●上祐代表の改革の頓挫と、松本家の人たちへの失望
2003年に入ると、今までのアーレフのやり方では、よくないのではないかということにより、改革がスタートしてきました。これは麻原色をなくしていく、というものでした。
この改革は、初めこそ、勢いに乗っていましたが、改革への反発が生じはじめ、徐々に動きが鈍くなっていき、ついには、頓挫することになりました。そして、私にとっては、その頓挫は、突然に起こったのです。2003年の6月の下旬のことです。
その日は、烏山本部に道場のリーダー格の人が集まり、上祐代表とミーティングを行っていました。ミーティングが終わり、その帰り道に仲間の一人と喫茶店に入り、法則の話など、いろんな話をしていたところ、携帯電話が鳴りました。
その電話に出てみると、聞き慣れない声で、「お姉さん、誰だかわかる?」と言われました。初めはわからなかったので、「誰でしょう、よくわかりません。」と答えました。そして、沈黙何十秒後に、「もしかして、アーチャリー正大師ですか?」といったところ、「忘れてしまうなんて、お姉さんひどいね」と言われたので、「そんなの無理ないですよ、7年以上話をしていないわけですから」と言いました。
アーチャリー正大師とは、麻原の三女で、松本麗華さんのことです。彼女はなにか周りをひどく警戒しているようで、周りに誰かいないかを確認してから、話を始めました。
その内容は、まずは、私の個人的な話から始まり、そのことについて、「お姉さんは、尊師(麻原)との縁を傷つけた。このままだと地獄に堕ちるから、このマントラを唱えたほうが良い」と言われました。
それは、脅しと同じような感じでした。その後、「シャクティーパットの影響で、上祐代表の調子が悪い、おかしい」という話になり、「上祐代表を修行に入れたい」と言うに話になりました。そして、そのために協力して欲しいことがある、ということでした。できれば、直接会って話をしたいということでしたので、指定された場所に向かいました。
駅に着いて、アーチャリー正大師を待っている間、生きた心地がしませんでした。なぜなら、この6月には、私のとって大きな変化の出来事がありましたが、それについても悩んでいる時期でもあり、アーチャリー正大師の話次第では、どうなるかわからない、と思ったからなのです。
「ああ、私はなんてカルマが悪いんだろう」と、半分、泣きそうになる気持ちを抑え、緊張しながら、彼女が来るのを待っていました。
●松本家の人々に再会する
そして、約7年ぶりにアーチャリー正大師と再会しました。彼女は背が伸びており、女性らしくなっていました。駅の改札を出て、あまり人目につかないところで、立ち話で2時間くらいだったでしょうか、話を聞きました。
その内容は、ひたすら上祐代表の悪口(と思えた)でした。
彼女の話は、私が腑に落ちない点がいくつかあったのですが、ここで逆らっても仕方がない、と思い、ひたすら話を聞いていました。幾分、話をしているうちに、私の緊張も取れていき、十分、話を伝えきれたと思った彼女は、「お姉さん、だいぶ理解したみたいだね。」と言い、「次は、もっとびっくりさせてあげる」と言われ、私を次の場所に連れて行きました。
再び電車に乗り、とある駅で降り、そこからしばらく歩いて着いた場所は、カラオケボックスでした。そのまま促され、部屋に入ると、そこには、なんと、次女であるカーリー、麻原の奥さんである、知子さんがいたのです。そして、二宮さん、その時、一緒にいた仲間も、すでにその部屋にいました。
違う部屋に行き、もう一人の仲間と待っていたら、村岡さんが来ました。彼女はこの成り行きを知っているようで、余裕な感じを受けました。呼ばれるまで、カラオケを歌ったり、話しをしていました。
しばらくすると、先ほどの部屋に呼ばれましたので、行ってみると、そこには数名の道場活動の師の人達がいました。そして、三女が、上祐代表の問題点をいくつか話をし、最後に、「今日、ここで話をしたことは、決して誰にも言わないように。この場所に集まった人達同士でも話をしないように。上祐代表にも、もちろん言わないように」と、きつく言われたのです。
さらに、「せっかくだから、長男、次男に対して、お布施ができる良い機会だから、みんなお布施したらどう」と言われました。私はそれについては、抵抗があったものの、他のみんなが素直にお布施するのを見て、「ここでしないのも、今後、活動がしづらくなるから、形だけでもしておこう」と思い、お布施をしました。
話し合いが終わった時間は、深夜になっていましたので、カラオケボックスで始発が来るまで待ちました。
その間、もう一人の仲間と、「どうしよう、大変なことになったね」と、お互いに言い、今は気分を変えるしかない、ということになり、時間になるまでカラオケを歌い、なんとか自分の気持ちを紛らわしたのです。
●上祐代表にも呼ばれる
しかし、そこで待っている間に、上祐代表の秘書から電話が入ってきたのです。緊張しながら電話にでたところ、明日の朝7時から東京道場で代表がミーティングをしたい、と言っているが、来れるか、ということでした。
私は、「大丈夫です」と、返事をしたものの、「どうしよう、明日、上祐代表に会わないといけない。でも、今日の出来事を気付かれてはいけないから。困ったな」と思っていたのです。
そして、次の日の朝、ミーティングで上祐代表に会いましたが、昨日の事がバレたら困ると思い、まともに、顔を見ることができませんでした。
ミーティングを進めているうちに、昨日ミーティングに参加した師の人たちを乗せた車が、東名高速で事故を起こしたという知らせが入ってきました。
私は即座に、「昨日の人たちだ。やっぱり、あの出来事は、良くなかったんだ」と思い、ますます、どうして良いかわからず、考え込んでしまいました。
なんとかその場をやり過ごし、船橋道場に戻りました。しかし、昨日の出来事が、そして、事故のことが頭をぐるぐる周り、ワークどころではありませんでした。そんな中でも、上祐代表が出した指示に反発するかのように、違う指示が回ってくるのです。私は頭が混乱し、苦しみもピークに達していました。
もう、こんな状態では、ワークもできない。そして、正大師同士で争っている。こんな教団で今後、続けていくこともできないと思い、出家して以来、初めて教団を出ることを考えました。
そんな状況に陥っているとき、先に麻原の三女に会ったある師の人から、私の様子がおかしいことを聞いた上祐代表が、心配して電話をしてきたのです。
だからと言って、本当のことを話をすることはできませんから、最初は聞かれたことに対して、お話しできません、と答えました。
しかし、代表は「もう、知っているから、話をしなさい」と言いましたので、私は、泣きながら、「もう、こんな教団ではやっていくことはできません。代表に対しても疑念があります。」と叫びました。
