飛鳥・藤原京廃寺巡り48時間耐久レース(その10)~【19】田中廃寺【20】石川廃寺【21】奥山 | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

飛鳥・藤原京廃寺巡り48時間耐久レース」2日目。元薬師寺の後は、懸案の名字3廃寺のうち、昨日の和田君以外の田中、石川両名の捜索活動になります。

 


【19】田中廃寺訪問オススメ度
 

まずは田中さんこと田中廃寺(たなかはいじ)。

近年、垂仁天皇陵の西側にある平松廃寺(ひらまつはいじ)から、ここのものと同じ型の瓦が出土して話題になったようだ。


事前リサーチによると、かつては現在の法満寺の周辺がその寺域とされていたようだが、近年はその場所よりも西側にある「弁天の森」なるところが中心寺域と推定されているらしい。


ということで、法満寺には目もくれず森らしき所を探す。

が、例によってよくわからず。森ってどこだ?

近くに「天王藪」という由緒ありげな場所もあるのだが、こちらではないことはリサーチ済み。

 

ウロウロするうちに、里道のような細い道でしかアプローチできない児童公園のような小高い場所が(かつての)森だと判明。

 


樹木が伐採されてもはや林ですらなくなっている


自転車を降りて、あぜ道をたどって「弁天の森」に近づく。

この高まりは基壇の遺構のようでもあるが、発掘調査は周辺のみで行われ、伽藍配置などは依然不明なんだとか。

 

カラフルなすべり台とお社の組み合わせがシュール

 

何やらいわくありげな石も祭られていました。


さすがに心礎ではないな...

 

この高まりの斜面部分に布目瓦の破片のようなものが落ちていたので、田中廃寺はこの場所でとりあえず特定。
近辺には見当たらなかったが、案内板は法満寺にあることを後になって知りました。

塔心礎(かもしれない石)が境内にも置いてあるとか(なんだよ―)。法満寺にも立ち寄っておけばよかった...


次は石川さんの捜索です。

 


【20】石川廃寺訪問オススメ度


石川廃寺(いしかわはいじ)は「浦坊廃寺」「ウラン坊廃寺」「石川精舎」「厩坂寺」などの変名が多く、正体不明。

「厩坂寺」は昨日最後に訪れた場所で、すぐ西側にあるのですが、これも候補地の一つにすぎず、石川廃寺を厩坂寺にあてる説もあるようです。

 

要するに「よくわからん」ということなんですな。


向こうの住宅地あたりが想定寺域のはずだが....

 

捜索隊(1名)はあちらこちらをウロウロしますが、案内板などの手がかりもなく、途方に暮れる。
これは残念ながら捜索打ち切りだな…..と思い、橿原市立畝傍中学校の西側の坂道の手前で小休止。

 

この辺りが寺域の西端の想定らしい。坂の右手に畝傍中学校がある


まあ、こういうこともあるさと、脇の畑に目をやると、端に放られたとおばしき布目瓦の破片らしきものを発見!

 

こっ!これは!?


どこにあるのかもわからない正体不明の廃寺が、たった一つの瓦片で俄然存在感が感じられるようになるのが、廃寺探索の面白いところだ。

廃寺があると推定される「現在の石川池(剣池)のほとりから畝傍中学校のある丘陵の西を中心とする地域」という記述(橿原市のホームページ)とも合致しますので、このあたりで特定。これにて名字系3廃寺はコンプできました。
 

やれやれだわ

次は東に向かって昨日行き忘れたもう一つの豊浦寺跡を回収。その後奥山久米寺跡を目指します。

 

 

【21】奥山久米寺跡訪問オススメ度★★


奥山久米寺跡(おくやまくめでらあと)は昨日訪れた久米仙人の久米寺とは別の寺院跡で、奥山廃寺(おくやまはいじ)とも言います。

「久米寺」というのは、久米寺の奥の院だったからとか、聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)の創建によるからだとか、伝承があるようですが例によって詳細は不明。

 

寺跡は奥山の集落内にありますが、細い道が入り組んでいて入り口がわかりにくい。東側からアプローチするのが正解のようです。

 

現在のお寺周辺がその寺域と想定されており、発掘調査により四天王寺式伽藍だったことが判明しています。

「お寺」と書きましたが、現在の寺院名はどの地図を見ても判で押したように「奥山久米寺跡」としか表示されず、現地でも確認しなかったので不明です。

 

藤原京模型での復元。主要堂塔が一直線に並ぶのが四天王寺式

 

本堂の位置が金堂に相当し、その南手前に塔跡。

 

塔跡と本堂。塔跡の十三重石塔は鎌倉時代のもの


塔跡には10個の礎石がよく残っており、塔跡であることは一目瞭然。礎石に丸い穴が開いているのは、扉の回転軸をはめ込むためのものでしょうかね。十三重石塔の根本の石は、元あった塔の相輪の露盤を転用したものだとか。

 

ちなみに右裏の建物は公衆トイレ。ありがたく使用させていただきました

 

境内には塔以外の礎石らしき石も散在。

 

本堂の西側から塔跡を見る

 

ところで、奥山久米寺も「謎の寺」扱いされている古代寺院の一つ。古文献に登場する「小治田寺」に比定する説もあるとか。

というのは発掘調査で「少治田寺」と判読できる墨書土器が出土したからで、そうなると奥山久米寺は「尼寺」だったということになるらしい。ふーん。

 

失礼ながら「尼寺」は現代においてはマイナーな感じがするけれども、かの聖武天皇が全国に造営させた国分寺が「僧寺」と「尼寺」がペアだったことを考えると、当時は思っている以上に多くの尼寺があったことになるようですね。

 

 

(その11に続きます)