高梁市(たかはしし)は、岡山県の中西部に位置する市で、
広島県と境を接しています。
中心部は備中松山藩の城下町であり、備中松山城は日本で唯一
天守が現存する山城として知られています。
市の北側に位置する成羽町吹屋地区は、かつて銅山とベンガラの
巨大産地として繁栄を極め、現在もベンガラ漆喰壁や格子と赤銅色の
石州瓦の家々が並ぶ赤い街並みなどがみられます。
2020年に「ジャパンレッド」発祥の地~弁柄と銅の町・備中吹屋
として日本遺産に認定されました。
今回は、高梁市の木造校舎巡りですが、約10年振りの再訪となります。
取り上げた校舎は、重要文化財として大切に保存管理されているものも
あれば、手入れされることも無く朽ち果てるまま廃墟の運命を辿るものも
ありました。
過去の記事はこちらをご覧ください。
岡山県高梁市、広島県庄原市の廃校休校巡り(2011/12/30)
高梁市向町に明治期の薫りが漂う洋風校舎があります。
夏季は隣接する公園の樹木が茂り、全景はこのようになります。
後者正面の近景
趣向を凝らした玄関ポーチです。
2階の屋根の小さな換気塔は、猫の耳のように可愛らしいですね。。
備中松山藩に生まれ学問を積み、傾いた藩財政を立て直したことから、
備中聖人と呼ばれた山田方谷(ほうこく)の幟が立っています。
彼の銅像も建立されています。
隣の石碑は彼の言葉「義を明らかにして利を図らず」
が刻まれています。
目先の利益にとらわれず、大局的な見地から物事をとらえ、
善政を行えば、後から財政は豊かになるという意味です。
校舎の隣に、山田方谷記念館が開設されています。
前回訪れた際はありませんでしたが、2019年(平成31年)2月24日に、
旧高梁中央図書館を改修し、方谷を顕彰する施設として整備した
そうです。
赤銅の二宮尊徳像
洋風校舎は、高梁市郷土資料館として利用されています。
館内に入ってみます。
入館料は大人400円です。
1940年(昭和15年)4月の高梁尋常高等小学校です。
当時は他に校舎がありましたが、解体されて残っているのは
本館のみです。
校庭の桜から春の澄んだ空気が伝わって来ますね。。
1階の展示室には、江戸末期から昭和にかけて使用されていた
日用品などが並んでいます。
扇風機、ソロバン、天秤、レジスター等が見えました。
狭い廊下に、年代別に時を刻んだ振り子時計、反対側にオルガン。
ワラの蓑やほうきを掛けた戸口から、囲炉裏や土瓶等が見えました。
備中高梁の駅名標
SLや国鉄時代のモノクロ写真も一緒です。
年季の入った階段と親柱
手押しの消防車
高梁川を往来していた高瀬舟
1889年(明治22年)高梁町制施行時の主な交通機関は
高瀬船でした。
川岸には常に20~30隻が行き交い、木材、木炭、米、麦、
大豆、煙草等を瀬戸内海の各港や四国の高松、坂出、多度津まで
運搬し、帰路は海産物、砂糖、野菜、果実等を運んでいました。
その後、自動車の普及や鉄道(伯備線)の発達により、高瀬舟は
姿を消していきました。
なお、2階はかつて講堂として使用されており、天井を高くとり
格式ある二重折天井が施されています。
旧高梁北小学校(1970年閉校)
1871年(明治4年)高梁国民学校高梁校舎として創立、
1904年(明治37年)2階建て洋風校舎を新築。
1970年(昭和45年)高梁南小学校とともに高梁小学校への
統合に伴い閉校。
校舎は、高梁北小学校舎が引き継がれました。
地元の良質なモミの木材を使用し丁寧に施工された校舎は、
大きな狂いもなく現在に至っています。
1973年(昭和48年)に高梁市重要文化財に指定されています。
現在は、郷土資料館として、江戸末期から昭和にかけての
生活用具や農耕具など約3,000点が展示されています。
高梁市街から国道313号を成羽川に沿って西へ進み、途中から
県道436号を登り小泉集落に着きました。
整備された校庭の奥に平屋校舎、手前に体育館(講堂)です。
逆光の為、暗く映っています。。
体育館(講堂)
校舎から体育館へ向かう階段には屋根が増築されています。
体育館(講堂)の全景
赤い瓦屋根にモルタルの外壁のこじんまりとした造りです。
昭和の雰囲気が伝わって来ます。
校舎の全景1
校舎の全景2
土手に白塗りのブロックで描いた校章が印象的です。
サッシ窓に替わっていますが、黒い板壁は残っています。
途中から白いモルタル壁となっています。
玄関の近景
表札は「小泉 憩いの家」
閉校後は地区の集会所として使用されているようです。
校庭の様子
ご老人らが集まってグランドゴルフでも興じておられるのでしょう。
校庭はきれいに手入れされていました。
校庭の隅で飛び跳ねるウサギやじっと構える大魚のオブジェ
満開の百日紅
地味な校舎と対照的に、鮮やかなピンクに魅了されました。。
高い台座に立つ小さな二宮尊徳像
創立百周年記念碑
1973年(昭和48年)12月建立ということは、