それに対して代表は、話を聞くから、すぐに烏山に来るように言われたので、準備をし、私は烏山に行きました。烏山に着き、上祐代表に会い、私は自分の体験したこと、そこから出た疑念について、質問しました。そして、しばらく話しをした後、違う部屋で待機しているように言われ、待っていました。
そこで待っているとき、三女から何度も携帯に電話が入りましたが、一度も出ませんでした。そして、その日のお昼過ぎ、二宮氏が電話を私に持ってきて、出るように言われたので、出てみたところ、三女からでした。
三女は、私に、「なぜ電話にでなかったか」を聞き、次に、三女に会った人たちがその直後に事故を起こした件について、「上祐代表にその話をしたのは私なのか」と聞かれたので、「そうです」と答えました。
そして、なぜ、正大師同士で争わないといけないのか、そして、私にとっては、どちらも同じ正大師であり、どちらかを区別する気持ちがないこと、それは、正悟師に対しても同じである、ということを伝えました。
●混乱する教団の中で麻原や事件のことを考える
この2003年の6月の後、10月に至って、上祐代表は、完全に修行に籠もる、すなわち、教団の活動から離れることになりました(離されました)。
そして、教団は混乱をきわめていました。反上祐派と言われる人たちが、いろんなところで、上祐代表の改革は失敗だった、という話をするための「お話会」と呼ばれる会合が続けられていました。
私も一度誘われたので、参加して話を聞いてみました。話の内容は、上祐代表がおかしくなっていく過程、それに伴い、おかしな出来事が起きた、という話しの展開でした。
しかし、私がその話を聞いて思ったことは、話の内容はこじつけが多く、無理な論理展開をしており、私には納得できない事が多くありました。疑問に感じたこと、納得できないことを、お話会が終わった後に、いくつか質問をしました。当然、明確な回答はもらえませんでした。
こんなお話会に出ても仕方ないな、と思い、今度誘われた時は、断ろうと思いました。そんな心配をしなくても、その後は、一度も、お話会には誘われませんでした。
その一方で、私は、2003年の終わりから2004年の初冬にかけて、麻原のこと、そして、自分の今後の信仰形態、教団のあり方について、深く考えるようになっていきました。
今まで自分が思い描いていた麻原、そして、事件を犯した麻原、どちらも麻原であることには変わりがない。麻原とは一体、なんなんだろうと。それについて、考えていましたが、一定の思考まで進むと、それ以上進まなくなってしまいました。
潜在的には、それを理解してしまうと、さらに麻原に対して、崩壊が進むと感じていた、というより、自分自身の今までが崩壊してしまうとわかっていたから、ある一定までくると、あえて、思考をやめていたのだと思います。
そして、教団について言えば、このままではよくない、このままでは、この教団崩壊してしまう、ということについて、よく思っていました。どうしたら良いんだろう、と思い、そのため、当時から麻原絶対ではなかった野田成人さんに、よく相談をしていました。
自分の信仰形態に関して言えば、苦しんでいる人を助けたいとは思う。しかし、事件を起こした教団に入って来る人はほとんどいない。まして、麻原を前面に出すやり方では、限界がある。では、どうしたら良いのか。私の結論としては、麻原に頼ることなく、自分がともかく力をつけ、人を助ける活動をしていかなくてはいけない、と思いました。
●麻原からの自立のための闘い
そうしているうちに、11月になり、上祐代表が活動を再開しました。とはいっても、教団全体に認められての復帰ではなく、復帰に反対する人たちの反発を押しての活動の再開でした。
上祐代表は、自分の考えの近い幹部信者を集めて、徐々に活動を拡大していきました。最初の頃は、こそこそと集まったりしていました。私も、それに参加しましたが、その一方で、反上祐派の人たちの影響力が強い、道場活動を行っていましたので、堂々と活動をすることはできませんでした。
そんなある日、ある女性の幹部信者から諏訪に来て欲しい、との連絡がありました。多少疑問に思いましたが、普段から仲のよかった彼女からの連絡だったので、定期修行に行く予定だったのを変更して、連絡のあった諏訪のとある場所に行ってみることにしました。
そして、現地に行ってみると、そこに上祐代表をはじめとする、後に代表派と呼ばれることになるグループの中心メンバーが、勢ぞろいしていて、びっくりしたのを覚えています。
そこで上祐代表から今のアーレフ(現アレフ)の問題点、そして自分たちが進むべき道についてのお話を聞き、その過程の中で、自然に代表派の活動に入っていきました。
段々と上祐派の地下活動も活発になってきて、外部の一般会場を借りての集会がたびたび開かれるようになってきました。その活動は、在家信徒にも及び始めました。
そして、上祐代表が自身のブログ「真実を見る」を立ち上げたことがきっかけとなって、アーレフ内部での上祐派と反上祐派の対立が表面化して来ました。「真実を見る」の中には、麻原を含めて、教団が、一連の事件に関与していることが明確にされていました。
●いわゆる「船橋道場騒動」が起こる
それに対して、反上祐派が支配している当時の教団の中では、「真実を見る」にアクセスすることを禁じる通達が出ました。
そして、私が、その通達を無視したことによって、その後に、教団の中で「船橋道場騒動」として知られるようになった出来事が起きることになります。
それは突然やって来ました。忘れもしません。2005年8月8日の深夜、アーレフスタッフのTさんとNさん(ともに師)が突然、船橋道場を訪ねて来ました。
どうやら二人は村岡さんの指示で、「真実を見る」にアクセスすることを禁じる通達に対して、私が明確な同意を示さなかったことに対しての真意を探りに来たようでした。
そして通達に同意しなかった場合には、説得・懐柔するという指示を受けてきたようでした。私は態度を明らかにしなければならない状況になってしまったので、開き直って、納得できる理由を示してもらえなければ通達には従えない、とキッパリと宣言しました。
それを受けて、二人の必死の説得が数時間続いたのですが、私がいつまでたっても納得しなかったので、その日は私の説得を諦めたようでした。しかし、翌9日の早朝、村岡さん自身が船橋道場にやって来たのです。
そして村岡さん自身が説得をし始めましたが、私はそれでも考えを変えませんでした。
なぜなら村岡さんの説明には、教団が現状抱えている問題に対する具体的な解決策が示されなかったからです。
数時間の説得が続いたのですが、最終的には私は村岡さんの希望に添えなかったので、「代表派の活動はやめません」と宣言したのです。その直後、「では、今日から船橋道場長解任です。今日からここは東京本部管轄です」と言われました。
私は、「話は聞いておきますが、指示を聞くとは言っていませんから、間違えないでください」と伝えました。そして、「もう今日はこれ以上、話をすることはないと思いますから、帰ってください」と村岡さんに伝え、2人のスタッフと共に帰ってもらいました。
