広島県神石高原町、庄原市の廃校休校巡り(2022/08/09) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

神石高原町(じんせきこうげんちょう)は、広島県中東部に位置し、

岡山県に接する町です。

2004年11月  神石郡内の4町村(油木町、神石町、豊松村、三和町)が

対等合併し、神石高原町となりました。この結果、広島県から村が

消滅しました。

町域は概ね標高400~700mの高原地形に位置しており、一部は

石灰岩質のカルスト台地を形成しています。
この付近を流れる河川は渓谷を刻み、景勝ではあるが古来から

交通の障害になっていましたが、やがて周辺の高原地帯は

神石高原と呼ばれるようになりました。

 

庄原市(しょうばらし)は、広島県の北東部に位置する市です。
2021年10月現在において、全国の市町村では13番目の面積を

有しており近畿以西では最も広い市です。

2005年(平成17年)3月31日:庄原市(旧制)、比婆郡西城町、

東城町、口和町、高野町、比和町、甲奴郡総領町の1市6町が

新設合併し、新制の庄原市となりました。

海から遠いこの地域は古くから、保存の利くワニ(シュモクザメ)

を刺身にして食する習慣が残っており、祭事や正月・盆など、めでたい行事や

親族が集まる際に食べられています。

同市出身の有名人には歌手のJUJUがいます。

 

今回は、神石高原町、庄原市で各2校の短編です。

およそ10年振りの再訪した校舎も、初めて訪問する校舎もあります。

 

国道182号を北上、神石高原町の最北部の小野集落にあった

小学校です。

沿道に標識がありますが、橋を渡り山道をくねくね登った

頂上付近に集落と校舎があります。

 

校舎の全景

以前と変わらず、東西に長い平屋校舎です。

 

1929年(昭和4年)築の歴史ある校舎です。

戦前に建てられた県内でも数少ない校舎の一つです。

 

サッシ窓に替わっていますが、下見板張りにラッパスピーカーから

昭和期の郷愁が漂います。

 

正面玄関の近景

間口が広くゆったりとしていますが、下駄箱の他に流し台や

朝礼台が置いてありました。

 

廊下の様子1

 

廊下の様子2

一直線に遠くまで続いています。

雑巾がけも大変だったでしょうね。。

 

教室の様子

 

児童会掲示板

1964年(昭和39年)度の卒業生が寄贈したものです。

登録有形文化財の銘板も掲示してあります。

 

所狭しと並んだ栄光の数々

賞状やトロフィーをよく見ると、地区のゲートボール大会での

成績を表彰するものでした。。

 

1977年(昭和52年)度の保育園児の作品

保育園も併設されていたようです。

 

1963年(昭和38年)度の卒業記念作品です。

運動会の思い出の一コマが表情もリアルに描かれています。

 

こちらも、1963年(昭和38年)度の卒業記念作品です。

2グループに分けて制作したのでしょう。

校舎の右半分が豊かな色彩で描かれています。

 

制作年は不明ですが、万華鏡のような綺麗な作品です。

 

地区の祭りやイベントを貼った掲示板

 

校庭に出てみると、フェンスの傍に往時の校門が残っていました。

 

遊ばれなくなった遊具たち

 

放置された整地ローラー

右の支柱は掲揚台の一部でしょうか。。

 

小学校跡碑

沿革が刻まれているのですが、劣化して判読できません。

 

小野小学校(1984年休校、2001年廃校)

沿革を調べてみると、

1873年(明治6年)三秀寺にて開校

1874年(明治7年)吉備津神社にて継続

1929年(昭和4年)校舎落成

1987年(昭和62年)全校児童

2001年(平成13年)廃校

2003年(平成15年)国の登録有形文化財に指定

校舎も校庭も10年経過しても荒廃した様子はありません。

きっと地元の方々によって大切に維持管理されているのでしょう。

細長い校舎に広い校庭、子供らの影はありませんでした。

 

旧油木町新免地区にあった新坂小学校は初めての訪問です。

国道182号から枯草の堆積した坂道を登ると、正門が

見えました。

往時の銘板も残っています。

 

訪ねてみると、思った以上に見応えのある木造校舎です。

 

中央に大きく張り出した玄関棟

校舎の顔というべき迫力がありますね。。

 

下見板張りの外壁

 

教室から屋根に伸びるストーブの煙突

冬の厳しさが伝わって来ます。。

 

正面玄関の近景

 

桜のマークの校章

 

玄関の壁にメッセージ。

小学校の標語にしては抽象的で意味不明ですね。

上段に描いてあるのはラテン語でしょうか。。

 

こちらの標語は、小学生らしく分かり易いですね。

 

1988年(昭和63年)から台湾の小学校と愛鳥活動で交流が

あったようです。

 

レトロな丸ポスト

教材用かな。。

 

校舎の奥にプールと体育館。

 

古タイヤを埋め込んだ遊具

 

動物のモニュメント

カバかポニーか不明ですが、卒業記念制作でしょうね。。

 

玄関の左側に石碑が3基ほど建っています。

 

