流れを作っていきます。
●オースチン彗星の話がきっかけとなり、出家に至る
そして、90年5月。
道場に行った私と母親は、オースチン彗星の話を聞くことになるのです。その当時、実際に、オースチン彗星が地球に近づいていたのですが、教団の話では、オースチン彗星とは、麻原の変化身であり、それが地球を一周する、というのです。
そして、それはシャクティーパットと同じ効果がある、と言われて、その効果を得るには、出家しないといけない、とも言われたのです。そして、5月20日がそのタイムリミットであると。
それを聞き、母はすぐさま「出家します」と言いました。横でそれを聞きながら、「なんで、そんなに簡単に出家と言えるのかな」と内心思い、普通に仕事もしていましたし、すぐに出家という選択をすることは、難しく思え、答えかねていました。
しかし、悩んでいる時に、スタッフの人に、「じゃ、先にお母さんが成就をし、美香さんはお母さんのことを、○○師と呼ぶんだね」と言われると、それを聞いた私の心に、「それは悔しいし、嫌だ」という思いが沸き上がり、「じゃ、私も出家します」と、いとも簡単に言ってしまい、そのため、5月20日に出家をすることが決められました。
私自体は解脱、悟りを求めていたわけでもなく(当時はそう思っていた)、麻原に信や帰依があったかといえば、それほどでもなく、真面目に救済を考えている人からみれば、私のこのときの出家の動機は、母親に負けたくない、という思いや、オースチン彗星の話に流されたりといった、ある意味で、衝動的な面があったわけですが、その当時の自分としては、自分なりにまじめに真剣に考えていました。
●富士山総本部でのワーク、麻原との接点が急に増える
富士に移動してのワークは、事務全般、経理などでしたが、このころを境に、麻原との接点が急激に増えていきます。そのころ麻原は、富士山総本部道場に隣接している、第1サティアンと言われるところに住んでいました。
麻原は何か用事があるときには、事務の内線に直接電話をかけてこられ、用事を頼むことが多かったので、ワーク上必然的に麻原の電話に対応する機会が増えていきました。
初めての電話対応は、ワーク上において行き違いが生じた件について、石井さんから電話があったというものでしたが、その途中で、急に麻原が電話に出て、ワークの行き違いの事について聞いてきました。その時の私は、緊張のあまり、何を言っていいのかわからず、まず、自分の名前を伝え、今日、初めて富士に配属されたことを伝えたのでした。
私と麻原のやりとりは、最初の頃は、事務的な連絡のみに終わっていましたが、何度かやりとりをしているうちに、私自身の性格的な欠点について指摘されて、それを克服していくための修行法などを教えられました。
●麻原に信を抱いていったプロセス
ある時、麻原からの電話に出て、私は「はい、事務です。」と言ったのですが、その一言を聞いて、麻原は、「嫌悪丸出しじゃないか、修行不足だ」と言い、私が怒られるということがありました。
この体験で、私は、「麻原は一言声を聞いただけで、その人の状態がわかるんだ。やはり本に書かれている神通力があるんだな」と感心したのです。
ただ、振り返って考えてみると、私自身は、自分としては嫌悪が出ているという自覚はなかったのです。それなのに私が感心した理由は、単に一言話した後に、麻原が断定的な表現で話しをしたためか、麻原は、私自身が気づいていない自分の真の状態を理解しているのだ、と思った(ある意味では、思いこんだ)のでした。
そんな経験を繰り返しながら、その後、私が、麻原に対して、深い信を持つきっかけになる体験をしていきました。
その時、私は、精神的状態が良くなく、とても明るく対応できる状態ではなかったのですが、人前では、明るく振る舞おうと意識して過ごしていましたので、周りの人に、そのことを話したり、相談することはなく、自分のその心を押し隠して、ワークを行っていました。
そんな状況の時、事務の内線電話がなったので対応したところ、麻原からでした。
麻原は私の「はい、事務です。」と一言を聞いた後すぐに、「無理に明るくしようとしているんじゃないのか」と言われたのです。
私は、「え?なんで?? 誰にもこのこと言ってないのに、なんで電話の声だけでわかるんだろう」と思い、心は感動していました。それに対して私は「そうなんです。辛いんです」と言ったことを覚えています。ただ、その後、それに対してどんな返事が戻ってきたかは、あまりに感動が強すぎで、覚えていないのですが......。