1873年(明治6年)創立でしょうか。
小泉小学校(1978年閉校)
閉校から40年以上経過していますが、綺麗に保たれています。
集落に子供らの気配はありませんが、地元の方々の学校への
愛着の深さが感じられます。
サイトにも掲載が少ない小学校ですが、1955年(昭和30年)度の
全校児童は103名いたようです。
布寄小学校へ向かう途中に、夫婦岩という隠れた景勝地があると
聞き、折角なので立ち寄ってみることにしました。
ひまわり畑も夫婦岩とセットで観光資源となっているようです。
開花時期に合わせて「ひまわり祭り」というイベントも開催され、
土曜日にはビアガーデンや打ち上げ花火が行われるようです。
ソフィア・ローレン主演「ひまわり」を連想するのは、
小生だけでしょうか。。
あれは、ウクライナの村のひまわり畑でした。。
さて、夫婦岩へ向かっていると、テレビで放映されたとの
看板が柵に括り付けてあります。
こんな山奥にまでテレビ局の人達はやってくるんだと思い
ながら展望台へと歩を進めます。
何やら巨大な岩が聳え立っていますが、これが夫婦岩なのか。。
巨岩は一つしか見えないが。。
標高400mの石灰岩の台地から眺望は壮観です。
深い谷間に流れる成羽川、真紅の橋、両側の田園や点在する民家、
すべてが箱庭のような美しい光景です。
巨大な岩の塊は、高さ12m、夫岩と呼ばれ頭に松の髷があります。
夫岩の陰に隠れて見えなかった妻岩が姿を現しました。
妻岩は高さ16m、愛児を抱いているような姿をしています。
夫婦岩は交通不便な山奥にあるため、広く世間に知られて
いませんでしたが、伊勢の二見が浦の夫婦岩の約2倍の大きさが
あります。
布寄(ふより)小学校は、高梁市成羽町長地(おさじ)933に
位置する山間の小学校です。
2013年2月以来の訪問ですが、校舎へ登る石段の両脇に雑草が
蔓延っていて歩く気になりません。
奥にも樹木が生い茂り、こちらからは人々の往来も無さそうです。
校庭側に周ってみると、校舎と体育館がL字型に建っています。
パステルピンクを基調とした下見板張りの2階建て木造校舎です。
ボードだけのバスケットゴール
廊下の様子
許可を頂いて構内を見学させていただきました。
階段の様子
気象観察記録版
毎日計測していたのでしょうか。。
教室は机や椅子は取り払い改装されていました。
お城の絵は1982年(昭和57年)度の卒業記念作品です。
お堀に白鳥が2羽浮かんでいますが、松本城でしょうか。。
修学旅行で行ったのでしょうね。。
こちらは瀬戸大橋かな。。
1988年(昭和63年)度の卒業記念作品です。
平和をテーマに描いたのは、2006年(平成18年)度卒業生
4人の作品です。
運動会の絵は制作年度不明です。
布寄っ子のめあて
その昔使われてていた生活道具を展示した教室に貼って
ありました。
校庭の様子
樹木に囲まれた遊具たち
空っぽの鳥かご
先ほど見た石段を登った先が正面玄関なのですが、
敷地が狭く草木に覆われており、校舎裏のような佇まいでした。
校章
草むらに小学校跡の立札
閉校記念制作とありますが、製作品が見当たりませんでした。。
小学校所在地を示す標柱
正面玄関と小学校跡碑
1874年(明治7年)6月25日 創立
2012年(平成24年)3月31日 廃校
138年の歴史に幕を下ろしました。
正面玄関へ続く階段(上段から撮影)
遠方に集落の家屋が見えますが、子供らがこの階段を
登って来ることはありません。。
布寄(ふより)小学校(2012年廃校)
1939年(昭和14年)築のモダンな木造校舎です。
沿革をみると、
1874年(明治7年)6月 研精校として創立。
1907年(明治40年)5月 布寄尋常小学校に改称。
1947年(昭和22年)4月 布寄小学校に改称。
1987年(昭和62年)全校児童20名
2004年(平成16年)全校児童13名
2012年(平成24年)廃校 最後の児童は7名でした。
現在は福祉施設として利用されていますが、
近い将来解体されるかもしれないとのことです。
吹屋の町並み
県道85号を北上すると、赤を基調とした独特の雰囲気が漂う
町並みが出現します。
吹屋地区は、茶褐色の石州瓦とベンガラ漆喰壁の赤い町並みで
知られ、歴史的町並みの残る範囲が重要伝統的建造物群保存地区
として選定されています。
江戸時代中期から銅山町として発展し、幕末から明治にかけて
銅山から産出される「べんがら」は日本唯一の巨大産地と
なりました。
「べんがら」は、陶磁器の絵付けや寺社仏閣用の塗料として
用いられ、最盛期には1200人ほどが工場で従事していたそうです。
吹屋の町並みから少し外れた敷地に、旧吹屋小学校があります。
2012年(平成24年)3月まで国内最古の現役の木造校舎として
使用されていました。
2015年(平成27年)から保存改修工事が始まり、工事期間中は
校舎の全貌は見えませんでしたが、2022年(令和4年)4月21日に
