岩手県一関市の廃校休校巡り(2021/05/03) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

一関市(いちのせきし)は、岩手県の最南端に位置しており、

仙台と盛岡の中間地点、東北地方のほぼ中心に当たります。

2005年(平成17年)9月20日 - 旧・一関市と西磐井郡花泉町、

東磐井郡大東町、千厩町、東山町、室根村、川崎村が合併し、

改めて一関市(3代目)が発足しました。
2011年(平成23年)9月26日 - 東磐井郡藤沢町を編入合併し

市域を拡大しました。

県内では宮古市に次ぐ広大な市域を持つ自治体となり、
人口は約11万人で県内では盛岡市、奥州市に次ぐ規模です。

 

一関市街から国道457号を西へ進み、上本郷地区の沿道に閉校となった

小学校があります。

校門の表札も確認できました。

 

手前左側に校舎、奥の高台のピンクの建物は体育館です。

両者は渡り廊下で繋がっています。

 

校舎の全景

 

閉校後は、萩荘市民センター市野々分館として活用されています。

 

校舎裏の様子

 

校庭の様子

昨夜まで降り続いた雨で水たまりができていました。

 

横に並んだタイヤの遊具

 

朝礼台

 

特に閉校記念碑等は見受けられませんでした。

見付けたのは、小学校跡地を示すこの看板だけです。

モノクロ写真をみると、かつては大きな木造校舎だったようです。

現存校舎は建て替えたものですね。

市野々小学校(2005年閉校)

沿革をみると、

1872年(明治5年)私邸を仮校舎として創立
1907年(明治35年)災害で校舎倒壊、指定を借用
1914年(大正3年)上本郷に校舎新築移転
1947年(昭和22年)萩荘第二中学校併設

1987年(昭和62年)在校児童は93名
2005年(平成17年)萩荘小学校への統合に伴い閉校

明治期は私邸やお寺を校舎や教室として借用し開校した学校が

多いですね。。

 

国道457号下本郷地区まで戻り、県道240号を北上します。

途中から枝道を八幡宮へと進んだところで、避難所の看板をみて

次の目的地が近くにあることを確認します。

廃校跡は避難所になっていることが多く、本当に助かります。

 

アスファルトのスロープを校門へとゆっくり上っていきます。

校門の表札は外してありました。

 

広い校庭の脇、バラスを敷いた導線の先に体育館、赤い屋根の

平屋校舎がL字型に並んでいます。

 

校舎の全景

平屋校舎は119mほどの長い廊下が特徴です。

雑巾がけレースが開催されているそうです。

 

木枠の窓が続く廊下の壁も長~い。

 

玄関付近

閉校後も植栽は手入れされています。

 

水仙やチューリップが咲いた玄関先は、明るく楽しい空間となっています。

 

正面玄関の近景

 

閉校後は、公民館として使用されています。

「達古袋」は、「たっこたい」と読むのですね。

英語も併記されていますが、海外からも訪れる方がおられるのでしょうか。。

 

2014年8 月に国際なかなか遺産委員会より、旧達古袋小学校が 

「なかなか遺産 第一号」に指定されました。

なかなか遺産とは、国の重要文化財や世界遺産には認定はされないものの、

どこにもない特異性があり地域の人々にとって大切な遺産として残しておきたい

木造建築物のことだそうです。

 

格子天井張りと丸いランプ、木造校舎ならではの温もりが伝わっていきます。

 

ちょっと小太りの二宮尊徳像

 

優しい表情で書物を読んでおられます。

 

体育館の全景

 

体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下

 

壁には児童らの描いた絵画が掲示してります。

 

楽しい学校生活の思い出が蘇ります。


校庭の様子

雑草などで荒廃した様子はありません。

 

校庭脇の遊具

 

 

楽しそうなアスレチック遊具

 

樹木の陰に立ち並ぶ登り棒や鉄棒

 

簡易な滑り台

柔かな配色は、木造校舎に似合いますね。。

 

盆栽のような植栽の隣に凛と立つ百葉箱

 

コンクリートブロックを積み上げた卒業記念製作品

 

創立80周年記念碑

 

かつては、中学校も併設されていたようです。

 

閉校記念碑と校歌

一、

須川山脈 高らかに

力あふるる 山ふもと

山幸ひかる 達古袋

ああ青空の 空青く

知恵のさとしも 深々と

今よみがえる 学び舎よ

 

達古袋(たっこたい)小学校(2013年閉校)

1951年(昭和26年)に建てられた木造校舎は、通学に2時間かかる中学生のために

住民が役場と交渉し資金と土地を提供し完成したものです。

往時は1クラス50名いた児童も、過疎化により1987年(昭和62年)は全校で50名、

閉校時は26名まで減少していました。

厳美小学校へ統合に伴い閉校となりましたが、廊下の長い校舎は、

NPO法人により「なかなか遺産」に指定され、耐震補強したうえで

保存されることになりました。

現在は、一関市厳美(げんび)市民センター達古袋分館」として、

講演や講座、雑巾がけ競走などのイベントに活用されています。
 

山道を北上、国道342号に合流し3㎞ほど進むと入道地区に入ります。

校庭周辺に並ぶ、遅咲きの牡丹桜が待ち望んだ北国の春を謳歌しています。

 

校門まで来ました。

こちらも避難場所に指定されています。

 

校門の先に、赤いトタン屋根の平屋校舎がこちらを見ています。。


表札は小学校跡に入れ替わっていました。

閉校年月日も刻まれています。

 

達古袋小学校ほどではないですが、長い校舎です。

 

向かって右側に体育館、校舎群はコの字の配置です。

 

体育館の入口に聳え立つシダレカツラ

 