ある意味、このときオウムに出家して、初めて上長に明確に逆らうということにもなりました。このときより、船橋道場は公然とアーレフ主流派(いわゆるA派)と決別し、代表派の拠点として活動することになりました。格好よく言えばA派に対して反旗を翻したということになります。
そしてその日の夜に、上祐代表ほか代表派の主要メンバーと船橋道場の信徒が、船橋道場に集まり、今までの経緯の説明、上祐代表の考え方、目指すところ、理念の説明がされました。このとき上祐代表は1年ぶりに緑のクルタを着て信徒の前に登場ました。
まるで上祐派の決起集会みたいな雰囲気でした。信徒の大半も上祐代表の考えに賛同し、協力してくれることになりました。これには本当にありがたく思いました。
でも騒動はまだ続きました。道場長解任が言い渡された数日後、上祐派の勉強会をしている最中に、またまた村岡さん一行がやって来ました。
しかも今度は総勢、9人で、師その他のA派主要メンバーを引き連れて来ました。 まるで数で圧倒しようとするかのような印象を受けました。村岡さんが再び船橋道場に来た理由は、船橋道場の信徒に道場長解任のいきさつを説明したいということでした。
代表派も道場スタッフ以外に3人のメンバーが来ていたので、熱い論戦が繰り広げられました。しかしここでも、簡単に言ってしまうと村岡さんの説明は「麻原を信じる者は救われる」というものでした。
そして例えば信徒からの質問にあった、教団の将来に対する具体的なヴィジョンについて何も示すこともできず、その他の質問にも明確に答えられませんでした。逆に村岡さんたちが強引な手段を取ったことによって、信徒側の反代表派に対する不信が増大したように思います。
結局、お互いの主張は平行線のまま時間切れとなって幕となりましたが、この出来事により船橋道場の信徒も代表派へ参加する意思がより深まったように思います。そして、その流れのままに、船橋道場は今日に至っているわけです。
●代表派の活動を通して、教団の実態を悟る
代表派に入ってからは、一連の事件の話を含めて、麻原や旧教団の実態について克明に聞いていくことになりました。それは、ほとんど知らないことがばかりで、それを聞いて、私は一体教団のどこを、麻原の何を見てきたのだろう、と思うほどでした。
例えば、オースチン彗星と石垣島セミナー、ニューナルコと。そういった不可解な教団の動きの裏には、すべて教団武装化が関わり、事件との関わりがあったのです。何も知らずに活動を行ってきたとはいえ、知らないではすまされないことばかりです。
上祐代表を含めた代表派の複数の男性の幹部信者によれば、先ほども書きましたが、オースチン彗星に関連した石垣島セミナーの真相とは、教団が、麻原のハルマゲドンの予言を自作自演するために、ボツリヌス菌の研究をしていたところ、その散布を行う際に、信徒を遠方の地に避難させるために企画されたものでした。
なぜオースチン彗星だったのかというと、まず、その当時、アメリカのある宗教団体の教祖がオースチン彗星によってハルマゲドンが起こる、という予言をしたことがあると夕刊誌に掲載されていたのですが、そのハルマゲドンの予言の日が、麻原が指示していた教団のボツリヌス菌の散布の予定日(期限日)と全く同じだった、ということがありました。
そして、それを知った麻原は、その宗教団体の教祖も、「(麻原が信じる神の)示唆を受けているね」と弟子達に語り、教団のボツリヌス菌によるハルマゲドンの自作自演をカモフラージュするために、オースチン彗星による大破局・ハルマゲドンという話を使ったのでした。要するに、教団のテロ行為を隠すためには都合のいい話だったというわけです。
しかし、実際には、有毒な菌は製造されず、何も起こらずに終わったのですが、その前後に、どのような研究実験が行われたかを男性の幹部信者が説明しました。
ともかく、要点としては、オースチン彗星が来て、何か大変なことが起こる、という純粋な予言だったのではなく、教団が、ボツリヌス菌を撒いて、いわゆるハルマゲドンを起こす、という、予言を自作自演で成就させる計画があり、それが失敗に終わった、ということだったのでした。
こうして、自分の出家に関連した話が全くの嘘だったことを知った私は、先ほども書きましたが、自らが教団の幹部になっていたにもかかわらず、思わず、「私は騙されてたんですね」と言いました。
●自分が乗り越えなければならないものを悟ったこと
こうして、代表派の活動を行いながら、私の中には、麻原が作り上げた何かを超えていかなければいけない、壊していかなければいけない、という思いに駆られるようになり、その思いは、どんどん膨らんでいきました。
最初の頃は、それが何であるのか、わかりませんでしたが、今では、このようなことである、と考えています。
それは、オウム真理教の教えは、麻原を神として絶対視し、私たちこそは選ばれた魂であって、それ以外は凡夫・外道という選民思想。オウムが善であり、それ以外は悪であるという、究極の善悪二元論でした。故に、事件が起こっていくのです。
今から思えば、これは非常に傲慢であり、おかしなことだ、と思えることばかりです。
しかし、その世界に浸っていると、それが普通になってしまい、罪悪感すらわかなくなってしまうのですから、非常に怖いことだと思います。
それに対して、それを超えて、今私が実践しているひかりの輪の教えは、二元論ではなく、すべては自分の心の表れであり繋がっているんだという、一元思想に基づいています。
それは、すべてに仏性が宿っており、特定の魂だけに仏性があるものではない、という教えが中核になっており、善悪二元論ではありません。
二元の世界は、まさしくオウム真理教の特徴でした。そして、これを乗り越えていくことが、私が、麻原が作りあげた世界を壊して、それを乗り越えていくことだと思います。
それは、私が、代表派の活動に関わり始めた2005年の夏くらいから、ずっと考えていた自分に必要なことの答えだ、と今は思います。
●アーレフ代表派時代
船橋道場事件後も船橋道場や東京で一般会場を借りて、信徒を対象に、または、出家修行者を対象に、会合はたびたび行われ、そこでは一連の事件についての見解が話されました。
実際の事件関係者からの真実の事件の報告、そして事件を認めて謝罪すべきこと、今後教団が目指すべき方向などの話がされました。
そして自分たちと多くの人たちを幸福に導く法則、例えば、無常の法則とカルマの法則の重要性、自と他の区別をなくすこと、カルマヨーガ的に見ることの大切さ、すべての魂に仏性を見る、ことなどが説かれました。
また、旧教団では麻原にあまりに依存しすぎていて、修行者として自立できていなかった、という話がありました。
しかし、このアーレフを正式に脱会する前の時期、いわゆる、アーレフ代表派の時代の活動にも様々な反省点があります。
例えば、方向性としては、麻原を絶対視しないようにしていましたが、依然として、いろいろ麻原に依存している面がありました。