一番左の石碑(オブジェ)は、1983年(昭和58年)の

卒業記念制作です。

かなり劣化していますが、台座の上の物体には、

卒業児童の顔がお面のように貼り付いています。

 

隣の2基の石碑は、新坂小学校跡碑と創立百周年記念碑です。

1872年(明治5年)6月10日 創立

1992年(平成4年)3月31日 廃校
120年の歴史に幕を下ろしました。

 

玄関の左側にも同じような形状の石碑が建っています。

新坂中学校跡碑です。

 

新坂中学校は、

1947年(昭和22年)4月1日 創立

1973年(昭和48年)3月31日 廃校

創立後30年にも満たないうちに、油木中学校への統合に伴い

廃校となった短い人生でした。

 

新坂小学校(1992年廃校)

校名の由来となる新坂村は、1955年4月1日に油木町(現:神石高原町)と

東城町(現:庄原市)に分裂しました。

正式な校名は、油木町・東城町学校組合立新坂小学校となっています。

組合立小学校とは、複数の市町村が共同で設立した小学校のことです。

廃校後、児童は油木小学校と東城町立東城小学校へ委託されました。

ともに学び遊んだ児童らは、どんな思いで別れを告げたのでしょう。。

 

中国自動車道、東城IC下車後、県道25号を南下し久代地区に入ります。

脇道を進むと、化学工場の設備が道路を跨ぐように伸びているので、

工場敷地内に入っているかのような錯覚に陥りますが、

そのまま通り抜けます。

坂道を登っていくと、土手の下に校舎が見えます。

振りむき様に俯瞰した校舎は秀逸です。

 

坂道を少し戻り、校舎へ近付いて行きます。

 

校舎の入口は坂道の途中にあります。

校門は見当たらず、校名を書いた立札が転がっていたので

建て直して撮りました。。

 

校舎の端部と校庭が覗いて見えます。

 

校舎の全景1

2階建て木造校舎は、10年前と変わらぬ立派な姿です。

中央に庇の付いたサッシ扉がありますが、正面玄関と呼ぶには

貧弱なものです。

 

校舎の全景2

 

校舎の端部は、2階がガラス張りの出窓のようになっており、

その下に玄関があります。

こちらが主玄関として利用されていたようです。

 

こちらは体育館です。

 

玄関の木板の表札は、文字が薄れて判読できませんが、過去に

撮った写真をみると、左から「久代尋常高等小学校」「久代本のひろば」

とあります。

現在も地区の生涯学習施設として使用されているのでしょうか。。

 

校舎の外壁

サッシ窓になっていますが、下見板張りの味わい深い外壁です。

 

学校の標語

 

飼育していたのは小鳥でしょうか。。

 

草むらに横たわる整地ローラー

 

朝礼台

 

ステンレス製の手洗い場

 

卒業記念作品でしょうか。。

赤レンガに思い思いの絵が描いてあります。

 

キリンのモニュメント

 

校庭の様子

奥に見える小さなモニュメントは。。。

 

一人ぼっちの象

10年前と変わらず淋しそうに佇んでいました。。

 

久代(くしろ)小学校(2004年休校、2016年廃校)

石灰石を採掘する久代鉱山があり、かつてはそれなりに

子供らが通っていたのでしょうが、人影もなく閑散としていました。

2004年(平成16年)4月に東城小学校に統合となり、休校扱いでしたが、

2016年(平成28年)に正式に廃校となりました。

1987年(昭和62年)の全校児童は28名でした。

 

東城町市街から県道23号を西へ進むと、沿道に戸宇小学校跡が

見えてきます。

校門の表札も残っています。

 

石垣の上に立つ2階建て木造校舎です。

 

校舎の全景

1952年(昭和27年)に完成した木造校舎です。

壁面がクリーム色のモルタルと茶褐色の板張りと左右異なった

仕上げになっているのが特徴です。

 

よくみると、窓の大きさも左右異なっていますが、

特に違和感はありません。

 

玄関の近景

庇を付けただけの簡素な造りです。

 

校庭の様子

 

体育館

 

屋根が崩壊した百葉箱

 

意味不明なモニュメント

卒業記念制作でしょう。。

 

戸宇小学校休校、戸宇保育園閉園記念碑

保育園も併設されていたのですね。

校舎の正面に建つ巨大な石碑ですが、揮毫された「心のふる里」には

胸に込み上げてくる望郷の念が伝わって来ます。

 

戸宇小学校(2004年休校、2015年廃校)

沿革をみると、

1873年(明治6年)進英舎として現在の戸宇神社前に開設
1878年(明治11年)公立戸宇小学校と改称
1892年(明治25年)校地を現在地に移転、平屋建て(職員室1室、教室1室)
1947年(昭和22年)学制改革により戸宇小学校と改称
1952年(昭和27年)新校舎落成(2階建て4教室)
1977年(昭和52年)屋内運動場落成
1984年(昭和59年)戸宇保育園竣工

1987年(昭和62年)全校児童35名
2004年(平成16年)東城小学校へ統合に伴い休校
2015年(平成27年)廃校
廃校となりましたが、卒業生たちはいつまでも「心のふる里」として

愛着と誇りを胸に生きていくことでしょう。。