福島県下郷町の廃校休校巡り(2019/10/15)後編 | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前編に続き、下郷町の廃校休校巡り:後編です。

前編の記事は⇒ こちらへ

下郷町(しもごうまち)は、福島県南会津郡にある町です。
1955年(昭和30年)4月1日 楢原町(ならはらまち)、旭田村、江川村が

合併して誕生しました。

 

前編は、上図①~⑥まで掲載しましたので、

後編は、⑦~⑪となります。

 

下郷町中心部から戸石川に沿って県道346号(戸赤栄富線)を

西へ進みます。

安張集落の沿道、高台の木々の茂みに赤い屋根の校舎らしき

建物を見てバイクを止めました。

 

スロープを上がると、校舎の横顔が見えました。

地元の人たちも頻繁に足を踏み入れることもないのでしょう。

かつての校庭は、雑草天国となっています。

 

やはり、目立つのは、手前に聳え立つ携帯基地局の鋼管柱です。

周りは植樹で囲ってありました。

 

一見すると、空き家となった古い家屋のようです。

 

奥まで棟が連なっています。

 

手前が2階建て校舎

2階は板張りですが、1階はトタン張りの雑然とした感じです。

シャッターが取り付けられているのは、廃校後に倉庫として使用

されていたからでしょう。

 

奥に進むにつれ雑草の繁茂が激しさを増していきます。

こちらも玄関がありますが、教員住宅だったのでしょうか。。

 

分校跡の証となる石碑

1874年(明治7年)志源行村下等小学校設置
1920年(大正9年)楢原尋常小学校三ツ井分教場開校
1970年(昭和45年)楢原小学校本校に統合のため廃校

 

楢原小学校三ツ井分校(1970年廃校)

敷地が狭く、校舎の全貌を撮ることはできませんでした。

とにかく雑草が凄い勢いで茂っており、掻きわけて進むほか

ありませんでした。

創立百周年を迎えることなく廃校となった分校は、

ひっそりと身を横たえていました。

 

県道346号を引き続き西へ進みます。

下郷町の辺境に位置する集落の一つが戸赤です。

ここにも携帯基地局の柱が立っていました。

 

反対側からスロープを上がっていきます。

 

往時の銘板もしっかりと残っています。

 

昔から林業で栄えた村なのでしょう。

擬木の門柱は独特ですね。

 

1992年(平成4年)築の木造校舎

艶やかな木の温もりや香りが漂う校舎は、地元の良質な木材を

使用して建てられたからでしょう。。

 

誇り高き校章

校章が残っているのは、閉校後に校舎をリフォームしたのではなく、

現役で使用していたからでしょう。。

 

反対側から撮った校舎

 

「戸赤自然体験あそびの学校 やまざくら」

自然体験施設として活用されています。

 

校庭の様子

 

校庭の片隅に建つ閉校記念碑

 

楢原小学校戸赤分校(1999年休校、2005年廃校)

辺境にある分校ですが、想像以上に立派な校舎でした。

地図を見ると、この先に「木地小屋」という名の集落がありますが、

かつては、山深く分け入り、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の

木工品を加工、製造する木地師(きじし)と呼ばれる人たちがいたのでしょう。。

1987年(昭和62年)の分校児童はわずか3名でした。

 

県道346号を引き返し、下郷会津本郷線(県道131号)に折れて

中山峠を越えて大内宿方面に行く途中、沿道左手に平屋の

木造校舎が見えました。

 

玄関の近景

花壇も長らく手入れもされていない様子です。

 

「なかやま古民具館」の表札が掲げてありますが、現在は閉館と

なっているようです。

 

校舎の裏側は、野菜畑が続いています。

 

校舎裏に石柱が一本見えましたが、校門ではなさそうです。

 

裏の窪みに神社のお札が差し込んであります。

 

表側は古峯神社の石柱

大正元年に建立されたようです。

 

校庭の様子

遊具やモニュメント、記念碑などは見当たりませんでした。

 

窓越しに撮ったセピア色の読書感想画

 

楢原小学校中山分校(1993年休校、2005年廃校)

