新潟県中央部の廃校休校巡り(2020/08/11) | haiko-riderのブログ

haiko-riderのブログ

2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は、新潟県中央部(中越地方)に位置する長岡市、見附市(みつけし)、

三条市の廃校休校巡りです。

 

長岡市は、県下第2位の人口を擁する市です。

江戸時代には長岡藩の城下町として栄えました。

戊辰戦争と第二次世界大戦(長岡空襲)の二度にわたって
市の中心部は壊滅的被害を受けましたが、不屈の精神により復興を

成し遂げ現在に至っています。

また花火の街でもあり、長岡まつり大花火大会は、「大曲」・「土浦」の

花火とともに日本3大花火に数えられています。

 

見附市は、南北に長い新潟県のどまんなかに位置し、県の重心地です。

肥沃な土地による農業と繊維産業を基幹産業として発展を遂げてきました。

現在は、過去の繊維産業だけに頼ってきた産業構造から、プラスチック製品製造、

一般機械器具製造、金属製品などが躍進しています。

 

三条市は、2005年(平成17年)5月1日、旧三条市、南蒲原郡栄町、

南蒲原郡下田村が新設合併し、市域を拡大しました。

包丁や工具など金物工業が盛んで、全国的に金物の町として
知られています。

 

関越自動車道、長岡南越路スマートIC下車後、ほどなく来迎寺(らいこうじ)

地区にある越路郷土資料館に着きました。

この辺りは越路町だった場所で、2005年(平成17年)に長岡市に編入

されました。

 

駐車場にバイクを止めましたが、資料館は開館時間外でした。

 

奥に大きな木造校舎の横顔が見えました。。

 

郷土資料館と木造校舎は逆L字型に建っています。

 

緑一面の校庭を見渡すと、樹木の傍に往時の門柱が残っています。

 

表札は外されていますが、往時はこちらから通学していたのでしょう。

 

樹木の陰に佇む校舎

青空に木造校舎が映えますね。。

 

真夏の太陽に照らされ、茶褐色に輝く校舎

 

玄関の近景

校舎の1階と同様に羽目板で打ち付けられていました。

校舎の規模からすると、控えめな感じですね。。

 

校舎の裏側

ほとんど目隠しのように雪囲いがされています。

 

校庭の様子

一面に草が生えて草原のようです。

 

校庭の隅に残る遊具

木陰で疲れたように佇んでいました。

 

さきほど見た校門の傍に鎮座する石碑

 

「学舎の跡」

 

裏面に刻まれた沿革

木陰で暗く読みづらいのですが、

1947年(昭和23年)新潟県立長岡高等学校来迎寺分校として開校。
1955年(昭和30年)越路分校と改称。

1984年(昭和59年)閉校。

「建碑によせて」の想いは最後に記されていました。

「閉校にあたり関係者一同 限りなき感慨と深き愛惜の情を込めて建碑する。」
 

長岡高校越路分校(1984年閉校)

地元の方によれば、郷土資料館が越路分校だった建物で、木造校舎は

元々、来迎寺小学校だったとのことです。

調べると、1947年(昭和23年)6月1日、来迎寺分校を来迎寺小学校内に

設置したとあります。

来迎寺小学校は、1969年(昭和44年)4月1日に近隣の浦小学校・神谷小学校

・中野島小学校・石津小学校と統合に伴い閉校となりました。

閉校までの22年間は、小学校と併存していたことになりますね。

他にも校舎があったのですが、2004年(平成16年)の中越地震の際に倒壊したそうです。

災難にもびくともせず残った力強い木造校舎に、頼もしさを感じました。

 

先ほどの越路郷土資料館から東へ進み、関越自動車道を越え

国道351号を南下します。

浦地区の石津トレーニングセンターの近くに廃校となった校舎が残っています。

土木、建築会社が使用しているため、従業員の方に許可を頂いて

撮影しました。

時々、小生と同じく廃校の撮影目的で訪ねてくる者がいるとのこと、

屋内の撮影はお断りしているが、そのことを不快に思ったような記事を

ブログに掲載されたことがあり、迷惑しているとのお話でした。。

 