しかし、今になって冷静に考えてみるならば、こういった出来事は麻原が自称していた最終解脱者とか神の化身でなくても、ある程度他人に対する感受性が高い人であれば、よくあることであり、当時の私の反応が過剰だったのだと思います。
●なぜ、麻原の言葉に深く感動した(してしまった)のか
しかし、この時の私は、大変感動しました。それはなぜか。その理由を考えてみると、2つの要因があった、と思います。
まず、1つ目は、麻原の神通力について、教団では、大量の宣伝がなされていたことがあります。だから、私には、実際の麻原を経験する前から、麻原はすごい人だ、という先入観が相当にできていたのです。
次に、その根本的な原因として、なぜ、そういった教団の宣伝を疑わずに信じたのか、と考えてみると、そもそも、私自身が、ムーとか、トワイライトゾーンといった雑誌を読んでいて、超能力や神秘・不思議の世界が好きで、そういったものを受け入れやすい、という傾向があったことに気付きます。
実際に、オウムに入会するときも、先ほど書いた、ヨーガタントラコースではなく、実は、超能力を身に着けられるシッディコースや、現世幸福のポアコースに入りたい、と思っていたのでした(しかし、実際には、周りの人の誘導で、ヨーガタントラコースになっていました)。
●アニメーションで形成されていた私の潜在的な願望
そして、この私の傾向に関連して、非常に大きなポイントだと思うことが、私は、あるアニメの世界がとても好きで、そのために、超能力がある人がいて欲しい、という強い欲求があった、ということです。
具体的に言うと、それは、機動戦士ガンダムというアニメで、そのころ、銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトなどもありましたが、それよりなにより、ガンダム派だったのです。
ガンダムのどこが好きだったのかと言うと、ニュータイプ同士(ある意味超能力者と言ってもいいかもしれませんが)が、場所は離れていても、相手の心を感じ、通じ合わせるという場面があるのですが、私はこの場面が非常に好きで、憧れている世界でもありました。
私もいつかこのようになりたい、こういう人と巡り会いたい、という思いを募らせていました。しかし、残念ながら現実生活では、そのような人とは巡り会えず、落胆していました。
そのような思いを潜在的に抱えながら出家したのですが、その私の前に、すごい超能力を持っていると宣伝されていた麻原が現れました。そのために、先ほど書いたような心理状態になったのだ、と思います。つまり、私が、そう思いたかったから、(そのような人がいて欲しかったから)、そのように解釈した、と言ったら良いのかもしれません。
今、冷静になって考えると、私が体験した事実自体は、客観的に見るならば、それほどたいしたことではない(奇跡的なことではない)と思います。しかし、私の潜在的な欲求によって、その現象が、とても大きく、大切なものになっていき、結果として、麻原に信を深めて、愛着をしていった、ということだ、と思います。
その意味で、自分の心の欲求とは恐ろしいものだと思うのです。というのは、その後、約十年間にわたり、この時の出来事がポイントとなり、麻原の愛着からなかなか抜け出すことができなかったのですから。
● 麻原に対する信を更に深めてしまった出来事
富士でのワークは半年間続いたのですが、次のワーク場所は世田谷にある東京本部でした。そこでも、変わらず麻原からの電話があり、対応する時などは、いろんな言葉をかけてもらっていました。そして、ここでも、さらに麻原に対して安直に信を深めてしまう出来事が起こりました。
それは、運転手で長野、新潟出張にでかけた時ですが、あまりのハードなスケジュールだったため、新潟からの帰り道に、高速道路での居眠り運転のために、車を中央分離帯にぶつけて、廃車にしてしまう、ということがあったのです。
信徒さんからのお布施である車を廃車にしてしまったことについて、非常に落胆してしまい、なんとか麻原に懺悔したいと思っていたのです。しかし、自分から麻原に電話をかけることはできませんので、麻原からかかってくる電話をとることが、唯一の話をする手段だったので、かかってきた電話をとることができるよう、思念したのでした。
そしたら、まもなく、電話がかかってきて出たら、なんと麻原だったのです。このときがチャンス、だと思い、車を廃車にしてしまったことを懺悔しよう、と思ったのですが、私が言うより先に、麻原が「事故を起こしたそうだな」と言われたので、私は、ビックリしたのです。なぜかというと、私が言いたかったことを、私より先に言われるなんて、と、またまた、感動するのです。