閉校後は、古民具館として活用されていたようですが、

現在は倉庫となっています。

1987年(昭和62年)の分校児童は3名でした。。

楢原小学校は、以下の7校の分校がありましたが、

すべて本校に統合されています。

下郷町立楢原小学校宮山分校(1961年廃校)
下郷町立楢原小学校栄富分校(1966年閉校)
下郷町立楢原小学校豊成分校(1979年閉校)
下郷町立楢原小学校弥五島分校(1979年廃校)

下郷町立楢原小学校三ツ井分校(1970年閉校)

下郷町立楢原小学校戸赤分校(1999年休校、2005年廃校)
下郷町立楢原小学校中山分校(1993年休校、2005年廃校)

 

県道131号を北上し大内宿に入ります。

大内宿は、江戸時代における会津西街道の宿場の呼称です。

会津藩が江戸時代初期に会津と江戸を結ぶ幹線道路の一つとして

整備したもので、廻米などの物資の輸送で栄え、会津藩主も参勤交代の

際にこの道を利用するなど重要な街道でした。

 

現在も、江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに

建ち並び、お土産や食事処など軒を連ねています。

かつては、道路の中央に設けられていた用水路は、明治中期に

埋め立てられ、道路の両側に側溝が掘られ洗い場となりました。

風情がありますね。。

これほど多くの寄棟屋根の古民家が、整然と並んでいるのを初めて

目の当たりにしました。

生憎の雨天にも関わらず、次から次へと観光客がバスから降りて

やって来ます。

 

大内宿 三澤屋

名物の高遠そば(ねぎそば)を賞味できます。

 

大内宿町並み展示館(大内宿本陣跡)

戊辰戦争で焼失した後に復元されていますが、風格がありますね。。

 

大内宿の街道の中間点から脇道に入ると、広い校庭と奥に

分校が見えます。

 

手前のオレンジ屋根の建物が体育館、奥が校舎です。

 

体育館の前はフェンスや放射線測定機器などが設置されて

雑然としています。

 

校舎の前は無機質なアスファルトで固められています。

 

2階建て校舎

かつては木造校舎でしたが、取り壊して建て直したところ

廃校になってしまったそうです。

 

雨上がりの校庭

 

校庭の片隅に並ぶカラフルな遊具

 

創立百周年記念碑

1973年(昭和48年)に百周年を迎えたということは、

1873年(明治6年)創立ですね。。

 

江川小学校大内分校(2005年廃校)

大内宿街道の雑踏から逃れるように脇道に入っていくと、

人影も途切れて嘘のように静かになります。

かつては楢原小学校の分校でしたが、通学区域の変更により

1957年(昭和32年)4月より江川小学校の分校となりました。

児童減により、高陦(たかしま)分校・枝松分校とともに

本校に統合され廃校となりました。

1987年(昭和62年)の全校児童は22名でした。

統合先の江川小学校も、2019年度の全校児童は59名と

決して多くはありません。。

観光地の陰で廃れていった校舎は何を思っているのでしょうか。。

 

大内宿から県道329号を湯野上温泉方面に進み、国道118号を

天栄村方面に走っていくと、高陦(たかしま)地区の集落の奥に

赤いトタン屋根の平屋校舎が建っています。

壁に色々な動物の姿が見えましたので、てっきり幼稚園かと

思いました。

 

玄関の近景

トタンの壁にサッシ扉の簡素な造りです。

 

校庭を向いたトランペットスピーカ

校舎の裏側

農機具の倉庫となっているようです。

トラクターが横付けされていました。

 

校庭の様子

付近の山々の稜線の奥にも山が突き出ています。

防災無線の鉄塔は、廃校後に建てたのでしょうか。。

 

遊具と花壇

 

古タイヤを埋め込んだ遊具

 

江川小学校高陦(たかしま)分校(2005年廃校)

門柱や表札、分校跡記念碑も見受けられませんでしたが、

他のサイトでも紹介されている通り、間違いないようです。

30年以上前から児童が少なく、1987年(昭和62年)の全校児童は

10名でした。