宮城県北西部の廃校休校巡り(2021/05/04) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は、宮城県北西部の廃校休校巡りですが、具体的には上図の

栗原市、大崎市、加美町の2市1町となります。

 

栗原市は、宮城県の北西部に位置し、北部は岩手県、

北西部は秋田県と境界を接しています。

2005年(平成17年)4月1日:栗原郡全10町村(築館町、若柳町、栗駒町、

高清水町、一迫町、瀬峰町、鶯沢町、金成町、志波姫町、花山村)が

合併し、栗原市が誕生しました。

宮城県最大の面積を占め、栗駒山を含む栗駒山地は栗駒国定公園に

指定されています。

 

大崎市は、古川都市圏を中心とする大崎地方に属し、北は秋田県、

西は山形県と境を接しています。

2006年(平成18年)3月31日 - 古川市および遠田郡田尻町、志田郡三本木町

・松山町・鹿島台町、玉造郡岩出山町・鳴子町が合併し大崎市が発足しました。

大崎平野において農業が盛んなほか、中心市街地の古川地区は
宮城県北部地域の商業・サービス業の拠点であり、市内最北西部の

鳴子地区は温泉観光地です。

 

加美町(かみまち)も、大崎地方に属する町です。
2003年(平成15年)4月1日 - 中新田町、小野田町、宮崎町が合併し、加美町となりました。

薬莱山(やくらいさん)に代表される豊かな自然に恵まれた町です。

 

仙台から東北自動車道を北上、栗原市内に入ると、若柳金成ICで下車し

旧小学校舎を目指します。

 

旧栗原郡当時の表札が残っています。

文字が薄れていますが、「金成町立金成(かんなり)小学校」

 

バラスを敷いた先に旧校舎の横顔が見えます。

 

校舎の全景

木造2階建て、1910(明治43年)に現在の場所に移築された小学校です。

中央バルコニーの両翼に教室を配置、均整がとれた威風堂々たる木造校舎です。

 

正面玄関、バルコニーの近景

斜めから撮った玄関、バルコニー

玄関ポーチを大きく張り出し、2階部分をバルコニーにするなど

洋風建築の要素を取り入れています。

 

破風の意匠は和風ですね。。

 

現在は、歴史民俗資料館として使用されています。

訪れた当日は、新型コロナ感染拡大により館内の見学は休止となっていました。

 

味わい深い板張りの壁や引き戸

 

敷地内は植栽や樹木の緑に溢れています。

 

樹齢600年と云われるケヤキ

 

校舎と対峙するように枝を広げ聳え立っています。

 

金成(かんなり)小学校旧校舎

近隣に現役の金成小・中学校がありますが、1979年(昭和54年)までは

小学校として使用されていました。

明治の擬洋風建築の傑作として歴史的価値のある校舎は、

閉校した1979年11月に宮城県の有形文化財に指定されました。

見応えのある立派な校舎は、現在は金成歴史民俗資料館となっています。


東北自動車、古川IC下車、国道47号を北上、大崎市岩出山下野目地区に

着きました。

避難場所に指定されている、川北ふれ愛センターは往時の分校跡です。

 

アスファルトのスロープの先に、コンクリートの校門が2基立っています。

 

校庭の先に赤い屋根の建物が見えます。

 

トラロープが巻かれた校門に、しっかりと門標が残っています。

 

左側の校門

底が抜けて破れた郵便受けが校門の下でうずくまっています。

校章だけはしっかり見て取れました。

(かつては校章の下に川北分校と書いてあったようです。)

 

こじんまりとした校舎に似合わず広すぎる校庭ですが。。

 

かつては、その隣に平屋の木造校舎が続いていたようですね。

(2009年3月発行 広報おおさきより抜粋)

 

校舎の一部は構造をそのままで外壁等を改修し集会所となっています。

 

 

その隣の建物も分校施設の一部だったのでしょうか。。

 

閉校後に増築したものか詳細は分かりません。

 

分校の面影を伝える児童の貼り絵

 

ガラス越しに撮った校歌

一、

仙台藩祖 そのむかし

ここより立ちて 朝鮮の

役にすすみし 岩出山

臥牛城址の まなびやよ

 

校庭の様子

 

電柱と背比べしているトーテムポール

 

岩出山小学校川北分校(2009年閉校)

沿革をみると、

1887年(明治20年)開設
1924年(大正13年) 校舎が現在地に移転
1955年(昭和30年) 児童数は80名を超える
1987年(昭和62年) 児童数29名
2009年(平成21年) 本校への統合に伴い閉校
閉校時の児童8名

分校閉校式には、地域の人々や卒業生ら約100人が出席し、

児童らが分校の思い出を読み上げ、122年の歴史に幕を

下ろしました。(前掲 広報おおさき)

集まった卒業生によれば、「分校は少人数でしたが、みんなが

兄弟みたいに仲良しでとても楽しかった。」とのことです。

残った5名の児童は、スクールバスで5㎞ほど離れた本校に通うことに

なりました。
「本校に行っても分校は忘れない、いろいろ勉強を頑張りたい。」と

気丈に答えていたそうです。


さらに国道47号を北上、鳴子温泉を経て国道108号を北上、

鬼首(おにこうべ)温泉方面に向かいます。

 

山嶺から雪解けの冷たい水が流れています。

 