サッシ窓が続く長い壁

 

向かって左端の棟は特別教室だったのでしょうか。。

校舎正面

 

正面玄関の近景

折り目の付いた屋根、どっしりと構えた柱、立派な玄関ポーチ。。

パステルピンクを基調とした柔和な空間です。

花のマークの通気口も可愛らしいですね。。

 

閉校後は、地区の公民館として使用されています。

達古袋小学校と同じ表札ですね。。

 

玄関の天井も洒落たデザインが施されています。

 

校舎裏の様子

 

 

体育館裏の様子

 

校庭の様子

 

オリンピックの五輪の輪のような花壇

往時はいろんな種類の花々が咲いていたことでしょう。

 

新緑を競う植栽や樹木たち

 

山谷(やまや)小学校(2005年閉校)
1936年(昭和11年)7月1日に新築移転された校舎です。

1987年(昭和62年)の全校児童は63名でしたが、
2005年(平成17年)児童減少により厳美小学校へ統合に伴い閉校となりました。
地域のシンボルとして残したいとの住民らの想いにより、教室を改修した後、

公民館(一関市厳美市民センター山谷分館)として第二の人生を

託されました。

緑溢れる自然に囲まれた美しい木造校舎です。

 

厳美渓上流の風景

清く冷たそうな雪解けの渓流です。

 

ズームアップすると、遠方に雪を戴く連峰が見えました。

 

国道342号を須川方面に進みます。

 

しばらく進むと学校の案内看板が見えたので矢印の方向へ行ってみます。

 

校庭に向かって校舎と体育館が並んで建っています。

 

鉄筋3階建て校舎は1977年(昭和52年)に完成したものです。

 

赤い屋根の体育館

特筆すべき特徴らしきものはありません。

 

校舎の端にさく牡丹桜の門

 

殺風景な校舎と対照的に、ピンクに染まった沢山の花弁が

目を楽しませてくれました。

 

薄汚れた外観ですが、こちらが校舎の表側のようです。

 

玄関の様子

 

校庭の様子

 

屋根が抉り取られた百葉箱

 

放置された整地ローラー

 

寒そうなプール

 

校舎の端に先ほど見た連峰が垣間見えました。

 

閉校記念碑と校歌

一、

ひろがる花のみちのくを

見わたすようにそびえ立つ

須川の山をこえてゆく

はるかな雲に希望をよせて

わたくしたちは

学びます

 

裏面の沿革碑

1872年(明治5年)創立(駒形)
その後、若井原、岡山と校舎移転
2018年(平成30年)厳美小学校へ統合に伴い閉校

 

本寺小学校(2018年閉校)

中学校も併設されていたのですが、気が付きませんでした。

1987年(昭和62年)の生徒は、小学校が92名、中学校は62名でしたが、

閉校時には、小学校は24名、中学校は14名まで減少していました。

本寺中学校と合同で運動会を行ったり、毎年恒例の須川登山を行うなど、

地域ぐるみで行事を行っていたようです。

 

国道342号を一関市街へ戻る途中に立ち寄ってみました。

旧道沿いに進むと看板が見えてきます。

厳美渓(げんびけい)は、全長2kmで奇岩や怪岩に富む渓谷です。

古くから景勝地として親しまれており、一帯を治めた伊達政宗も松島と

並ぶ二大景勝地としてこの地を賛美しているそうです。

1927年(昭和2年)に国の名勝及び天然記念物に指定されました。

 

解説版


天工橋(てんぐばし)からの眺め

 

栗駒山から一関市内へと流れる磐井川の浸食によりゆっくりと

時間をかけて形成されたものです。

 

栗駒山系の雪解け水が急流となって岩を削っていきます。

 

平坦な場所では落ち着いた表情を見せてくれます。

 

下流に歩くと眼下に吊り橋が見えてきました。

御覧場橋です。

 

吊り橋からは、上流の荒々しい流れと下流のゆったりとした淵の

対照的な景色が見られます。

 

春は満開の桜と雪解け水が流れる渓谷美を眺め、
夏には涼しげな渓流のせせらぎを聞き、秋には色づく山々の紅葉、

冬には水墨画を思わせる景色が広がり、厳美渓は四季折々それぞれの

風情が楽しめます。

 


 

奥州市から県道10号を南下し、一関市東部の旧大東町中川地区に

差し掛かったところ、小学校跡を見付けて立ち寄りました。

コンクリートの門柱に往時の門標が残っていました。

 

赤い屋根の旧校舎の玄関

 

手造りの表札

閉校後の校舎をリノベーションし、「京津畑交流館 山がっこ」という交流施設と

なっています。

 

奥の高台に別の校舎や体育館が見えました。

側面から撮った校舎と体育館

交流施設と高台の校舎とは渡り廊下で繋がっています。

 

校庭の様子

 

鬱蒼とした樹木の陰に建つ二宮尊徳像

日が沈みかけた頃で全体的に暗くなってしまいました。。

 

閉校記念碑

山あいの母なる学び舎

知恵と心のよりどころ

ふるさとは永遠なり

 

裏面の校歌碑

新・旧校歌が記されていました。

 

京津畑小学校(2006年閉校)

奥州市江刺区と境を接する京津畑集落は、人口150人の山あいの

小さな集落です。主な産業は稲作と畜産などです。
1883年(明治16年)中川小学校京津畑分教場として開校

1987年(昭和62年)児童数は16名
2006年(平成18年)児童減少により興田小学校への統合に伴い閉校

一時は解体も話し合われましたが、地域の自治会で利活用を検討した結果、

「京津畑交流館・山がっこ」という宿泊施設を備えた集会施設として

生まれ変わりました。