福島県西部の廃校休校巡り(2019/10/16) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

福島県西部一帯は会津地方と呼ばれています。
会津地方は、会津若松市、喜多方市を中心とした北側の会津エリアと、

南会津、桧枝岐、下郷などを中心とした南会津エリアにわかれますが、

今回は、上図の昭和村、金山町(かねやままち)、柳津町(やないづまち)、

会津坂下町(あいづばんげまち)の4町村を訪れました。

 

昭和村は、会津地方の西南部に位置し、昭和時代に入って誕生したのが

村の名前の由来です。沿革は以下の通りです。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制により、野尻村、大芦村が誕生。
1927年(昭和2年)11月23日 - 野尻村、大芦村が合併、昭和村となる。

 

金山町は、昭和村と同じく高齢化率が54.8%に達しており、

限界自治体となっています。沿革は以下の通りです。
1955年(昭和30年) - 沼沢村、川口村、本名村、横田村が合併し、金山村が成立。
1958年(昭和33年) - 町制施行により金山町となる。

 

柳津町は、河沼郡にある町で、もともと円蔵寺の門前町として発展してきて

現在は、磐梯高原、鶴ヶ城、尾瀬とならび会津を代表する観光地であり、

また奥会津観光の玄関口となっています。 沿革は以下の通りです。

1942年(昭和17年)5月20日 - 町制施行し柳津町となる。
1955年(昭和30年)3月31日 - 大沼郡西山村と合併し、柳津町を新設。

 

会津坂下町(あいづばんげまち)は、会津盆地の西部に位置しています。

町の中部から東側は盆地が広がり比較的平坦で、水田が多い一方で、

町の西側は山林が多くなっています。沿革は以下の通りです。

1955年(昭和30年)4月1日 - 坂下町、若宮村、金上村、広瀬村、川西村、八幡村が

合併して会津坂下町となる。
1960年(昭和35年)8月1日 - 耶麻郡高郷村の高寺・片門・束松地区を編入。

 

南会津郡下郷町から国道400号を北上、大沼郡昭和村に入ります。

途中から国道401号に折れ、喰丸(くいまる)トンネルを抜けて、

小野川集落に着きました。

沿道に鉄筋校舎の横顔が見えました。

 

門標もしっかりと残っています。

 

もう一方の門標は、中学校の分校です。

小・中一体型の学校だったようです。

 

かつては、木造校舎も建っていたようですが、現存校舎は1棟のみと

なっています。

 

正面玄関の近景

 

閉校後は、生涯学習センターとして活用されています。

 

広い校庭には、白線が引かれた跡が残っていましたので、

地域の何らかの行事で使われているのでしょう。。

 

校庭の隅に並んだタイヤの遊具

 

朽ちてしまったトーテムポール

 

無造作に放置されたグランドローラー

 

昭和小学校小野川分校(2002年休校、2013年廃校)

中学校は、2012年(平成24年)閉校となっています。

小学校は一足早く休校扱いとなっており、中学校の閉校を待ってから

廃校となったようです。

1987年(昭和62年)の全校児童、生徒は、小学校が15名、中学校が10名でした。

統合先の本校である昭和小学校、中学校においても、2019年(平成31年)4月1日

現在の全校児童、生徒はそれぞれ27名、13名と決して多くない数です。

 

喰丸トンネルを引き返し、丁字路に出ると国道400号を北上し、

次の目的地を目指します。

ほどなく、校舎が見えてきました。

イチョウの木の奥に、立派な木造校舎、そして隣にベージュの

モルタル校舎です。

 

ベージュの校舎は、渡り廊下で本校舎と繋がっていましたが、

廃校後は切り離されて倉庫となっていたようです。

本校舎のリニューアルに伴い、こちらも改装されて「SCHOLA」(学校)という

名前のカフェに生まれ変わりました。

看板が出ていますが、11時から営業とのこと、準備中でした。

ドリンクのほか、十割そばが有名だそうです。

 

やはり、目を引くのは本校舎です。

1年間の改修を経て2018年4月26日に再生したものです。

内部は耐震補強が施されていますが、外観は往時の面影や風合いを

十分に残しています。

手前の玄関は通用口で内部は物置になっていました。

 

板張り壁や窓の木枠の目も細かく、方眼紙のように精密で完成度の

高い建築物ですね。。

 

正面玄関の近景

扉も開放されていますしたので、来訪者用のスリッパに履き替えて

構内を見学しました。

 