このことも今よく考えて見えれば、「事故を起こしたそうだね」という言葉をそのまま受け取れば、麻原が誰かから事故の報告を受けて、そのために、私に電話してきたことは明らかなのです。
しかし、その時の私の思考は、麻原が神通力によって、事故が起きたことや、私の願いを察知した、と思いこんでしまい、ただただ、麻原の神通力はすごい、という、信を深めていったのです。
これも、よく考えてみると、私が、そう思いたかったから、そう解釈したのだ、と思います。
●麻原との初めて個人面談を行う
そして、2ヶ月後に修行からでて、東京に戻りましたが、手が余っているということで、仙台道場に配属替えになりました。
常に大きな部署にいた私にとって、この仙台道場への移動は、辛いことでした。心が卑屈になり、暗くなっていったのです。
そんな状態の中で、道場活動のワークを続けていました。そのころ、麻原はイニシエーションツアーということで、全国の道場を回っていたのです。当然、仙台にも来ることになっています。
私はその日が来ることを心待ちにしていました。というのは、この苦しい胸の内を麻原にわかって欲しい、わかってくれる、という思いがあったからなのです。
イニシエーション当日は、朝から、「どうか、私の苦しい胸の内をわかってください」と懇願していました。そして、懇願しながら、上記に書いた経験の蓄積によって、必ず気持ちが通じると思っていました。
そして、私たち出家修行者も在家信徒と同じようにイニシエーションを受けることができました。そして、私の順番になったとき、一言、麻原が「頑張れよ」と言われたのです。
私はその一言で「ああ、私の気持ちは通じてるんだ」と、またも単純に思うのです。この段階では、麻原に対しての信頼が強くなっているので、どういう意味で「頑張れよ」と言われたかなどとは考えず、ともかく、私の懇願が通じたのだ、と思い込み、心が満たされていくのを感じていました。
イニシエーションが終わり、麻原は宿泊するホテルに戻りました。しばらくして、麻原から私に電話がかかってきました。いくつかの対話をしたあと、宿泊しているホテルに来るように言われ、私は出向いて行きました。
そこで、私の家族の話などを聞かれ、幾分話をした後、麻原が「出家してどれくらい経つのか」と聞かれたので、「1年半です」と答えたところ、「じゃ、そろそろ功徳も積んだし、解脱するか」と、いとも簡単に言われたのでした。 「え?解脱??」
一生懸命修行、活動をしていた出家修行者の方には申し訳ない話になるかもしれませんが、その時、私はあまり解脱をする、ということを考えていなかったので、解脱する話になり、ビックリしたのでした。
私は「今、解脱できなければどうなるのでしょうか?」と尋ねたところ、「それは、君と一緒に出家をした人と同じ時期に修行に入ることになる。こういう星の巡り合わせはいつ来るかわからないから、今の機会を逃せば、今度いつ修行に入れるのかわからない」と言われたのです。
それを聞いて私は、また、出家の時と同じように「同じ仲間に負けたくない」という思いが生じ、「では、解脱します」と答えたのです。麻原は「君はおかしな子だな」と言われていました。
その後、極限修行の話と共に、私は、麻原から、個人的にイニシエーションを受けました。そして、この時が、私が、麻原と初めて個人的に面談した時でした。
こうした個人的な対応を受けた結果、それまでの信仰に加えて、麻原は私を大切にしてくれている、という意味で、自分のプライドも満たされることになり、麻原に対する愛着はさらに深まっていきました。
●そして、極厳修行に入り、霊的な体験をする
そして、91年12月中旬より、上九一色村にあった第2サティアンで極厳修行に入ることになります。
さまざまな瞑想法を行いながら、次の四つの霊的な体験を得ることが、成就者として認められるに必要でした。
1.ダルドリーシッディ:霊的エネルギーで体が持ち上がる(跳ねる)体験
2.光を見る:実際の物理的な光ではなく、瞑想で内側の光を見る体験
3.変化身の体験:いわゆる体外離脱体験(脱魂状態・幽体離脱)と言われている体験
4.意識の連続:一定の期間、意識が眠りによってとぎれることなく鮮明に続く状態
私は、修行にはいると、思ったよりも早く、これらの霊的な体験をしました。自分は、そういった霊的体験をするタイプではない、と思っていたのですが、ダルドリーシッディや化身の体験などは、特に早く起こりました。
●成就後
成就後、世田谷の道場の経理として配属されました。
世田谷道場の近くに出家者の住居があったのですが、そこに突然、麻原が来ることになりました。私も呼ばれたので、行きました。そこで、麻原が私の過去世についての話を唐突にされたのです。
