岩手県奥州市の廃校休校巡り(2021/05/03) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

奥州市(おうしゅうし)は、東北地方の中部、岩手県の内陸南部に位置し、

県内第二の人口を擁する市です。

2006年(平成18年)に水沢市・江刺市、胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が

新設合併して誕生しました。

人口は約12万人で、県内では盛岡市についで第2位の人口、

総面積は、県内では宮古市、一関市についで第3位の面積を占めています。

 

一関市西部から奥州市南部へ抜ける県道49号を衣川方面に走っていると、

校舎が見えたので立ち寄りました。

閉校後は南股地区センターになっているようです。

 

年季の入った校門に往時の表札が残っています。

 

片方の校門は、南股公民館に変わっています。

 

校舎の全景

鉄筋2階建ての平板な校舎です。

 

右隣には青い屋根の体育館が見えました。

 

正面玄関

赤いトタンの庇、アルミサッシ扉の簡素な造りです。

 

ペタンと貼り付けたワッペンのような校章

 

軒下の花壇に咲くチューリップ

 

校舎裏の様子

 

校庭の様子

遠方にサッカーゴールと朝礼台が見えました。

 

庭の植栽も手入れされているようです。

 

小学校跡記念碑と校歌

一、

萌える緑の山や野に

小鳥は歌い蝶はまう

林のはての西空に

雪消えかけた須川岳

 

歌詞をみると、学校の周りの豊かな自然に囲まれ、明るく元気に

学ぶ子供らの姿が浮かんでくるようですね。。

 

南股小学校(2006年閉校)

南股地区ではりんどうの栽培が盛んで、地元では独自の品種改良に努めた結果、

全国でも珍しいピンクりんどうの栽培に成功したそうです。

また、古くから伝わる伝統神楽「鶏舞」で知られ、上級生らは稽古を重ねて

披露するなど地域の人々とともに思い出を刻んできた学校でした。

1987年(昭和62年)の全校児童は66名。

2004年(平成16年)は、5学級(3・4年複式)で49名。

2006年(平成18年)3月31日 市街地に近い衣川小学校への統合に伴い

閉校となりました。

 

県道49号を東へ進み、中河内から脇道を北上し下大森地区に差し掛かると

楽しそうな看板が設置してあります。

 

児童の作品かと思いましたが、地域の有志らが、ホタルの保護や

山野草を残すなどの取り組みを行っており、その活動の一環で

このような看板を設置し、自然や景観の維持に努めているようです。

 

ふるさと自然塾の案内看板をみて進みます。

 

校舎へ続くスロープに校門が立っています。

 

衣川(ころもがわ)村だった頃の表札が残っています。

衣川村は、岩手県の南に位置していた村です。
1889年(明治22年)4月1日の町村制以降一度も合併せず117年間
単独村制を継続していましたが、
2006年(平成18年)2月20日,水沢市、江刺市、胆沢郡前沢町、
胆沢町と合併して奥州市となり消滅しました。

 

アスファルトの導線の先に、赤い屋根のこじんまりとした校舎と体育館が

見えました。

 

左側の建物が体育館です。

小さいけど頑丈な造りです。

 

右側が校舎です。

1956年(昭和31年)に建てられたものですが、老朽化した感は

ありません。
 

正面玄関

 

手作り感のある木板の表札

 

右の柱の表札には「ふるさと自然塾」とあります。

かなり見づらいです。

 

左側は、「三好京三記念館」です。

三好 京三(みよし きょうぞう)は、岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)

出身の小説家です。

文筆活動する前の、1962年(昭和37年)に大森分校に教員として赴任し、

14年間勤めていたそうです。

 

校庭の様子

往時は無かった携帯電話の基地局が立っています。

 

雲梯と滑り台を合体させた遊具

 

こちらは展望台でしょうか。。

 

元々は花壇があったのでしょうが、群生した水仙が自由気ままに

咲いています。。

 

こちらは、整然と咲き並んだチューリップです。

 

三好京三の揮毫した文学碑

三好京三は、娘の成長過程を描いた1975年(昭和50年)出版の

「子育てごっこ」で文學界新人賞及び直木賞を受賞しましたが、

赴任当時の分校について印象深く刻んでいます。

 

閉校記念に建立したものです。

 

沿革碑

 

衣川小学校大森分校(1998年閉校)