鬼首小学校(現役)の隣に閉校となった鬼首中学校があります。
 

コンクリートの校門に薄れた文字の表札が残っています。

 

手前に体育館、奥に平屋校舎が見えます。

 

スクールバスが2台停まっていますが、敷地の一部は

小学校が使用しているようです。

 

体育館の窓の貼り紙

体育館も小学校が使用しているようです。

 

青い屋根の平屋校舎が続きます。

 

校庭の角をを囲むようにL字型に並んでいます。

 

その先にも別棟が見えますね。

特別教室でしょうか。。

 

先ほどの体育館の隣の校舎が1年~3年の教室棟です。

 

正面玄関の校舎が、図書室や事務室があった棟です。

 

花壇に咲き並ぶ水仙

 

遅咲きの牡丹桜が賑やかに咲いています。

 

正面玄関の様子

除雪用具などが置いてあり雑然としています。

 

校庭の様子

地域のイベントで使用されているのでしょう。

手入れがされています。

 

残雪の山嶺、遅咲きの牡丹桜、画になる光景ですね。。


2015年(平成27年)11月15日に開通した花渕山バイパスを祝う看板

 

校舎裏の様子

 

プール跡

 

閉校記念碑かと思ってよく見たら、健康マラソン設定記念碑でした。。

 

鬼首(おにこうべ)中学校(2006年閉校)

1987年(昭和62年)の全校生徒は78名。

生徒数減少により鳴子中学校への統合に伴い閉校となりました。

閉校後は、「鬼首山学校」という名で、地域のイベント、交流会、自然体験などの

施設となっています。

隣の鬼首小学校は児童数15名の小規模校ですが、現役校として存続しています。

 

鳴子温泉から国道47号を南下、岩出山から国道457号に折れて

さらに南下、大崎市から加美町に入ります。

中心部から南東の下新井田(しもにいだ)地区に旧校舎が再生利用

されています。

中新田(なかにいだ)交流センターという施設で避難場所にも指定されています。
 

入口に建つ大きなモニュメント

 

校舎と体育館

 

校舎は、くの字型に建っています。

 

校庭から撮った校舎

旧校舎ですが、改修され洋館のような立派な外観です。

 

校舎の全景

ストーンサークルのように立つコンクリート柱はアートなのでしょう。。

 

白壁に漆黒の板壁、整然とした格子窓

 

パンフレットでは、灰色の屋根に薄茶色を基調にした外壁となっていましたが、

近年、塗り替えたようです。

 

正面玄関の近景

どっしりと落ち着いた玄関ポーチ、両脇の植木にも気品が感じられます。

 

薄いピンクの洒落た扉

 

表札は英語が似合いそうですが、明朝体でした。

 

構内も見せて頂きました。

階段は親柱をはじめ、往時の原形を留めているようです。

踏板には光沢もあり、綺麗に手入れされています。

 

廊下の様子

 

民芸品も展示してありました。

そう言えば、こけしは、東北生まれの伝統工芸品で鳴子は日本三大こけしと

呼ばれる名産地でしたね。。

 

庭園の様子

かつては校庭だったのでしょうが、モニュメントや植樹により新しい

空間となっています。

 

芝桜も植えてありました。

 

鳴瀬小学校旧校舎

1987年(昭和62年)に移転するまで小学校舎として使用されていました。
当時の児童数は251名、少子化ではなく、旧校舎の建築意匠、コロニアルスタイルを

保存するため、新校舎へ移転したようです。

旧校舎は、加美町中新田交流センターという研修宿泊施設として活用されています。
館内は旧学校の雰囲気を残しながら広々と明るく、伝統の建築文化に楽しみながら

木造校舎の温もりに触れることができます。
なお、移転した鳴瀬小学校は、近代的な鉄筋校舎で82名の児童が学んでいます。(2020年度)

 

加美町中心部から国道347号を西へ進み、途中から県道262号に折れて

山形県境の宮崎地区に入ります。

寒風沢(さぶざわ)集落の沿道に廃校舎が見えました。

 

シンボルツリーの杉の木と避難所の看板

 

往時の校門が2基立っています。

 

門標も確認できました。

「旭小学校寒風沢分校」

 

校舎の全景

木造平屋の小さな校舎です。

母屋の両側に低い屋根の棟や小屋が連なっています。

後方斜めから撮った校舎

 

窓や扉はサッシに替わっていますが。

 

板張りの壁は往時の面影を伝えています。

 

校舎裏(道路側)

 

赤レンガのかまど跡、煙突、プロパンガス。

集会所となってからは、校舎の端部は炊事場として使用されているようです。

 

道路の向こう側は長閑な田園風景です。

 

校庭の様子

 

校庭に咲く水仙

 

埋もれた古タイヤの遊具

 

岩の銘板には「校木かえで」とありますが、校木は見当たりませんでした。

 

年季を感じる分校跡碑

旭小学校寒風沢分校(1983年閉校)

寒そうな地名ですが、辺境の分校は冬場の厳しさも相当と思われます。

沿革をみると、

1890年(明治23年) 分教場として設置
1938年(昭和13年) 校舎を建替え
1947年(昭和22年) 分教場を分校と改称
1951年(昭和26年) 旭小学校寒風沢分校と改称
1983年(昭和58年) 本校への統合に伴い閉校

なお、統合先の旭小学校も20名まで児童数減少、2019年(平成31年)

3月31日をもって閉校となっています。