私の過去世は、麻原の奥さんだったという生、他にもいつくか教えてもらったのですが、その過去世の話を聞いたとき、周りに一緒にいた法友が「おおー!それは、すごい。」と声を上げていたのです。私は自分では過去世は見ていないものの、麻原の奥さんであった生がある、と聞いて、さらにプライドが満たされていきました。
しかし、今思えば、こういった過去世の話は、本当に過去世であるかはわかりません。場合によっては、そういったヴィジョンを見る人自身の潜在的な欲求の投影であると考えることもできると思います。これは、心理学や退行催眠などでよく言われていることですね。
それはともかく、それまでは電話だけの接点だったのが、東京の経理担当になったこともあり、麻原との直接的な接点が、かなり増えていきました。
その中では、何かにつけ私のことを誉めてくれたり、優しい言葉をかけてくれたりと、プライドと愛着が増大していく方向性に現象が動いていきました。そして、周りのみんなからは、うらやましがられ、自分も優越感を抱き、何かあると、すぐに麻原に伝えたりしていました。
その後、青山総本部道場ができたのに伴い、私は、そちらに移動することになりました。
●麻原に怒鳴られる
その中でこんなことが起こりました。
ある時に、麻原から電話があり、ワークの指示を受けました。ワークの内容は、1000万円ほどの現金をドルに替え、それを富士まで届けて欲しい、ということでした。
このとき、麻原はドルに換金した後、すぐに富士に届けるように、言われたようですが、私は「すぐに」と言う言葉をすっかり忘れしまっていました。
お金の準備ができ、富士に向かおうとしていたところに、井上さんが来て、どこに出かけるのか聞かれたので、富士に麻原に会いに行く、と伝えたところ、「自分も行くからその時に一緒に行こう」と言われたので、「確かに、一緒に行った方が効率も良いし、そうしよう」と思ったのでした。
そのまま青山の自分の部屋で待機していたところに、中村さんが血相を変え、携帯電話を持って私の部屋に飛んできました。「麻原から」と言われたので、電話にでたところ、非常に低く、ドスの聞いた声で、「今、どこにいるんだ」と言われました。
私は、「青山にいます」と答えたところ、「すぐに来るように言わなかったか」と聞かれたのですが、すっかり忘れてしまっており、そして、「そんなこと言っていたかな」とも思ったのですが、そのまま正直に答えられるわけありません。
そこで、私が、「はい」と答えたら、「なぜ、すぐに来なかったんだ」と聞かれたので、私は「井上さんに一緒に行こう、と言われたから、そうしようと思った」ということを伝えました。
この話を聞いた麻原の怒りは頂点に達し、非常に大きな声で「「もういい、お前は来なくて良い、中村に渡せ」と言われ、電話を切られてしまったのでした。このときは、電話を耳元から離しても、怒鳴り声が聞こえていました。
どうしよう、と私は泣きそうになりました。そして、あの怒りは収まらないだろうな、と思いつつ、このままの状態もよくないと思い、中村さんと一緒にすぐに富士に出かけました。
しかし、案の定、会ってもらうことはできす、中村さんから、麻原が、「顔をみたくない、わかるな、中村」と言っていたことを聞いて、どうしようもないな、と思い、私は、諦めて帰りました。これは、非常にショックな出来事でした。
あの時の恐怖は、今でも忘れる事ができません。普段でも怒ることはありますし、他人が怒られているのを見たことがありました。しかし、私自身は、それまでに怒られる、ということが、ほとんどありませんでした。そして、初めて聞く、麻原の怒りの声に対して、びっくりして、恐ろしいな、と思ったのです。
そして、それ以後、麻原は、私に対して徐々に距離を置くようになっていきました。そして、以前のように、優しく接してくることはなくなり、私は常に怒られる対象に変わっていくのです。
この変化に対して、私は非常に戸惑いました。というのは、今までとはまったく違う接し方になっていったからです。
●94年後半からの活動
このころの信徒活動を振り返ると、真理の為には何をしても良い、という法則がほとんどの活動の中心を占めていました。相手のことを考えている、と言いながら、後から考えると、相手のことはまったく考えていない結果になっていました。
信徒、凡夫はこのままでは救われない魂だから、ということで、救済という名のもと、相手を馬鹿にして、自分の方が偉いんだ、というプライドを満足させ、支配することによっての道場活動だったと思います。
