今回は、新潟県北部(下越地方)に位置する阿賀野市、
新発田市(しばたし)、胎内(たいない)市、村上市の廃校休校巡りです。
阿賀野市は、2004年4月1日に北蒲原郡安田町、水原町、京ヶ瀬村、
笹神村の4町村が合併して市制施行された市で、阿賀野川流域に
あることからこの名前となりました。
市域の西部は平地(越後平野)で、水田が広がっていますが、
市域の東部は山地であり、月岡断層帯が北北東-南南西に走っています。
新発田市は、越後平野の北部に位置する、新潟県北部の中核都市です。
市北西部には日本海に面した白砂浜海岸が広がります。
加治川などを水源とした水田が広がっており、県下有数の良質な
米(コシヒカリ)の産地としても知られています。
胎内市は、2005年9月1日に北蒲原郡中条町、黒川村の合併により発足しました。
市域は胎内川流域に沿って東西に、「へ」の字に曲がった細長い形をしています。
市名の由来は、市域を流れる胎内川に由来します。
村上市は、新潟県最北・最東に位置し日本海に面しています。
面積は1,174.24km²で県内最大を占めています。
2008年4月1日 岩船郡荒川町・神林村・朝日村・山北町と合併し、新市制による
「村上市」となりました。
(日本海の沖合約10kmに浮かぶ粟島は、村上市ではなく、岩船郡粟島浦村に属します。)
かつては、村上藩の城下町として栄え、現在でも市中に武家町、商人町の面影が残っています。
中心街では町屋再生などの各種プロジェクトが進んでおり、2008年度には都市景観大賞
「美しいまちなみ大賞」を受賞しました。
阿賀野市南部を縦断する国道290号を北上、五頭(ごず)温泉郷を過ぎて
出湯交差点の手前を左折すると、ほどなく閉校となった小学校が
見えてきます。
手前は体育館です。
閉校後は資料館になっていましたが、使用感はありません。
周りは雑草に覆われ長らく手入れもされていない様子です。
錆びた手押しポンプ車
戸口に置いてありましたが、これも展示物だったのでしょう。。
体育館は朽ちかけた平屋と繋がっています。
こちらも学校の施設の一部でしょう。
カラーコーンが置いてあり立入禁止となっていました。
2階の窓に資料館の看板
五頭山(ごずさん)は新潟県阿賀野市と東蒲原郡阿賀町にまたがる、
標高912mの山です。
その麓に、村杉温泉、今板温泉、出湯温泉が湧き出ており、
総称して五頭温泉郷(ごずおんせんごう)と呼ばれています。
各温泉とも近世以前からの歴史があり、湯治場として利用されて
きました。
その奥、樹木の陰に校舎の玄関が見えました。
瓦切妻屋根の平屋木造校舎です。
向かって左側の玄関らしき、赤いトタン屋根の簡素な建築物は、
校舎とは繋がっておらず、近付いてみると井戸屋形でした。
正面玄関の近景
玄関の貼り紙
2016年(平成28年)11月30日を以て閉館となっていました。
プールの竣工記念碑
日付は、1973年(昭和48年)7月14日
閉校記念碑ではありませんでした。。
出湯小学校(1982年閉校)
近隣の笹岡小学校への統合に伴い閉校となりました。
閉校後は、「五頭の麓のくらし館」として使用され、先人が残した遺跡、
産業に関わる文化財や民具などを展示していましたが、
老朽化のため、2016年11月末で閉館、移転先は旧安田町立山手小学校
とのことです。
JR羽越本線に沿って走る国道460号、月岡駅付近から県道264号へ
折れて進み、鳥穴地区に着きました。
現存しているのは、平屋の木造校舎1棟ですが、他にも関連施設が
あったものと思われます。
玄関は、狭い庇にサッシ扉の簡素なものです。
校庭の様子
園児らが描いた絵画
閉校後は保育園として使用されていたようです。
日付は2010年11月7日
小学校は1975年閉校ですから、35年間は保育園として稼働していたのでしょうか。。
佐々木小学校鳥穴分校(1975年閉校)
佐々木村(ささきむら)は、かつて新潟県北蒲原郡にあった村ですが、
1959年(昭和34年)4月10日、新発田市に編入され消滅しました。
分校は村の名残を留めていましたが、閉校となってからは本校が
残るのみです。