例えば、麻原の教材は破棄していませんでしたし、麻原の言葉を使って代表派に勧誘したこともありますし、さらには、麻原の物品を集めて、それを信徒に販売するなどして、お布施を集めたということもありました。
こういったことは、アーレフを正式に脱会するに伴い、無くなっていきましたが、それ以前のアーレフ代表派時代においては、麻原を絶対視はしなくなり、事件を明確に反省し始めたものの、いろいろな意味で、麻原からの自立・独立という視点では不完全だったと思います。
今思えば、この自立が遅れたという点は、反省する必要がある、と思っています。
●聖地巡りで、昔の自分の求道心を思い出す
2006年の夏には、初めて聖地巡りを行いました。聖地巡りでは自然の中、神社仏閣などを訪れますが、自然から、一元の悟りにつながる様々なことを学ぶことができると思います。例えば、自然の中には調和と、それに基づく慈愛を感じることができますし、木々や山々は互いに争うことなく、与えられた役割を果たして調和しています。そして、純粋な自然の中に没入する中で、自と他の区別が崩壊して、自分が大自然の一部である、ということが感じられるようになります。
このときは、在家の会員さんが対象に行われましたが、初めて行うセミナーの形態でもあり、それぞれがいろんなことを思ったようでした。これ以降、聖地巡りは、ひかりの輪の活動の中心の一つとして、今でも行われています。
この聖地巡りは、麻原を絶対視し、(聖地を含めて)日本の宗教・宗派や社会を強く否定していた旧教団時代であれば、あり得ない話ですし、考えもしなかったことでした。旧団体が行った聖地巡礼は、インドの釈迦牟尼ゆかりの場所だけで、日本の宗教・社会・聖地は「外道・魔境」という考えでした。
さて、私自身は、この聖地巡りを行いながら、過去において自分がいくつか訪問した場所であったことを思いだしました。
もちろん、その時は、自分が今のような状況になることはまったく考えていませんでしたし、オウムに入ってからは、このような話をする機会がなかったこともあり、長らく忘れていたことでした。
しかし、各地での聖地巡りを重ねていくうちに、私は、自分が仏像が好きだったこと、自然が好きだったことなどを思い出し、改めて、自分の特徴、自分なりの悟りに近づく道といったもの理解していくきっかけとなっています。
●代表派を取り巻く環境が少しずつ変化をする
2006年になっても、代表派と反代表派の摩擦は依然として続いていました。代表派は、反代表派の継続的な圧力にさらされつつも、少しずつ、その活動を拡大していきました。
その中で、結果としては、物別れに終わりましたが、両者の話し合いの場が持たれたこともありました。それ以前には、反代表派は代表派というグループの存在自体を認めない姿勢を取っていましたが、この時期になると、グループの存在を受け入れざるを得なくなってきました。
そして、2006年の3月頃には、松本家の四女が、家出をしたという情報が入ってきました。四女は、知子さんや三女のやり方に反発をし、家出をしたようで、反代表派(反上祐派)よりも、代表派(上祐派)の方に理解があったようです。
さらに、それから、しばらくすると、A派の急先鋒だった、村岡氏が中間派に転じる、ということが起きました。それに連動した何人かの幹部信者が、中間的な立場に変わっていきました。
こうして、代表派の活動が徐々に拡大する中で、松本家と反代表派のお膝元から複数の造反者が出たこともあって、代表派を取り巻く環境も、少しずつ変化していきました。
●2007年、麻原の教材を破棄し、アーレフを正式に脱会
その後、2006年の後半になると、代表派は全体の会合を開いて、麻原から自立すべく、まずは、出家者から旧団体の教材破棄を行なうことを取り決めました。
もちろん、これについても、すんなり行ったわけではありませんでしたが、何度も話し合いがもたれた末に、麻原に対する依存を払拭するためには必要である、ということで皆の意見の一致を見て、決められたことでした。
そして、翌年2007年までには、おおむね旧団体の教材の破棄が実行されて、それに伴い、2007年3月7日に、オウム・アーレフを正式に脱会することになりました。
なお、旧団体の教材の破棄については、2008年現在、まだ在家信徒の破棄が十分には進んでいないために、その推進に努めています。また、出家者については、破棄漏れがないかのチェックが徹底されました。
●2007年5月、新団体ひかりの輪が発足
2007年5月に、いよいよ、新団体「ひかりの輪」が発足し、今日に至ります。
私自身について言えば、新団体の中で、水野さん、広末さんと共に、三人の副代表の一人として上祐代表を補佐しています。
また、日々の業務・活動としては、会員教化活動の部門の責任者として、主に、関東を中心とした地域の会員の皆さんに対応する業務に従事させていただいております。
●自分たちの心を投影した存在として麻原を見る
最初、総括を書くにあって、一体、どんなふうに自分の考えや気持ちを表現すればいいのだろうか、と思いました。
今、書き終わって見て、感じることは、自分が傲慢であったこと。主体性のない生き方をしていたこと。そして、不謹慎な言葉ではありますが、自分が作り出した世界を楽しんでいた、ということです。
釈迦は、「すべて事物は心の現れであり、現象は相互依存し合って、つながって存在している」といった法則を説きました(縁起の法、唯識の教えなど)。
こういった釈迦の智慧に即して考えると、麻原や教団は、決して私の心の働きと別の存在ではなく、私の中の、「依存する対象が欲しい」という心の現われや、「神通力を持っている人と巡り会いたい」という心の現われ、そして、「自分がヒーロー・ヒロインになり、すべてを支配したい」という心の現われだったのではないかと思います。
言い換えれば、私は、麻原や教団の現実を客観的に見るのではなく、自分の中の欲求を背景として、自分の中での麻原、自分の中でのオウムの世界を作り出していったのだ、と思います。
そのように考えれば、事件は麻原が起こしたことであり、それを知らされていなかった私たちには責任がない、関係がない、と言うことはできません。事件を起こした麻原が抱いた妄想や狂気は、私たちの中にも存在している要素であって、麻原は、そういった信者たちの心の投影ではないか、と思います。
その意味で、実際には、麻原らが指示して実行したものが事件であっても、ある意味で、自分たち自身が起こしたことと同じように受け止める必要があるものだ、と思います。
麻原はキリスト、神、絶対者になっていったわけですが、それは麻原の誇大妄想からの願望でもあったと思いますが、私たちの中にも誇大妄想、そして、自分が特別になりたいという思いから、麻原を絶対者に作りあげていった、作りあげてしまったのではないかと思います。