私たちの言うことを聞いて当たり前、言うこと聞かない信徒は、相手にしない、もしくは魔境(頭がおかしくなった)扱い、麻原に帰依が足りない、とレッテルを貼り、私たちが支配しやすい状況をつくっていたと思います。
麻原はこのときにはすでに、絶対的な存在になっていましたから、信徒への教化活動といえば、いかに麻原に帰依をさせるか、がポイントで、それが出来ている人ほど、優秀な信徒として認めていました。
お布施も剥ぎ取るようなことが肯定されていました。信徒庁決意の内容には、まさにこの「剥ぎ取る」という言葉が入っていたのを、今でも覚えています。
私自身もこの信徒活動の中で、理不尽なお布施の集め方をしたことについては、その対象となった方々には、申し訳ないと思っています。
この杉並道場の近くには、CHS(その時は、どのようなことを行う部署かは知りませんでした )という部署があり、よく道場に来ていました。
そのため、簡単なワークを頼まれたりすることがありました。時折、依頼されるワークの内容に怪しさを感じてはいたものの、「特別ワーク」という言葉に魅せられ、不謹慎な話ですが、楽しみながらやっていました。
このころは教団の施設以外にも、導きという名目や、特別ワークという名目で借りていた施設がいくつかありました。私もその施設に行ったりすることがありましたが、道場とまったく違う施設であるため、珍しさと、また、その場所は、例によって、誰にも言うな、秘密、と言われていた場所でしたので、そこに出入りできる自分に対して、優越感を感じていました。
ここまで振り返ると、人はやはりこの「特別」という言葉に弱く、特別という言葉で、あたかも自分が特別な人間になった、選ばれた人間なのだという、錯覚に陥り、非常にプライドを満足させていたのだと思います。同時に「秘密だから」という言葉もよく使われていましたが、これも特別と同じだけの、人の欲望を増大させる力を持っていると思います。
人は常に自己の存在意義を見いだそうとしていますから、この言葉を言われることにより、そこに対象との間で自己の存在意義を見いだし、それを失わないように、一生懸命ワークを行っていたのだと思います。
そして、この特別・秘密という言葉によって、どんどんとオウムのヴァジラヤーナの世界が形成されていったのだと思います。
●ニューナルコ(記憶消去の措置)を受ける
95年の3月くらいに、「ニューナルコ」を受けました。
この記憶を消す処置であるニューナルコは、教団の中では、イニシエーションとされていたそうです。しかし、当時の私は、このニューナルコという名前さえも知りませんでした。私がこの名前を知ったのは、事件後の警察の取り調べの時です。
警察の人は、まず、まっ先に私の額の傷を見て、「細川さん、その傷、最初からあったの」と聞いてきました。「いえ、ないと思います」という、会話を何度か繰り返したと、「細川さんは、ニューナルコを受けたんだよ。記憶を消されたんだよ」と言われたのです。
私が、今覚えていることを書くならば、(推察するにそのニューナルコを受けた後)目が覚めて、気が付くと、私は、第6サティアンのシールドルームにいました。
なぜ、私はこんなところにいるのだろうか、と思いながら、自分のそばにある荷物を見て、確かにこれは私のカバンである、と思いました。非常に不思議な感覚でした。シールドルームは外から鍵がかけられており、自由に出入りができず、トイレは、中に簡易トイレが入っていたので、そこで行いました。
ニューナルコを受ける当日は、部屋を移り、大きなシールドルームに移り、そこで横になり、点滴を受けました。その時に、タントラヴァジラヤーナの帰依マントラを唱えるように言われ、唱えましたが、次第に意識が朦朧としてきて、その後のことは、もう何も覚えていませんでした。
質問の意図は、後で、私が、教団の起こした事件に関して、警察署に呼ばれて、取り調べを受けた際にわかりました。取調官から井上さんが、私がニューナルコを受けたこと、そして、それによって、(井上さんが関与した)事件に関連した私の記憶が消されたことを知っていたのだ、と聞きました。すなわち、証拠の隠滅が目的だったのです。
このニューナルコが終わり、世田谷道場に戻ったのが、22日の強制捜査の少し前だったと思います。
ニューナルコを受けた後は、大変でした。何しろ、人の名前から、自分の持ち物まで忘れてしまっており、何がなんだかわからない状況の中で強制捜査が続き、道場活動を行わなければならず、非常に苦労をしたことを覚えています。
しばらくは、記憶力も低下して、物覚えも悪くなり、日常生活を行うことが大変でした。
●強制捜査
そして、3月22日の強制捜査の日。