平屋校舎と正面玄関、かつての学び舎だった雰囲気が漂います。

 

沿道から撮った校舎

 

トタンで補修していますが、往時は手前まで校舎が続いていたのでしょう。

 

車が数台停まっている左側に、寄棟屋根の2階建て校舎が

あります。

 

周りは建築資材が置かれて雑然としていました。

 

側面から背面を撮影

許可を頂いても、裏側まで立ち入るのはマナー違反と思い

これで終わりにしました。

 

門柱の傍に建つ記念碑

 

石津小学校(1969年閉校)

沿革をみると、

1945年(昭和20年) 開校。
1947年(昭和22年)~1961年(昭和36年) 石津中学校併設。
1958年(昭和28年)5月 現在の木造校舎が完成。

1969年(昭和44年)越路小学校への統合に伴い閉校。

児童数は、1966年(昭和41年)113名でした。

 

長岡市北部、旧和島村は2006年(平成18年)1月1日、長岡市に編入され

消滅した村です。

和島中沢地区の県道192号沿いに校舎へ続く石段と校門、

傍には閉校記念碑が見えました。

 

明瞭な表札も確認できました。

 

スロープの途中、プール施設に可愛らしい壁画がありましたが、

往時の児童が描いたものでしょう。。

 

見上げると、2階建ての鉄筋校舎、まだ新しい建物です。

 

スロープを上ったところで、右から鉄筋校舎、体育館、木造校舎が

コの字に並んでいました。

 

中央の体育館の窓には、学び舎への感謝とお別れの言葉が。

 

左側の木造校舎は、築85年の木造校舎を改修し、「和島トゥー・ル・モンド」

という名のレストランとして使用されています。

 

正面玄関は羽目板で閉ざされています。

 

右側の鉄筋校舎は、2階に教室、1階に特別教室とパン工房が

入っているそうです。

土手の斜面に並ぶ植栽や松の木も綺麗に手入れされています。

 

島田小学校(2009年閉校)

校門をくぐり石段を上った小高い丘の上に建つ白亜の木造校舎です。

樹木に囲まれ自然に心が和む空間です。

地元の方のみならず県外の方も訪れる人気レストラン、和島トゥー・ル・モンド。

「トゥー・ル・モンド」とは仏語で「みんなで」という意味だそうです。

かつては、児童らが学び集った校舎、引き続き活躍の場を

与えられて喜んでいることでしょう。。

 

先ほどの島田小学校から3㎞程北方、和島北野地区の北野交差点近くに

廃校が残っています。

この辺りは、旧桐島村だった場所ですが、

桐島村は、1955年(昭和30年)3月31日三島郡島田村と合併して、

和島村となり消滅しました。

表札は「桐島小学校」のまま残っています。

 

右手前から体育館、中央に3階建て校舎、左手に2階建て校舎が

コの字に建っています。

かつては手入れされていたであろう庭の植栽は、校舎を遮るほど

荒れて見苦しほどです。

 

アスファルトの縁にも雑草が伸びていました。

廃校になってどのくらい経過しているのでしょう。。

 

体育館は、各地で見かける蒲鉾屋根のしっかりとした建造物です。

 

3階建て校舎の近景

 

2階建て校舎の近景

 

校舎裏に小屋が繋がっていますが、給食室だった建物です。

 

プールと更衣室

 

青空、芝生の校庭、屋根の剥げた東屋

 

桐島小学校(2009年閉校)

1955年(昭和30年)消滅した桐島村の名を引き継いでいた小学校ですが、

54年後に幕を閉じました。。

閉校から11年しか経過していませんが、校舎を何かに使用している様子は

感じられませんでした。

1987年(昭和62年)の全校児童は197名でした。

 

 

長岡市の北に隣接する見附市に向かいます。

名木野町に閉校となった木造校舎が残っています。

 

鉄筋校舎らしき建物の玄関には、北谷公民館の表札がありましたが、

元の体育館を解体した跡地に新築したとのことです。

 

学校とは関係ない公民館ですが、木造校舎とはこのように繋がっていました。

 