そのような麻原に依存することによって、私に何の力があるわけではないのに、私自身までもが特別になり、力があるような錯覚に陥り、何でもできると思い込み、他の人に対して偉そうに振る舞って、支配して、プライドを満足させていたかと思うと、いまさらながら、恥ずかしくて仕方ありません。
しかし、長い間、自分の無智によって、自分の暗部を見たくないがために、自分と麻原は違う、といった意識を持ち、ごまかしてきたことが、ようやくわかりました。
そのような自分に気付いてからは、コツコツと努力すること、支配するのではなく、相手に対して感謝、尊重の気持ちを持ち、すべてが学びであるということを意識して、日々を送るように心がけています。
そして、その自分の無智のために、多くの方々に不快な思いをさせ、嫌な思いをさせてきたことは、本当に申し訳ないことだと思います。
●ひかりの輪を通して、21世紀の新しい思想の創造を
私たちは、オウム真理教において、究極の二元の世界を経験しました。自分たちこそが救済者であり、救われた魂であり、それ以外は救われない魂である、善と悪がはっきりとした世界観でした。そして、その中で各人がプライドという煩悩を満足させ、麻原を神として依存して、支配しようとして事件まで起こしました。
そして、今、ひかりの輪では、その経験を元にして、自分たちを深く反省し、新たに、21世紀の思想を創造し作り出そうとしています。
ひかりの輪では、「すべてのものはそのもの自体で独立して存在しているのではなく、他との関わりあいのなかで、相互依存によって生起している」という、お釈迦様が説いた縁起の法を基本にしています。それは、自分と他人はつながっており、自分だけが独立して存在しているわけではない、物事はつながっているのだということです。
そして、「すべてが万物の現れ」とみて、すべてのもの、人々から、学び、感謝し奉仕する気持ち、万物の現れとしての大宇宙、大自然との融合ということで、聖地巡りを行っています。
それは、すべての人が、自然が学びの対象となることにより、人間を神にして、特別な存在にしないことにより、自分が傲慢にならないことにもつながっていきます。
支配するのではなく、お互いを尊重し、良い部分を学び、悪いところは反面教師としていくことを心がけています。
この新たなものを作り上げていく過程の中では、古いものからの脱皮が必須であって、その教えを実践することによって、新たな自分が生まれてくると思いますし、生まれ変われるのだと思います。
この総括をきっかけとし、まだまだ未熟ではありますが、自己をより反省し、謙虚になることができるように努めたいと思います。
そして、釈迦が説いたように、自他の区別をなくして、すべてに仏性があることを理解し、感謝、尊重の心を大切にして、日々、精進していきたいと思います。
■3,ひかりの輪の発足以降、2011年までの経緯について
●自己の変化、反省の深化
2007年5月にひかりの輪が発足してから、丸4年がたちました。
私がオウム・アーレフの総括を初めて書いたのが2008年の9月でしたが、それから約3年たつ中で、活動の変化、自分自身の中での変化、反省の深まりなどを改めて書き加えたいと思います。
2004年~2007年までの代表派、そして、オウム・アーレフを脱会し、ひかりの輪の活動をしていくなかで、いろんな気づきや、大自然の中で心が広がっていく体験などを行うようになっていきました。
総括にも書きましたが、代表派の活動を行いながら、私は「麻原が作り上げた何かを超えていかなければいけない、壊していかなければいけない」という思いに駆られるようになり、その思いは、どんどん膨らんでいきました。最初の頃は、それが何であるのか、わかりませんでしたが、今では、このようなことであると考えています。
それは、オウム真理教の教えは、麻原を神として絶対視し、私たちこそは選ばれた魂であって、それ以外は凡夫・外道という選民思想。オウムが善であり、それ以外は悪であるという、究極の善悪二元論であり、その結果としてオウム真理教事件がありました。
今から思えば、これは非常に傲慢であり、おかしなことだ、と思えることばかりです。
しかし、その世界に浸っていると、それが普通になってしまい、罪悪感すら湧かなくなってしまうのですから、非常に怖いことだと思います。
それに対して、それを超えて、今私が実践しているひかりの輪の教えは、二元論ではなく、すべては自分の心の現れでありつながっているという、一元思想に基づいています。
それは、すべてに仏性が宿っており、特定の魂だけに仏性があるものではない、すべてが神仏の現れであり、すべてに感謝をするという教えが中核になっており、善悪二元論ではありません。
何かを壊していかなければと思いつつ、その何かがわからず悶々としていましたが、ひかりの輪で一元思想を学ぶ中で、乗り越えていくもの、壊していくものは、二元的意識だったのだと、それが必要なことなのだとわかり、非常に心がすっきりしたことを覚えています。
オウム真理教時代は、自他の区別をしないところか、完全な自他の区別による教えを中心として、プライドを増大させ、傲慢になり、自分こそが偉大であると思い、自分一人で生きているかのような錯覚に陥っていたように思います。心が縮こまっていたと思います。
ひかりの輪では釈迦牟尼が説かれた縁起の法をはじめとして、一元的な思想を中心としています。例えば、自分と他人はつながっている、他人は自分の心の現れであること、苦楽表裏であること、善悪表裏であること、自他の区別をしないことなどが、教えの中心となっています。
そして、万物が神仏の現れであり、すべてに感謝をするという教えは、自分一人だけで生きているのはなく、多くの人たちによって生かされており、そのように思うだけで、意識が大きく宇宙全体に広がっていく感じがし、それが心地良く感じます。
ひかりの輪のもう一つの特徴として、聖地巡りというものがあり、これまでに、さまざまなところを訪れてきました。私が気に入っている場所は、長野の上高地や、諏訪、そして、奈良の天川、高野山も好きです。もちろん、これ以外にも、優れた多くの聖地はたくさんあり、甲乙つけがたい状況ではありますが。
聖地を訪れることによって、特に自然の中に入っていくことにより、聖地・大自然と自己が別々ではなく、一体となって生じる体験などがあり、そのような体験が生じるときには、自我意識(エゴ)が弱まっています。
私がいろんなものを感じるものとしては、「水」というものがあります。ひかりの輪の音楽の中に「水の神」という歌がありますが、その歌詞の中に、「清らかなものも けがれたものも、すべてをつつんで はぐくみ育て」と「清らかなものも けがれたものも 川の流れに すべてをつつみ」というのがあります。
水を見ての初めての体験は、2007年の10月に屋久島に聖地巡礼に行った際、そこで訪れたヤクズギランドでの川の流れを見ながら、瞑想していたときでした。
