「河内六寺」(かわちろくじ)をご存じでしょうか?
文字どおり、河内国(大阪府)にある六つの寺という意味ですが、生駒山地の南西部、地元の柏原市(かしわらし)では「東山」と呼ばれる山間部の裾野に集中している古代寺院跡群のことを指します。
「大和川、石川と東山山麓の古代寺院」(柏原市立歴史資料館)。寺院と周囲の風景のスケール感が違うとかツッコミどころはあるものの雰囲気は伝わってくる
河内六寺があった一帯は、大和川と石川が合流する古代から交通の要所であり、古墳も多く存在するなど、この地域の経済的・文化的な中心地でありました。
大和川の対岸から東山(多分)方面を望む
また、この地域には河内六寺だけでなく、ほかにもいくつか古代寺院跡もあり、ハイジストにとっては垂涎の場所。
今回はこれらの古代寺院をレンタサイクルで巡ってみることにします。
河内六寺とは?
出掛ける前に「河内六寺」について調べておきましょう。
河内六寺とは、北から順に
- 三宅寺(みやけでら)〔平野廃寺(ひらのはいじ)〕
- 大里寺(おおざとでら)〔大県廃寺(おおあがたはいじ)〕
- 山下寺(やましたでら)〔大県南廃寺(おおがたみなみはいじ)〕
- 智識寺(ちしきじ)〔太平寺廃寺(たいへいじはいじ)〕
- 家原寺(いえはらでら)〔安堂廃寺(あんどうはいじ)〕
- 鳥坂寺(とさかでら)〔高井田廃寺(たかいだはいじ)〕
の各寺院で、いずれも現在の大阪府柏原市内に存在していました(〔 〕内は遺跡としての名称)。
柏原市内の古代寺院跡。赤枠内が「河内六寺」(史跡高井田横穴公園の屋外展示広場のパネルを加工)
上の図を見てわかるとおり、六寺は、比較的狭い地域に短い間隔で南北方向に建ち並んでいました。まるで惑星直列ですよ! 古代寺院のこのような並び方は、日本広しと言えどここだけでしょう。
そもそも柏原市は、全国的にも有数の古代寺院の密集地帯とされている所。
この特異な密度と分布状況から、河内六寺は大阪湾からの敵の侵入に備えた軍事拠点の役割もあったのではないかとの説もあるようです(後背地の高安山には天智天皇が造らせたという古代山城である高安城がありますね)。
続日本紀の「七寺」?
「河内六寺」はすべて廃絶してしまって、後身寺院も智識寺を除いてありません。
にもかかわらずなぜ「河内六寺」などという名称で知られているかというと、『続日本紀』に孝謙天皇が行幸したとの記録が残っているからです。
ではその記録を読んでみましょう。国立国会図書館デジタルコレクションの「国史大系 第2巻 続日本紀」より、天平勝宝8年(756年)2月の記事です。
続日本紀巻十九
戊申※1、難波に行幸す。是の日、河内の國に至り、智識寺の南の行宮※2に御(おわしま)す。己酉※3、天皇、智識、山下、大里、三宅、家原、鳥坂等の七寺に幸(みゆき)し、禮佛あり。庚戌※4、六寺に於いて内舎人※5を遣わし、誦経せしむ。襯施(しんせ)※6をすること差有り。
【注】※1 24日 ※2 智識寺と家原寺の間にあったとされるが遺構は未確認 ※3 25日 ※4 26日 ※5 天皇に近侍する役人 ※6 信者の三宝への布施
んんー? いきなり躓きましたね。25日の記事では六寺じゃなくて七寺じゃないですか!
『続日本紀』では上記のとおり「....等の七寺」とある。これを素直に読めば、例示で挙げた6つの寺院のほかに、もう一つ寺があったことになるのでは?
その点、よく目にするこの「河内六寺」に関する引用では、「七寺」は誤りとして、注釈なしで「六寺」にサイレント修正されていることが多いようです(そうすると「等」ってなんだ? という新たな疑問が生じますが、その辺は華麗にスルー)。
調べてみたら、この問題についてはすでに説得力のある考察がされていました。
柏原市の企画・発行した小冊子『河内の古代寺院物語』によると、「河内六寺」の一つ、智識寺に関する各種文献から鑑みるに、当時智識寺の寺域の一角には、聖徳太子建立と伝わる前身寺院的な堂字がまだ残っていたのではないか。そのため、実態上は1寺院だがカウント上は2寺院にされたのではないか、としています(26日の内舎人の派遣の文は六寺になっていますが、こちらは智識寺のみをカウント)。
智識寺跡。訪れたのは2月でロウバイがきれいに咲いていました
例えるなら、もともとあった住宅の一部だけを「離れ」として残して取り壊し、跡地に別棟で新たに「母屋」を建てた場合、実質は1軒だけど、表札が違うから2軒で数える、みたいなものでしょう。つまり、『続日本紀』の記述は智識寺の前身寺院も含めて計七寺で間違いなく、寺名を出すまでもない前身寺院は「等」で括られたということです。
この説を裏付ける前身寺院の遺構・遺物は、今のところ見つかっていないため確定はできないようですが、文章解釈においては、原文が間違っているのではなく、そういう事情を反映したものだったとするならば、なるほど、さもありなんといった気がします。
さて、前置きがすっかり長くなりましたが、これから「河内六寺」巡りに出かけましょう。
ではレッツラゴー!