朝から大勢の警察官がやってきました。
警察に対して教団の中では、国家権力と言われており、オウムは反国家であるため、気に入らないから、国家権力によって、オウム真理教は宗教弾圧をされている、というデータが入れられていました。故に、私たちの中では、警察官は敵対者になっていました。まして、假谷拉致事件など、事件についてまったく知りませんでしたから、敵対心以外、何もありませんでした。
自分たちは正義であり、警察は宗教弾圧をしようとしていると、本当に思いこんでいました。今、思うと、これもおかしなことなのですが、当時はそう思いこみ、警察官と闘っていました。国家権力に負けるなと。
私たちのように教団が裏で何をしていたのか、まったく知らされていなかった者は、なぜ教団に対して強制捜査が行われるかわかりませんでした。混乱の日々を毎日過ごしていました。
そんな日々が繰り返される中、どんどん逮捕者が続出していきました。サリン事件で逮捕される人、微罪逮捕される人、本当にいろんな人が逮捕されていきました。
逮捕された人の中には、私の2人の弟もいました。一人はサリン関係、もう一人は住居侵入により逮捕されました。
そして、これは逮捕ではありませんが、村井氏が青山で刺殺される、ということが起きました。世田谷道場に村井氏が訪問した後の刺殺事件でしたので、何とも言えない思いでした。
そして、5月16日 麻原逮捕となりました。
このときはショックだったものの、麻原の無罪を信じていた、というより、信じたいと言ったほうが良いかもしれません。取り調べ後の処分保留により、すぐに釈放されると思っていました。
●事件は教団が関与していた、と思っていた
私は、95年当初から、教団が事件に関与していた、と思っていました。
それは、假谷拉致事件に関する警察での取調べを受けたことや、弟も逮捕されたこと、さらには、井上さんが所属していた教団のCHSと呼ばれる秘密活動を行っていた部署の活動を上長から指示されて調査したことなどによります。
ただ、そのことについては、具体的に話しをする人もいませんでしたし、その話をすること自体、教団内ではタブーのような印象を受けてもいました。
そして、グルイズム信仰の中で、麻原を神として拝め、麻原の行うことは何でも許されることであり、指示に対しては逆らわず、実践することが帰依とされてきた教団の体制の中で過ごした数年で、私自身も教団の体制に染まっていました。
また、麻原に対しての愛着もありましたから、事件を教団がやったことだとは思っていても、そのことで麻原を否定したりすることはできませんでした。
教団の中では、麻原が行うことには常に意味がある、とされてきました。その思考と同じ方法で、事件は意味があったことだと思いました。いえ、思いたかったのです。そのように思うことによって、麻原を否定することを、避けようと思っていたのです。
そのような思考に変化が生じてきたのが、97年10月に刑期を終え出所してきた弟の存在でした。
●弟とのやりとりによって、思考に変化が生じはじめる
出所してからも、事件について、そして、麻原について、弟とはよく話しました。話したというと、冷静な話し合いのかのように思われますが、そうではなく、口論にもよくなっていました。しかし、その都度、私の考えにも変化が生じていきました。
97年以降、麻原が不規則発言を始め、精神的に病んでいるのではないか、と言われていたことについて、弟と話をしたことがあります。
弟が「不規則発言について、お前たちは意味がある言葉だと思いたいと思うだろうけど、本当に頭がおかしくなっていたらどうするんだ?」と聞かれました。
私が、それについて、しばらく考えていると、弟は、「頭がおかしくてもいいと思えれば、良いと思うんだよ。でも、そう思いたくない、現実を受け入れたくない、という思いで、いつも麻原の良いことばかりしか言わない。俺はそんな人とは話をしたくないし、心がさめていくんだよ」と言いました。
また、このようなやりとりもありました。
弟が「お前はサリンを撒けと言われたら、撒くのかよ!」と聞かれ、私は、それに対して、すぐに答えることができず、黙っていました。
その時、私は、心の中で、「撒けるわけない、でも、そんなこと言ったら帰依ができていない弟子だと思われてしまう、どう、答えたら良いんだろう」と思って、答え方を考えていました。
そうしたら弟が、「お前たちは、撒けもしないのに撒けます、というから駄目なんだよ。見栄ばかり張って。撒けないなら撒けないって言えば良いんだよ」と。それを聞いた私は、心の中で、「そうか、そうだよね、簡単なことなんだよね」と思いました。