しばらく、川の流れを見ていたら、上記の歌詞が自分の脳裏に浮かんできて、「ああ、すべては許されているんだな」と思え、それと同時に慚愧の気持ちがこみ上げ、涙を止めることができませんでした。しかし、その後は、非常に心がすっきりとしており、すがすがしい気持ちになりました。
他の聖地でも、いくつかの体験を与えていただきましたが、印象深く残っている長野の諏訪を訪れたときの体験をご紹介させていただきます。
2010年に訪れた諏訪にある小袋石というところ(古代からの磐座)で瞑想をしていたときのことですが、そのときの自分の瞑想のテーマは、「他の喜びを自分の喜びとすること、育む、受容」というもので、そのときもそれらについて瞑想していました。
すると、瞑想している自分に小袋石が迫ってきました。そして、石が自分に迫って来ただけでなく、自分からも石に近づいて行きました。目の前に小袋石があり、自分では何が起こったのか事の次第が飲み込めませんでしたが、そうしているうちに小袋石の中に自分が溶け込んでいきました。
そして、溶け込み、広がって自分というものがなくなってしまいました。自分がなくなってしまったのです。時間の感覚もなくなっていたので、どれくらいその状態が続いていたのかわかりませんでした。自分がなくなり、同化していくのは、なんだか不思議な感じですが、固定された自己がなくなるという感覚は、すべてから開放された感じで、心地良く気持ち良く、暖かい感じがしました。
また、同じく2010年に訪れた諏訪のミシャクジ(諏訪の古層の精霊)でのことですが、ミシャクジの湛えの木の近くで瞑想していたとき、木から出ているたくさんの枝が腕のようになって、多くの衆生を抱きかかえているように感じました。そして、すべてを受容している、すべては許されるんだなと思いました。自分がそれを得るには自他の区別を超えていかなければいけないと思いました。このときの瞑想も、育む、受容、安心、宇宙母といったものがテーマでした。
自分という意識に固定され、自分のことを中心に考えることより、自他の区別をなくし、自分も他人も同じであり、一体であるという意識のほうが、遙かに意識の広がり、そして、暖かさを感じることができます。
また、麻原やオウムに頼らなくても、聖地から素晴らしい体験をすることができ、それが脱麻原をさらに促していきました。
まだ、オウムに入会する前には、いわゆる神社、仏閣、自然の中によく行っていましたが、オウムに入ってからは、それらはすべて否定され、麻原氏がすべて、オウムがすべてという思想の中で、私の中からは日本の素晴らしさを考えたり、感じたりすることが消えていきました。
しかし、ひかりの輪で聖地巡りを行うようになり、昔のことを思い出したり、日本の良さに触れていく中で、これまで蔑視、破壊の対象であった日本にこれだけ素晴らしいものがあり、大切にしなければならないと思うようになっていきました。
オウム・アレフの時は、麻原でないと、麻原だからこそ、こんなに素晴らしい体験を与えることができるんだと信じて信仰を行ってきましたが、ひかりの輪での聖地修行の中では、当然麻原はいないわけですが、それでも自然の中で、聖地の中で素晴らしい体験をすることができ、そしてそれが少しずつ積み重なっていくことで、麻原脱却をさらに促していくことになりました。
次は、聖地での体験ではなく、日々の修行の中での体験となりますが、私自身の中では、ひかりの輪の教えの理解が深まった印象的な体験となりますので、ご紹介させていただきます。
2009年に都内大学教授の先生の指導のもと、「内観」の修行を行ったときのことです。本部の第二道場にて、内観の修行に3日間入らせていただきました。内観とは、①していただいたこと、 ②して返したこと、③迷惑をかけたこと、この3つの事柄について、身近な人、例えば母親、父親という順番に、自分の小さい頃からのことを思い出し、内側を見つめていく作業をいいます。
私も例に漏れなく、母親から順番に3つの項目について見つめていきました。そして、父親、弟、祖父、祖母などと順番に行っていく中で、実は、していただいたことと迷惑をかけたことはつながっていて、表裏の関係であることが理解できました。
そして、さらに進めていくと、自分と他人のつながりがどんどんと見えてきて、循環しているのがわかり「これが縁起の法なんだ」とより深い納得が生じたのです。そういった中でふと、「私って今までどれくらいの多くの人と出会って、支えられてきたんだろう」と思い、生まれてきてから知り合った人を順に書き出してみました。そうすると、子供の頃から今までほんとうにたくさんの人と出会い、その一人一人から恩恵を受けていたんだということを実感しました。
そして、「ああ、私はこんなに多くの人に支えられて生きてきたんだ」「今まで自分ひとりの力で生きていると思っていた私は、なんて傲慢だったんだろう」、そう思った瞬間のことです、強い感謝の思いが湧き、同時に霊的なエネルギーが身体の中を上昇し、そして、ワーッと広がっていきました。暖かく包み込むようなエネルギーが一気に広がって、自分の内側にある他人との壁のようなものがなくなり、大きく広がっていきました。「これが自他の区別を越えた先にある心の広がりなんだなあ」と思いました。
仏教の唯識思想には依他起性(えたきしょう)という教えがあり、その意味は「すべてが相互に依存し合って存在していて、本質的には一体である」というものですが、このときの体験は、まさにそれを言葉ではなく、感覚的に実体験したものだと思います。そういう意味でも、このときの体験は、私の中でとてもインパクトが強く、印象深いものとなっています。
内観を行い良かったことは、上記のことはもちろんそうですが、長年にわたっての父に対しての悪感情が薄れたこともあげられると思います。
私には普通に両親がいましたが、小さい頃から母がよく父の悪口を子供たちの前で言っていました。
その話を聞けば聞くほど良い感情はわかず、悪い感情ばかりが増大していきましたし、そして、それにともなっての父の行動がまたさらに悪感情を増大させていくのです。
浮気、バクチ、金融機関への借り入れ、子供にお金を無心するなどなど、最後には借金をかえすことができなくて、倒産しました。
悪い印象がほとんどの父でしたが、内観を行うことによって、①していただいたこと、 ②して返したこと、③迷惑をかけたことを進めていく中で、ハタッと自分のしてきたことが鮮明に浮かびあがり、父より私の方が悪人ではないかと思いました。
父親からしてもらったことを簡単に書いてみると、普通のことなのでしょうが、まずは私を育ててくれたということがあげられます。お金のないなか高校にも普通に通わせてもらったり、幼稚園、小学校、中学校とピアノ、ペン習字、英語や数学の塾などに通わせてもらいました。
それを振り返ると、私はかなり恵まれていたのではないかと思います。でも、悲しいかな、そういったことは当たり前に思えて、感謝の対象にもなっていなかったことを、この内観を行うことで気がつきました。