起点は近鉄河内国分駅
早朝にやってきました近鉄大阪線の河内国分駅(かわちこくぶえき)。
大阪上本町からですと所要時間は急行でわずか20分ほど。
駅周辺のなだらかな丘陵地には柏原市特産のぶどう畑が広がりますが、宅地化も相当程度進んでいる様子。
河内国分駅。普段は特急退避で停車する駅の印象しかない。笑
今回はこの河内国分駅を起点にして古代寺院跡を巡る計画です。
ありがたいことに、ここ柏原市では格安料金で自転車を貸してくれるサービスを行っているので、これを利用しない手はない!
レンタサイクルの営業開始までは少し時間があるので、はじめに駅近くの片山廃寺を徒歩で訪ねることにしましょう。
片山廃寺塔跡(かたやまはいじとうあと)
大阪府柏原市片山町
訪問オススメ度 ★★
片山廃寺は「河内六寺」には含まれておりませんが、六寺の一つ、鳥坂寺(とさかでら)と大和川を挟んで対峙する形で立地しているのが興味深いところ。
河内国分駅から大和川に沿うように西に向かい、急坂を登っていくこと20分。丘の上の住宅街の中に大木が見えたらそれが片山廃寺跡です。
片山廃寺遠景。住宅地内の大木が目印
廃寺跡は、片山薬師堂と片山神社の境内地を中心にした住宅地一帯。
片山薬師堂。案内板と塔跡の礎石
片山薬師堂の北側にある片山神社
片山廃寺は出土瓦の様式などから7世紀末から8世紀初頭の創建と考えられています。
昭和57年の発掘調査により、塔跡の遺構が確認されており、その状況は現地の案内板でも知ることができます。
現地の案内板
中央が片山廃寺出土の軒丸瓦。さすが畿内の瓦の文様は整っているね(柏原市立歴史資料館)
塔以外の堂宇の位置などは不明で伽藍配置もわかっていませんが、境内地を丹念に見て回ると、ところどころに布目瓦らしき破片が見受けられ、確かに古代寺院が存在したことがうかがえます。
このような破片が落ちていました
全国で類例をみないフタ付き塔心礎!?
片山廃寺の現地でのメイン遺物は大きな塔心礎。
塔跡の礎石は片山薬師堂の手前に集められているようであり、その中で一番目立つものが塔心礎です。
塔跡の礎石を移動して配列したらしい
私が訪れたときは、なぜか心礎の円孔を覆うような鉄製のフタがされていましたが、はて、これは何のためでしょう?
片山廃寺塔心礎 附(つけたり)鉄製覆蓋
雨水がたまらないようにするため?(隙間から覗くと雨水はたまっていたようですが....)
円孔の保護のため?(フタをしないといけないようなものなのか?)
単に余所でごみとなったフタを捨てただけ?(....??)
蓋の間から隙見ング。いったい何のための蓋なのか?
ますます謎は深まった....笑
防衛施設としての塔
ところで、片山廃寺の塔は、奈良盆地への敵侵入阻止のための防衛施設の一端も担っていたのではないか。というか、はじめから敵だけでなく、大和川を遡上してくる船団の監視塔として造営されたのではないか、と思いますがどうでしょう。
状況証拠的なものになりますが、そう考えたのは塔の立地場所。
ここは南北方向の尾根筋の北端部にあたっていますが、大和川との関係を考えると絶妙な位置であることがうかがい知れるのです。
大和川上流側より。両岸の森が片山廃寺(左側)と鳥坂寺(右側)
大和川は江戸末期に流路の付け替えが行われる前は、JR柏原駅以北も大和路線に沿うように流れていたので(下図の薄い水色部分)、片山廃寺塔跡(下図の赤丸印)から北方向に、大和川の流れがちょうど直線的に俯瞰できる位置に塔が立地していたことになる。
国土地理院「地理院地図3D」(高さ方向の倍率を5.0に設定)を加工
また、地盤面の標高は約36mと後背地よりは低いものの、ちょうど尾根筋の端部にあたるので見通しは良い。ビューポイントの標高は塔自体の高さでもっと稼げる。
塔を高い場所に造営すれば、さらなる遠方の監視が可能とはなるが、上り下りの距離が伸びるので造営工事での資材搬入や、完成後の平地部との連絡にはやや面倒が生じる。
ということで、監視塔として考えるなら片山廃寺塔跡の立地場所はまさにドンピシャの好適地。もうここしかないという場所ではないでしょうか。
さらに妄想を膨らませるなら、片山廃寺は愛知県豊田市の舞木廃寺塔跡などと同じく「塔だけ廃寺」だったのではないか。
防衛施設としては監視塔の機能が必要だが、恒久的な高層構造物とするために仏塔を兼ねて(?)造営、金堂や講堂は不要(もともとこの地は寺院の過剰供給地帯)、そのほかは掘立式の詰所や倉庫などがあれば事足りる。
1983年に発行された『片山廃寺塔跡発掘調査概報』によると、四天王寺式説や薬師寺式説などを取り上げているものの、塔跡の主軸が東に振れていることや、他の堂宇が想定される位置の礎石や瓦の出土がないことを疑問点として取り上げています。
片山廃寺周辺は、伽藍構成が不可能な狭隘地ではないし、また塔跡の一部だけが発掘されたに過ぎないので、「塔だけ廃寺」と断じるのは早計ではありますが、あながちあり得ない話でもないと思います。
大和川の堤防に描かれた船団
ところで、片山廃寺の塔は逆に遠方からも眺められたでしょうから、大阪湾から奈良盆地へ物資を輸送する船などからは、対岸の鳥坂寺の塔と合わせてこの地のランドマークのように見えていたことでしょう。大和川の両岸にそびえる両塔を見て「もうじき亀ノ瀬の難所だ。気を引き締めていこう。そこを通過したら目的地だ」などと思ったに違いありません。(あ、難所の前に小舟に乗換していたかもしれません....そこは見逃してください)
(その2)に続きます