沿革をみると、
1905年(明治38年)佐々木村立尋常小学校鳥穴分教場を開設
1922年(大正11年)校舎を改築
1963年(昭和38年)に新校舎竣工
1975年(昭和50年)本校へ統合に伴い閉校。
現在は鳥砂公民館として使用されています。
鳥砂とは、鳥穴と砂山の2地区の頭文字を採ったものです。
国道7号を北上、新発田市から胎内市へ入ります。
胎内市役所付近で県道314号へ折れて進み、高畑地区に着きました。
往時の正門が残っていました。
門柱の大きさに比べてミニサイズの銘板ですが、
「高浜小学校」としっかりと刻まれています。
校舎へのアプローチ
アプローチの左側に蒲鉾屋根の体育館が迎えてくれました。
お世辞にも立派とは言えない外観です。
児童らが書いた看板の絵も劣化して判別できません。
黒くなっているのは鉄棒越しに見た校舎なのでしょう。。
深読みですが、看板では消えつつありますが、心には残そうと
言うことなのでしょうか。。
樹木や増築したエントランスにより校舎の全景は遮られています。
表札は、社会福祉法人七穂会「ハートワーク高浜」とあります。
閉校後は、障がい者を支援する施設として使用されているようです。
関係者の方に声を掛けて、裏側に周ってみます。
体育館(裏側)
膝まで伸びた雑草を掻きわけて進みます。
校舎(裏側)
全景が撮れて気分もスッキリです。。
2階建て鉄筋校舎の隣に木造校舎が建っています。
木造校舎(裏側)
草木が行く手を阻み進むことはできません。
サッシ窓が取り付けられていますが、壁板は色褪せ劣化が激しい状態です。
屋根の樋にまで雑草が生えていますね。。
正門に鎮座する校歌碑
「松の山から青い風~
裏面の沿革は、
創立 1908年(明治41年)12月14日
閉校 2002年(平成14年)3月31日
高浜小学校(2002年閉校)
表も裏側も草木で覆われて全景は撮れませんでした。
鉄筋校舎は障がい者福祉施設として利用されていますが、
木造校舎は、民間会社の倉庫となっているそうです。
ただし、使用感はまったくありませんでした。
2002年(平成14年)築地(ついじ)小学校へ統合に伴い閉校となりました。
1987年(昭和62年)の全校児童は92名でした。
新潟県最北部の村上市、日本海に沿って走る国道7号から県道52号に
折れて山間部に入ります。
田園を縫うように流れる小俣川のせせらぎに真夏の暑さも吹き飛びます。
護岸工事もされない手つかずの自然の中、のびのびと軽快に
流れています。
小俣川の清流と丸木橋
絵になる光景ですね。。
道幅も狭くなり不安になりかけた頃、開けた場所に着きました。
そこには、日本国登山口の休憩舎や駐車場があり、奥に体育館が見えました。
日本国は、新潟県と山形県を隔てる分水嶺上の標高555メートルの山です。
名前の由来は諸説あり、その昔、この山で捕まえた鷹を将軍に献上したところ、
将軍はその鷹をえらく喜んで、その捕まえた山の名前を「日本国」にした説など
です。
山頂からの眺望がすばらしく、時折登山客が来られるようですが、
駐車場は閑散としていました。
往時の校門、そして校舎へアスファルトのアプローチです。
見にくいですが、「山北町立」の門標です。
山北町(さんぽくまち)は、新潟県の最北端、日本海沿岸にあった町です。
2008年4月1日に村上市、荒川町、神林村、朝日村と合併し、新たな村上市となりました。
片方の門標は「小俣小学校」とあります。
(こちらも見にくい。。)
調べたところ、体育館の隣の木造の建物は校舎ではなく、
個人所有の家屋とのことです。
校舎を解体後に新築したようです。
どうりで外観からして新しいはずです。。
各地で見かける蒲鉾屋根の体育館
和太鼓の練習場として使用されていたようですが、
日本国太鼓とは、日本国という山から付けたものですが、
初めて目にすると、仰々しい名前で違和感があるでしょうね。。
日本国の山開きなどのイベントの際に、勇ましく打ち鳴らすそうですが、
人の気配もなくひっそりとしていました。
体育館の右側、樹木に隠れた校舎、さらに右側にも校舎が見えます。
体育館の半分にも満たない短い校舎です。