それなのに、感謝の気持ちがわくどころか、父の行動に対しての悪感情ばかりで、それで心が一杯になっていました。
でも、このように振り返ると、父は多少、人より型破りのところがあったものの、私がしてきたことに比べれば、ある意味問題がないことだとも言えるかもしれません。
というのは、たがが父は借金を作り、倒産をしただけ、それに比べて私はオウム真理教に所属して、その団体が戦後始まって以来の凄惨な事件を起こし、それによって多くの方が亡くなり、今もなおそのときの後遺症で苦しんでいる多くの方がいます。
そのような視点からみていけば、私が親不孝者で、どうしようもない奴だと言われても当然なのではないかと。
今まで自分中心で生きてきて、信仰実践によって自己中心が多少でも和らげばという思いや、他のためになれればという思いがありましたが、オウム真理教、アーレフ時代は振り返れば自己中心性が高く傲慢でしたし、内観を行って初めて気がつくことが多く、自分の視点だけで物事を見ることの危険性や、やはり自分を善とする、善としたいという気持ちが強いことにも、改めて気がつきました。
この経験から父に対して、今まで抱いていた悪感情がとても和らぎ感謝の気持ちが生じ、その後は父と穏やかに電話で話をすることができるようにもなりました。
●オウム事件被害者への慰霊行事等
ひかりの輪が発足して以来、3ヶ月に1度、オウム事件被害者への慰霊集会をスタッフ、会員ともに行っております。
慰霊集会では、あらためて事件の重大さを認識するとともに、犠牲者や被害者の皆さまのためにできる限りのことをさせていただくこと、そして二度と同様の事件を起こさない、起こさせないための反省・総括の深化を決意させていただいています。そして、被害者・遺族の皆さまに対する謝罪の気持ちを心に刻むために、そして、宗教テロの繰り返されない社会をつくるお手伝いをするために、いっそう賠償に努めていきたいと思います。
慰霊集会に参加したスタッフ、会員には賠償の寄付の協力をお願いしており、そこで集まった寄付については、賠償金の一部として寄付をさせていただいています。
都合上、慰霊集会に参加できなかった会員については、後日、個別に働きかけを行い、賠償の協力のお願いをしています。
また、毎年3月20日地下鉄サリン事件の日には、地下鉄の霞ヶ関駅に赴き献花をさせていただき、被害者・遺族の皆さまに対するご冥福、謝罪の気持ちを胸に刻んでまいります。
そして、2009年4月には鎌倉にある円覚寺で、オウム真理教事件の中で殺害された坂本弁護士ご一家の墓前にて、お花とお香を供えさせていただきました。
墓前にて手を合わせた瞬間、心の奥から本当に申し訳ないことをした気持ちで一杯となり、私たちがしてしまったことの罪の重さ、二度とこのような事件を起こさないために、反省をもっと深めていこうと、自分と向き合うことの重要さを改めて決意をしました。
今後も全力で賠償努力をさせていただきたいと思います。
●開かれた団体作り:一般向け講話会、懇親会、聖地巡り、サイトの改善、その他
オウム真理教時代、アレフ時代は、「社会が敵」という思想のもと、社会という外側の敵を作り、社会と闘ってきたような面があると思います。そのため、いろんなことを隠すようになり、秘密主義と言われたり、閉鎖的と言われたり、多くの人に不信や恐怖を与えてきたと思います。
ひかりの輪ではオウム・アレフでの秘密主義、閉鎖的といわれてきたところを改善するために、いくつかのことを試みています。
上記で書いたようなオウム・アレフのイメージがありますので、ひかりの輪の活動がいったいどういうものであるのか、不明で不安感を持っている方々のために、ひかりの輪の教室に来なくても、外(サイト)から活動実体を知ってもらうために、サイトを充実させたり、上祐代表の講話も教室に来訪しなくとも自宅で視聴するシステムを設けたり、年3回あるセミナーでもセミナー講話の公開、行法もユーストリーム中継を行い、どのようなことを行っているのか、教室に来なくとも実践できる場を設けています。
「教室を訪問したいが、ちょっと怖いから、抵抗があるから」という方、「どんなところなのか、まずはネットで知りたい」という方、「教室を訪問したいが今は忙しい」という方、「教室を訪問する前にもう少し学びたい」という方、「自分の住んでいるところからは遠くてなかなか訪問できない」という方に、教室を訪問せずにご自宅で、ひかりの輪の教えをある程度学ぶことができるようホームページを用意しました。
ここでは、ひかりの輪がどんな活動をしているのか含め、イベントのお知らせ、代表講話の動画、教えなど、ひかりの輪の活動の多くをここで学ぶことができるようになっています。
他には一般の方が参加できる多くのイベントがあり、入会しなくても、体験していただくことができるものとして、懇親会、講話会、ヨーガ・気功などの行法の体験、聖地めぐり、セミナーへの参加などがあります。
ネットを通じての一般の方への動画の配信は、2009年9月から始まり、始めてから1年あまりは、動画配信を希望する方のみに配信をしていましたが、その後は、公開型といって、希望の旨をこちらに伝えなくとも、こちらが掲示したURLにアクセスをしていただければ、誰でも簡単に代表講話などが視聴できるという仕組みも取り入れていきました。
そのため、希望して配信しているときより、視聴される方がかなり増え、そこから問い合わせなども来るようになったり、それをきっかけにして、講話会の参加の希望をうけることもあります。
そして、現役アレフ信者、一般の方に多く影響を与えたと思われる動画は、2010年の7月に行ったロフトでのトークショー、その後の12月のトークショーなどがあげられます。
特に7月のトークショーのあとは、問い合わせが増えたり、電話が増えて、一般の人の訪問、アレフ現役信者が懇親会に参加をし、それをきっかけにしてアレフから脱会に至った人もいました。
実際に東京本部教室には数名の方から、ロフトのトークショーを視聴して興味を持った、という人からメールや電話をいただき、私が直接対応しました。
その中の一人には、現役アレフ信者の人がいましたが、その方は事件のことやアレフの体制に疑問があるということで、懇親会に参加して代表の話を直接聞きたいとのこと、連絡を受けました。その人は以前もネット販売を通じて、ひかりの輪の教材を購入したことがある人でした。
その人は、「ほんとうはこうやってこちら(ひかりの輪)に接触したり、話を聞いたり、トークショーなどは聴いたりしたらいけないんだけど、こっそり聴きました」と言っていました。
そして、その人は懇親会に出て、上祐代表とも直接話をしたりして、アレフ脱会を決めて帰りました。彼は東京に住んでいたので、その後は私が担当をして、彼をアレフから脱会、ひかりの輪の入会まで導きました。