沿革をみると、

1875年(明治8年)頃、私設教場として開校。

1910年(明治43年)水車小屋を移設し校舎として使用。

1947年(昭和22年)衣川小学校大森分校と改称。

1956年(昭和31年)赤い屋根の新校舎落成。
1970年(昭和45年)教育に神楽を取り入れる。

1978年(昭和53年)映画「子育てごっこ」のロケ撮影地となる。

1983年(昭和58年)和太鼓を始める。

1987年(昭和62年)在校児童は9名。

1998年(平成10年)学区民の総意により閉校。

現在は、「ふるさと自然塾」として用いられ、職員室と宿直室は

「三好京三記念室」として保存されています。

県道236号を衣川区から胆沢(いさわ)区へ抜ける途中で目にした校舎です。

立派な門柱と門標です。

この辺りは小山(おやま)村だった地域です。

小山村は岩手県胆沢郡にあった村ですが、

1955年(昭和30年)4月1日  南都田村・若柳村と合併し、胆沢村となり

消滅しました。

その後も村名は、小山中学校に引き継がれていました。

 

校舎の全景

 

詳細は不明ですが、記念碑と記念樹が見えました。

 

小山(おやま)中学校(2017年閉校)

沿革をみると、

1947年(昭和22年)4月1日 学制改革により小山村立小山中学校、

南都田村立南都田中学校、若柳村立若柳中学校創立。

2017年(平成29年)3月31日 胆沢(いさわ)中学校への統合のため奥州市立小山中学校、

奥州市立南都田(なつた)中学校、奥州市立若柳中学校は閉校する。

1987年(昭和62年)の全校生徒は307名でしたが、
閉校時は212名まで減少しています。

閉校にするほどの生徒数ではないと思われますが、

3校が近接しており、生徒の減少傾向を見越しての統合でしょう。

閉校して4年、校舎はまだ老朽化した感じは無いので

何か地域のために転用されることでしょう。

 

国道397号を東へ進み、奥州市中心部を抜け国道456号を南下します。

川内集落の丘の上、アスファルトの坂道を上っていきます。

 

学校跡を示す校門の先が見えました。

 

雑草に覆われており、表札は剥がれていました。

 

入母屋屋根、ベージュのトタン張りと木造平屋の建物が一体となっています。

 

手前は、お寺の建物です。

 

表札をみると、

「田代山興国寺別院 普門山」

お寺の別院となっています。

 

発祥は寺子屋だったのでしょう。

お寺と分校がいつまで共存していたのかわかりませんが、

平屋木造部分が校舎だったのでしょうね。

 

幾つか教室があったようですが、何人くらいの児童が通っていたのでしょう。

 

平屋校舎は、現在は「川内集会所」として使用されています。

 

校庭、周りの様子

 

桜の木の陰にひっそりと佇む錆びた遊具

 

 

校舎裏の様子

 

大田代小学校川内分校(1965年閉校)

1960年(昭和35年)年設立、稼働は5年間だったのでしょうか。

お寺の関係者に詳細な情報を聞きたかったのですが、

当日はご不在でした。。

 

国道397号から県道8号を3㎞ほど北上していくと沿道右側に

古い門柱が建っています。

 

往時の門標が残っています。

江刺町は、1958年(昭和33年)11月3日、市制施行により江刺市と

なりましたが、門柱はそれより前に建てられたものでしょう。

 

校舎の全景

年季の入った深い色合いの木造校舎です。

他にも校舎があったようですが、原形を留めているのがこの校舎です。

 

宮沢賢治作「風の又三郎」のロケ地になりました。

 

元は木細工分教場だったのですね。

 

板張りに木枠の窓に郷愁が漂います。

 

廊下の様子

 

校舎の裏側

 

静まり返った跡地に、人首(ひとかべ)川のせせらぎが聴こえてきます。

 

校庭の様子

 

校歌碑

雲たちのぼり 雨はれて

大空に 日は高く ~

 

校舎の手前、沿道に自治会館が建っていますが、

正面玄関と教員室があったようです。

 

隣地のモダンな建物は、木細工小学校です。

全校児童は9名(2020年度)の小規模校となっています。
かつては、山あいに水田を拓き傾斜地を畑とし、水稲・肉牛の飼育等を

主とする農業を営む地域でしたが、現在は児童の父母の多くは、

市街地の企業に従事するなど共働きが一般化しているそうです。

(小学校HPより)
 

木細工中学校(1978年閉校)旧木細工小学校

沿革をみると、

1875年(明治8年)人首小学校の分校として開校
1882年(明治15年) 現在地に移転
1929年(昭和4年) 木細工尋常小学校と改称、校舎改築
1956年(昭和31年) 小学校は隣地へ新築移転、校舎は木細工中学校が転用
2012年(平成24年) 地域住民が2年半をかけて改修、保存を図る

日暮れ近くに訪ねたこともあって、寂寥感の漂う古びた校舎という印象です。