ここでは、「簡単なことだ」と書きましたが、麻原や教団を否定する言葉を使うことは、当時の私には、なかなか容易なことではありませんでした。なぜなら、常に、麻原を、教団を、自分たちを、肯定しかしてこなかったからです。否定すること自体が悪業になる、そして、帰依がないと評価されてもいたからです。
このような話しを弟と続けながら、私の考えは、少しずつ変化を見せていきました。しかし、長年積み重ねてきたオウム思考を変えていくことは、高い壁を越え行くようなものでした。
その当時、信徒の教化活動をしていた私にとっては、弟も教化対象と位置づけていました。事件で傷つき、信や帰依を失っている弟を、もう一度、(その信仰において)復活させなくてはいけない、と常に力んでいました。そのため、当初は、ひたすらこちらの言い分だけを、押しつけていたのです。
こうして、弟に対して、いろいろとイベントに誘ったり、お布施を促したりしていましたが、うまくいかないことが多く、言い合いになり、喧嘩になることがよくありました。弟を泣かしてしまったこともありました。事件に関わっていない信徒さんを教化するのとは、まったく勝手が違っていました。
私は、弟との対話において、何度も同じ事が繰り返されるので、さすがに何がいけないのか、と考えるようになっていきました。しかし、自分側(教団側)が正当だ、という強い思いがあるために、すぐには理解できませんでした。
当初の私は、真理がわからない弟が悪いのだ、と考えていたくらいですから。なんで、真理の話しているのに理解出来ないんだろうと。
私は、相手の苦しみなど、まるで考えず、自分が正しいと思い込んでいましたし、私は真理を知っているんだ、私の言うことを聞いて当たり前だ、という傲慢な意識で対応していました。だから、当然、相手は納得せず、口論ばかりが続いたのです。
その中で、ようやく、自分が正しいのだから、相手は言うことを聞いて当たり前だ、という考え方が間違っていることに気付きました。そして、どうしたら相手に理解してもらえるか、を考えるようになりました。
そして、自分が正しいと思い、そのことだけを主張しても、相手も自分の苦しみをわかって欲しい、という気持ちがある以上、まずは相手の立場にたち、尊重をしたうえで、話を進めていかなければ、相手も納得しないということがわかってきました。
単純に、これが真理だからと思い、ストレートに話しをしても、駄目なんだな、と思いました。まずは、自分が変わっていかないと、相手を変える事はできない、ということもわかっていきました。
そして、自分の変化とともに、弟への対応も変わっていきました。ある時、弟から、「変わってきたね。努力しているのがわかるから、下心は見え見えだけど、(お布施とかの誘いに)乗ってみようかな、と思うんだよね」と言われたのでした。
●99年休眠宣言、そして、上祐氏が出所する
このような中で、99年を迎えていきました。この年の最大の関心事は、ハルマゲドン予言が成就するか、ということでした。しかし、99年7の月には何も起こらず、9月に道場は突然休眠宣言をおこない、道場をしばらく閉めることになりました。
道場活動のサマナは一同に名古屋支部に集まり、しばらくは修行をしていましたが、また、支部活動を再開すると言うことになりました。東京は道場がなくなっていましたので、道場物件確保のため、数名のサマナを連れ、東京に戻りました。そして、いくつかの物件を確保し、道場活動を再開し始めました。
99年12月終わり、上祐氏が刑務所から出所し、教団に戻ってきました。上祐氏が戻ってきてからは、体制が目まぐるしく変化していきました。
上祐氏が、集まっている成就者に、この方針でいくことに賛同するか、どうかを順番に聞いていきました。みんな、「良いと思います」と答えていました。私は内心では、「良いと思います」とは言いづらい状況でしたが、みんなと違う意見は言いづらかったため、私に順番が回ってきたとき、「良いと思います」と答えたのです。
それに対して上祐氏は、「ごまかすんじゃない、本当のことを言ったらどうだ」と言われました。上祐氏は、私の曇った表情を見て取ったのでしょう。見透かされてる、ごまかせないな、と思った私は、「麻原を否定することによって、自分も否定されているように感じます」と答えました。
それについて上祐氏からは「あなたを否定しているわけではないんだよ」と言われましたが、すぐさま、納得できませんでした。この話合いの後、上祐氏に呼ばれ、心情を聞かれました。