しかし、脱会から入会まではすんなりは行きませんでした。アレフ側に脱会を申し出ところ、東京の担当者が彼の家に来たり、信徒が家に来たり、電話がかかってきたりして、「脱会すると、縁が傷つくとか、地獄に落ちる」と言われ、それで気持ちが揺れてしまい、こちらとの接触を断ったりしたこともありましたが、私の方もメールを送ったり、電話をしたりして、なんとか彼との接触を図り、再度、代表とも話をして、アレフに脱会届を出し、私も方もアレフ東京本部宛に脱会の際の対応についての抗議内容をメールしました。
すんなりいかなかったものの、無事にアレフを脱会し、現在はひかりの輪に入会し、熱心に修行をして活動をしています。
一般の人に向けての説法会、懇親会は2010年の7月の東京本部から始まり、今では全国的に行っており、現在までに多くの方が、講話会、懇親会に参加しています。
講話会や懇親会に参加するきっかけは、やはりオウム真理教事件に興味があるから、実際、あの事件は何だったのかということが知りたいということが理由で参加されてくる人は多いですが、オウム・アレフからどのように変わっているのか、総括を読んで感動した、本当に深く自分を見つめ直しプライドも何も全て捨てて全力で総括して反省しているのが文章から伝わってくる、嘘であの文章は書けないなど、総括文書を読んで、そして、動画を見てオウム真理教時代と言っていることが明らかに違う、そして上祐代表の変化などを見て、講話会、懇親会に参加をしてきます。
私自身は関東全体(千葉、横浜)長野、仙台と担当していますので、役割上、いろんな人と交流させていただき、話をさせていただいています。その中に出てくる質問は、やはりオウム真理教事件のことが多いかと思いますが、それと同時にひかりの輪の思想などにも興味を持ち、熱心に聞いてくる方もいます。他には自分の悩みなどを相談してきたりする方もいますので、その質問に答えたりして、交流を深めています。
2010年の9月には初めて一般の人に対してひかりの輪の聖地巡りの参加の呼びかけを行い、数名の方が参加され、一緒に聖地巡りを行いました。
上記のように、かつては会員にならなければ受けられない、参加できないことがほとんどだったイベントは、現在ではそのような垣根をなくして、広く多くの方に参加していただけるように、ひかりの輪は、21世紀のための新しい思想の創造を志し、一般社会に開かれた思想の学びの場を作るため、ネットで学べたり、入会せずに学べる仕組みを展開しています。
●最後に
2007年のひかりの輪発足当初を思い返すと、まだまだオウム・アレフからの脱却に苦しんで、戸惑っていた自分や、仲間たちの姿を思い出します。
ひかりの輪では、「万物恩恵・万物感謝」「万物仏・万物尊重」「万物一体・万物愛す」と万物すべてを尊重する教えを説いています。
これは、特定の人を神とするグルイズムを超えて、全ての人に仏性・神性を認めて、全ての人を導き手としよう、という考え方です。
オウム・アレフでは、すべての人々から学ぶという考え方はなく、善悪二元論の考えに基づき、麻原氏だけが正しく、麻原氏に巡り会い、オウム真理教に出家、もしくは入信した人は善で優れた人であり選ばれた魂と言われ、入信しない人や、他の宗教を信仰している人については、凡夫、外道と呼び、悪だと決め、救われない魂と決め、そう思うことで自分たちのプライドを満足させ、傲慢になり、自分こそが正しいと思い、それ以外の人についてはある意味馬鹿にしていましたので、その人たちから学ぶという謙虚な考え方は、皆無に等しかったと思います。
他宗教・他宗派と対立せずに、良いところは学んでいくという考え方がありますが、その延長上として、全ての人に、何か良いところがあるから、それを謙虚に学んでいくということになります。
また、他人の悪い行いについても、立場・条件・環境が入れ替われば、自分もそうしたかもしれないという謙虚さを持って、その人を反面教師としての導き手として、自分の内省に役立てるということも基本的な教えの1つです。
そして、ひかりの輪のもう一つの中核の思想は、釈迦牟尼が説いた縁起の法とされます。それは、全ての物事は、他から独立して存在する永久不変の実体はなく、お互いに依存しあって(ある意味で一体として)存在する、実体のないものである、という思想であるということです。
これは、自分と他人などの色々な物事をバラバラに、そして、固定的に見るという二元論的な世界観ではなく、全てが互いにつながりをもったものであり、流動的なものである、という一元的な見方です。
このような教えをひかりの輪では説いていますが、二元論的な思考の訓練が長いため、教えの意味は理解できても、一元の教えの実践は難しく、実践してはうまくいかずの繰り返しの中、何を伝えたら良いのかもわからず、自信が持てない日々が続きました。
しかし、実践してはうまくいかずに自分に負けては反省し、恥ずかしい話ですが、うまくいかないストレスを上祐代表にぶつけたりすることがありましたが、そのたびに代表は粘り強く教えを説いてくれました。
それでも、何度も繰り返し聞く教えによって、少しずつの努力によって、ようやくひかりの輪の存在の意味の理解が深まり、自分自身についてもひかりの輪発足当初に比べて自信がつき、内側が充足してきました。2010年7月以降、ひかりの輪が発足して3年経ちましたが、教えを話すことができるようになったのは、自分の中での大きな変化でした。
私たちは、オウム真理教において、究極の二元の世界を経験しました。自分たちこそが救済者であり、救われた魂であり、それ以外は救われない魂である、善と悪がはっきりとした世界観でした。そして、その中で各人がプライドという煩悩を満足させ、麻原を神として依存して、世の中を支配しようとして事件まで起こしました。
しかし、オウム・アレフで実践している頃は、自分の中にこれほどまでの傲慢さや、プライドがあるとは、まったく思っていませんでした。
ひかりの輪の教えを学び、実践していく中で、いかに自分たちが傲慢であり、プライドが高かったのか、そして、そのために多くの人々を傷つけてきたことを理解しました。
自他の比較、自他の区別、その教えが私たちを傲慢にしていき、プライドを増長させていきました。
そして、ひかりの輪では、その失敗の経験を元にして、自分たちを深く反省し、新たに21世紀の思想の創造をしています。
ひかりの輪では、「すべてのものはそのもの自体で独立して存在しているのではなく、他との関わりあいのなかで、相互依存によって生じている」という、釈迦が説いた縁起の法を基本にしています。それは、自分と他人はつながっており、自分だけが独立して存在しているわけではない、物事はつながっているのだということです。
そして、「万物はすべて一体で、繋がっている」こと、そして感謝、尊重、愛する気持ちを忘れずに、自分の心を引き締めて日々を過ごしていきます。
同じように苦しんでいる人たちや、心の安定、安らぎを求めてきている人たちが、今後もひかりの輪に訪れてくると思いますが、そのときには、私がなした過ちをと同じことを犯さないよう、私の反省を含めながらひかりの輪の教えを話していきたいと思います。
以 上