物置になっていますが、周りは雑草が蔓延り、長らく人の出入りも
ない様子です。
側面からみると、校舎の壁面は、豆腐を包丁で切った跡のように
綺麗に切断され、トタンで補修してありました。
往時は、手前まで長く伸びていたのでしょう。。
次に一番右手の校舎です。
こちらも、周りに雑草が茂り、蔓が電柱を登り2階の庇まで遠征しています。
校舎に使用感は無く廃墟感が漂っています。
中俣中学校跡の石碑
中学校も併設されていたようです。
かつて中俣村だった頃の校名ですが、中俣村は1955年(昭和30年)、
山北町の前身、山北村に吸収され消滅しました。
小俣は、中俣村の大字(村の地名の一つ)です。
校歌碑
一、渓流うずまく小俣川
色増すみどり 水に映え~
二、県境そびゆる日本国
歴史と語る古戦場~
小俣小学校(2004年閉校)
併設していた中俣中学校は1980年(昭和55年)に閉校となっています。
小学校は、近隣の大川谷小学校、中継小学校、雷(いかづち)小学校とともに
さんぽく北小学校への統合に伴い閉校となりました。 その後、
さんぽく北小学校も2019年(平成31年)3月、さんぽく南小学校と統合し、
2019年(平成31年)4月、さんぽく小学校(校舎はさんぽく南小学校の建物を利用)
として開校、全校児童は146名(2020年4月)です。
小俣小学校の1987年(昭和62年)の全校児童はわずか7名でした。
県道52号を堀ノ内まで引き返します。
2019年(平成31年)に閉校となった、さんぽく北小学校です。
年季の入った門柱も残っていましたが、2004年(平成16年)に閉校と
なった大川谷小学校の校門です。
さんぽく北小学校は、大川谷小学校の跡地に新築されたようです。
さんぽく北小学校の校章
Nを象ったマークは北(North)の意味でしょう。。
重厚で近代的な鉄筋校舎は、現役と変わりません。
敷地内に平屋の木造建物がありましたが、特別教室棟でしょうか。。
沿革碑
2004年(平成16年)開校
2019年(平成31年)閉校
わずか15年の人生に幕を閉じました。。
校歌碑
さんぽく北小学校(2019年閉校)
閉校になったばかりの校舎は、15年で使命を終えましたが、
校舎は見ての通り、まだまだ使用可能な状態ですから
地域の拠点として活用されることでしょう。
1987年(昭和62年)の全校児童(大川谷小学校)は257名でしたが、
2018年(平成30年)の全校児童(さんぽく北小学校)は76名まで
減少しており、過疎少子化が急速に進行していたことが分かります。
温出(ぬくいで)から県道248号を中継川に沿って南下します。
沿道から山裾に木造校舎らしき建物が見えました。
アスファルトの坂道を進むと、校舎と体育館が校庭の一角を囲むように
建っていました。
校舎は鉄筋2階建てです。
のっぺりとした長方形ではなく、くの字のように
曲がって校庭に対峙する姿が格好良いですね。。
校舎の全景
閉校から16年経過していますが、校庭も手入れされ
綺麗に保たれています。
現在は、中継ぎふるさとふれあいセンターとして使用されています。
鉄筋校舎と木造体育館も、くの字型に並んで校庭を見詰めています。
その間は、平屋の建物が3棟連なっていましたが、渡り廊下や給食室でしょう。。
さきほど沿道から校舎と見えたのは、木造体育館でした。
鉄筋校舎よりも存在感があり見応えがあります。
壁の中段、上段の木製の窓枠、外壁を支えるバットレス、
苔むす石段、手入れされた植栽、すべてに趣がありますね。。
カラフルな古タイヤの遊具
校庭の様子
木造屋形の付いた滑り台
雑草に埋もれたブランコと鉄棒
学校の入口に鎮座する校歌碑
一、緑に萌ゆる若杉の
伸びゆく姿 背にうけて
我らが母校 中継小学校~
中継ぎ小学校(2004年閉校)
さきほどの小俣小学校と同時期に統合に伴い閉校となりました。
地区のコミュニティセンターとして活用されていることもあり、
こちらは、綺麗に整備されておりました。
聞けば、中継ぎふるさとづくり委員会のメンバーにより
草刈りをされたそうです。
1987年(昭和62年)の全校児童は35名でした。