そのとき私は、「よく考えてみると、麻原に対して、自分の受け入れたい部分だけを受け入れ、受け入れたくないことについては見ないように、考えないようにしてきたのだとわかりました。例えば、それは事件のことだったり、他にもありますが・・・。帰依でも何でもなかったことがわかりました。勝手な思いこみの、自分本位の帰依だったのだと思います。私は何もわかっていなかったんだなと、もう一度、いろんなことを考え直してみます。」ということを話しました。
この気づきは、私にとっては大きな心の変化のきっかけとなる出来事だったと思います。
そして、上祐氏が教団に戻ってきて、初めてオウムが事件に関与していたということを、公に話をし、みんなが聞くことになりました。私自身は、ようやく普通に事件の話をすることができる体制になり、心が解放される思いになりました。
今までは、「麻原が自白していないのだから、事件はよくわからない、やっていないと思う」という話は出ても、麻原がやった、教団が事件をやったと、という話はなかなかすることができませんでした。
でも、みんなもよくわかっていた、と思うのです。麻原を絶対とする教団の体制の中で、麻原の指示なしに、何もできないということを。ただ、現実からみんなが逃げたいだけだったのだと。
●自分が麻原に愛著した理由
私が麻原に対しての愛著から離れらなかった理由は、いくつかあるのですが、それは麻原と自分の関係にありました。
自分の認識として、相対的にですが、同じくらいに出家した人や、自分の周りにいる人たちと比べて、麻原との個人的な接点、距離が近かったと、思っていました。個人的に会い、会話する機会も比較的多かったですし、経理というワーク上も、接点が多くありました。
その中には、女性が喜ぶような言葉を言われたり、過去世の話もその一つになる、と思いますが、私のプライドは満たされていき、それに伴い、愛著も増大していったのです。
考えるに、女性が喜ぶような言葉は、私だけではなく、多くの人に対して行っていたことだ、と思うのですが、自分の世界の中では、「私にだけ、それをいってくれている」と、そう思いたい心が、自分の中で虚構の世界を作り上げていったのだと、今になって思います。
そして、いつしか、自分の中には、自分は特別な存在である、という意識が芽生えていて、それがまた自己のアイデンティティーにもつながっていき、オウム真理教で活動する意義をそこに見いだしていたのでした。
実際には、前に書いたように、後に、私が麻原にだけ意識を向けていられなくなるころから、麻原との良好な関係は徐々に変化し、破綻していったわけですが、それでも、なお、私は、その過去の関係に、執着をしていたのでした。
●麻原への愛著の背景にあった自己のアイデンティティーが崩壊する
しかし、そのアイデンティティーが崩壊してしまう出来事がありました。それは2002年の初めの頃だったと思います。そのころ、よく法友と自分の心を探究する、ということをおこなっていました。どのような内容の話をしていたのか、はっきりと覚えていませんが、麻原に関連して、自分自身の心についての話をしていたのだと思います。
皆さんもご存知のように、麻原には奥さんである知子さん以外にも、何人も女性がいました。その女性たちとの間に子供が何人もいました。当初、それを知ったときは、びっくりしはしましたが、それ以上には何も思いませんでした。
確か、その時は、その話である意味、盛り上がっていたと思います。こんなこともあった、あんなこともしてたんだ、と。その話が進むにつれ、突然、自分の中で、このような思いがわき上がってきました。
「今まで、自分は、他の人に比べて麻原に近く、自分は特別だ、と思っていたけれど、よくよく考えてみると、特別でも何でもなかったんだ。単に私が自分のプライドの為に、そう思いたかっただけで、そこに実態があるわけでもなんでもなくて、自分の思いこみに過ぎなかったんだ。私が自分で勝手に作り出した世界に過ぎなかったんだ。」と思ったのです。
その瞬間、何かが音を立てて、崩れていくのがわかりました。今まで私を支えていたもの(自己存在意義)が、崩れ落ちてしまったのです。
その時、私は大泣きしました。これからどうして良いのかわからない、自分をどう立て直していったら良いのかわからないと、私には何もなくなってしまったんだ、と途方にくれていました。
このことがきっかけで、さらに私の麻原への幻影が崩壊していきました。そして、今までに誰にも話をしたことがなかった、麻原に関する、自分の経験・心情を上祐代表に吐露したのでした。
その時は、私は、何かに突き動かされるように、「今、これを話さないといけない、これをしないと前に進むことができない」という思いに駆られ、それを話すために、上祐代表に面談を申し込んだことを覚えています。