公開されました。
現役当時の変わらない優雅な姿です。
ちなみに、上の写真は閉校となる3か月前、2011年12月30日に
撮影した現役の頃の校舎です。
忠実に復元されていることが分かりますね。。
左側の高台に建つ木造建築は、「ラフォーレ吹屋」という
レストラン、宿泊施設です。
吹屋中学校跡地に新築したものです。
小学校舎は、斜めから見ると重厚な造りが良くわかります。
校舎正面
斜め反対から撮影
正面玄関の近景
往時の面影はそのまま残していますが、一度建物を全解体し、
地盤補強と建物の構造補強を実施しているそうです。
上の写真を見て分かるように、外壁の左半分は往時の板を
そのまま使用していますが、右半分は新しい板を張って補修
していますね。。
表札は往時のままのようです。
構内に入ってみます。
広い廊下です。
階段の親柱は往時のものですね。。
かつての授業風景を再現した教室には、子供らはいません。
小学校のイベント情報を書いた黒板
吹屋では日曜に無料のボンネットバスを運行しているようです。
レトロな街並み、レトロなボンネットバスが良く似合います。
赤い色調もベンガラの町並みにピッタリですね。。
(岡山県観光WEBより引用)
児童らの絵画作品
刺繍で描いた校舎
1977年(昭和52年)度の卒業記念作品です。
数々の入選作品
こちらは版画作品です。
「日本一の校舎」の題名には、学校への愛着と誇りが感じられます。
創立百周年の記念写真
隣の写真は、往時の校舎とプールです。
小学校跡碑
往時と変わらない校名碑
吹屋小学校(2012年閉校)
沿革をみると、
1873年(明治6年)民家を借用して開校
1988年(明治31年)吉岡銅山本部跡地を譲り受け
1900年(明治33年)切妻平屋建の東西校舎と廊下が完成
1909年(明治42年)寄棟二階建の中央本館が完成
1987年(昭和62年)全校児童15名
2012年(平成24年)児童数減少により閉校
当時の吹屋は、吉岡銅山と弁柄の生産で繁栄しており、
1918年(大正7年)には最大369名の児童が在籍していましたが、
鉱山の衰退による人口の流出に伴い、最後は5名まで減って
しまいました。
閉校時は、日本最古の現役木造校舎として多くのメディアに
報道され有名になりましたが、改修後も威厳と風格のある
外観は変わっていません。
明治時代後期を代表する擬洋風の学校建築として評価され、
岡山県の重要文化財(建造物)に指定されています。
お昼は、吹屋ふるさと村の休憩所にある「吹屋食堂」に
行きました。
駐車場があって入りやすい雰囲気があったからです。
東京から移住してきた店主が2年前にリニューアルして営業を
引き継いでいるそうです。
猛暑の中、涼しい店内で冷たいザルそばが身体に沁み込んで
いきます。
ザルそばをテーブルに運んできたおばさんと話が弾み、
小生が廃校巡りをしており、次は坂本小学校へ行くのだと
言うと、おばさんは卒業生だそうです。
(卒業年度は歳がばれると教えてくれませんでしたが。。)
往時の思い出を懐かしそうに話しておられました。。
県道33号を南下、坂本警察駐在所から山道を登ると坂本小学校跡です。
約10年振りの再訪です。
校庭は雑草が伸び放題、荒廃していました。
手前の平屋校舎と奥の保育園は残っていますが、
廃墟と呼ぶにふさわしい悲しい姿となっています。
背丈の高い雑草が群生し足を踏み入れることが容易ではありません。
聞けば、心霊スポットとしてネットで掲載され、夜中に
侵入し校舎を荒らす輩もいるそうです。
荒れた校舎
維持管理もせずに、10年も経てばこのようになってしまうのかと
落胆しました。
上の写真は、2011年12月30日に撮影した校舎です。
奥にある保育園は大きな瓦屋根しか見えません。。
こちらも10年ほど前に撮った保育園です。
この頃はまだ大切に維持されておられたようです。
児童らの制作した「希望」という題名の少年少女像
1962年(昭和37年)10月に建立されたものですが、
ツタに絡まれ見る影も無くなっていました。
吹屋食堂のおばさんによると、このモニュメントは在籍時に
同級生達と一緒に作ったそうです。
坂本小学校(1994年閉校)
沿革をみると、
1873年(明治6年)希賢小学校として開校
1890年(明治23年)尋常吹屋小学校第二支校と改称
1901年(明治34年)坂本尋常小学校と改称
1919年(大正8年)当地に移転、現校舎が完成
1926年(大正15年)吹屋屋尋常高等小学校坂本校と改称
1947年(昭和22年)坂本小学校と改称
1987年(昭和62年)全校児童16名
1994年(平成6年)成羽小学校への統合に伴い閉校
最後の児童は6名
荒れ果てた姿をみて残念ですが、重要文化財として大切に
維持管理されている校舎もあれば、このように自然に
朽ち果てるままの校舎もあって、いつものことですが
複雑な思いがします。。