木造校舎の入口に掛かっていた銘板をみると、

公民館のほか民俗文化資料館、理科教育センターなどあり、

かつては、この木造校舎に複数の施設が共用されていたのですね。

現在は、耳取遺跡の出土品の倉庫となっているそうです。

耳取遺跡は新潟平野東部の東山丘陵から派生する標高76mの

尾根上の平坦地に立地する縄文時代の集落跡です。
 

前庭の樹木が校舎を遮っているため、この角度しか撮れません。

木製の窓枠や縦板張りの壁、剥げたペンキ跡、どれも長い歳月を

経てきた証ですね。。

 

公民館の壁に掲げた校章旗

 

グリーンが映えるゴルフ場のような校庭

 

卒業制作のオブジェでしょう。

何を意図したものか不明ですが、手を挙げて駆け出そうとするポーズは

「待ってくれ」、って言っているようにも見えました。。

 

コンクリートの台座を組み合わせたオブジェ

こちらも意味不明ですが、1969年(昭和44年)の卒業記念制作です。

 

北谷中学校(1979年閉校)

近隣の上北谷中学校・見附中学校の一部とともに、
見附南中学(新設)への統合により閉校となりました。

木造校舎は耳取遺跡品の倉庫となっており、関係者以外は

立入ることはできません。

 

三条市早水地区の県道183号沿いに門柱を見付けて立ち寄りました。

コンクリートの表面が剥がれていますが、門標は残っています。

門柱が低いのは、敷地に土砂を重ねてアスファルト舗装したからでしょう。

下田村は、新潟県の中央部、中越地方に位置していた南蒲原郡の村です。

2005年(平成17年)5月1日に三条市、栄町と合併し、新しい三条市の一部と

なりました。 

 

視線の先に2棟の建物がL字型に建っています。

 

手前は往時の体育館です。

 

新しい外観の木造建物は簡易宿泊施設となっており、

校舎を解体した跡地に新築したものです。

 

側面の壁に施設の看板が掛かっていました。

 

玄関の表札

「よってけ」でなくて「よってげ」と訛りがあるのが、外部から来た者

にとっては、地方らしさが感じられて微笑ましいですね。。

 

周りは田園地帯となっているので、田植えや稲刈りなどの農業体験も

できるのでしょう。

 

玄関には、雪遊びをする子供らの貼り絵が掛かっています。

制作年は不明ですが、卒業記念作品ですね。

 

こちらも卒業児童の作品ですが、往時の木造校舎が上手に描かれています。

雪国の長い冬、雪に閉ざされた暗い背景に対して、

木造校舎の温もりが強く伝わってきますね。。

 

早水小学校(1992年閉校)

6㎞ほど北方にある森町小学校への統合に伴い閉校となりました。

周りは田園地帯、付近を守門川の清らかな流れがあり豊かな自然を

楽しむことができる場所にあります。

閉校となり通学児童は来なくなりましたが、跡地に建てられた「よってげ邸」が、

子供達を迎えています。

1987年(昭和62年)の全校児童は55名でした。

 

国道289号を三条市街へ向かう途中、脇道に入り県道409号沿いの

飯田地区、ピュアハウスという福祉施設に向かいます。

グランドの奥に校舎の横顔が見えました。

近付いて行きます。

 

ポツンと一棟残っています。

他に校舎らしき建物はありません。。

入口はサッシ扉が取り付けられていました。

 

校舎の裏側

瓦屋根に下見板張りのこじんまりとした校舎です。

 

校舎から校庭、ピュアハウス方向を見る。

それにしても広大な校庭です。

かつては、ピュアハウス付近まで校舎が長く続いていたようです。

 

錆びた鉄棒と放置された整地ローラー

 

鹿峠(かとうげ)中学校(1986年閉校)

校舎の表側は、大きな樹木が茂り、外観はこのようになっています。

ネットで見ると、ピュアハウス近くにレンガ造りの校門が残っていたようですが、

気が付きませんでした。

かつてこの辺りは、南蒲原郡鹿峠村だった場所ですが、

1955年(昭和30年)3月31日 近隣の長沢村、森町村と合併し、下田村となり

鹿峠村は消滅しました。

その後も下田村立鹿峠中学校として存続しましたが、下田中学校への

新設統合に伴い閉校となりました。