職員室の廊下

 

1階の奥に1,2年の教室札、手前に3,4年の教室札が見えます。

閉校となる1980年(昭和55年)には、すでに複式学級だったのですね。。

 

児童と先生の時間割

 

2017年(平成29年)の改修工事の様子

基礎からしっかり組んで建て直したのですね。。

 

教室の様子

 

教育目標

1,2年生でも読めるように、ひらがなで書かれていますね。。

 

2階へ上がります。

ギシギシと板が鳴る音も心地よいですね。

 

2階から撮った階段の踊り場

 

2階の廊下

 

廊下の天井に吊るしてあるのは、児童らの作品でしょうか。。

発想が豊かですね。。

 

音楽室

錆びた達磨ストーブは、今では骨董品。

めったに見かけなくなりましたが、昭和40年代までの遺物ですね。

 

年季の入ったオルガン

 

かつて着用していた蓑が展示されていました。

風雪から身を守るための必需品だったのでしょう。。

 

2階は5,6年生の教室や図書室が設けられています。

 

往時の授業風景が復元されています。

いないのは児童と先生だけです。。

それにしても、机や椅子が小さすぎませんかね。。

 

壁時計の両側に掲示された5年、6年生の教育目標

 

学校行事や村人たちの働く様子(1965年制作)を描いた児童作品

 

右上の絵は学校と周りの風景ですが、

往時は、黄色い壁の棟(体育館?)が建っていたのですね。。

 

銀色に輝く校章は、1969年(昭和44年)度の卒業記念制作です。

 

「先生方のにがお絵」は、1967年(昭和42年)2月の児童作品です。

小生も、絵が不得意なのに描かされた苦い思い出があります。。

似顔絵の先生方の多くは、すでに学校だけでなく、この世を去って

おられることでしょう。。

 

再び校庭に出てみます。

何といっても大きな存在感を放っているのが、イチョウの大木です。

木造校舎と並んでも見劣りしません。

夜間はライトアップされるようです。

 

往時から学校のシンボルツリーとなっていたようです。

紅葉の頃は、校庭は黄金の絨毯と化し格別の風景となります。

 

もう一本立っていましたね。

 

テーブルに心尽くしの花

来訪者を温かく迎える優しさが伝わります。

 

学校の沿革碑(抜粋)

1873年(明治6年)創設

1908年(明治41年)喰丸・小野川の分教室を統合し喰丸尋常高等小学校設置

1937年(昭和12年)6教室2階建て校舎落成

1961年(昭和36年)講堂兼体育館落成

1964年(昭和39年)2教室2階建て校舎増築

在校児童は、最盛期の1961年(昭和36年)が116名、

1979年(昭和54年)には28名まで減少しています。

 

裏面の校歌碑

「野尻の川の清い水」に始まり、

「豊かな日本築きあげ 平和な世界ひらくのだ」と結んでいます。

 

喰丸(くいまる)小学校(1980年閉校)

築80年を迎えた校舎は、老朽化のため取り壊される運命でしたが、
映画「ハーメルン」のロケ地になったことで解体は延期され、

村人たちの尽力により、1年間の改修を経て新たな観光・交流拠点として

息を吹き返しました。

解体の危機を乗り越えた喰丸小学校、今では目の覚めるような

美しい木造校舎となっています。

樹齢100年を超える大イチョウも胸をなでおろしていることでしょう。。

 

引き続き国道400号を北上、野尻地区の沿道、空地の入口に

門柱と表札が残っているのを見付けて立ち寄りました。

 

アスファルトの動線の向こうに薄茶色の校舎らしき建物と体育館が

並んで建っています。

 

特に校舎らしき建物は、洒落た外観で目新しいものです。

 

校舎らしき建物の全景

後日確認したところ、かつて校舎が建っていたが解体されてしまい、

その跡地に新たに建てたもので、学校とは関係ないそうです。

 

村の高齢者コミュニティ、伝統織技能センターとなっています。

 

側面

 

縦長で上部に半円形の窓、レンガの縁取りが施されていて

洋風の洒落たデザインです。

 

野尻小学校(1980年閉校)

入口の門標のほかには、閉校記念碑や学校跡を表す石碑も

見当たりませんでした。

現存しているのは体育館のみです。

沿革をみると、以下の通りです。

1959年(明治34年) 野尻小学校として独立
1980年(昭和55年) 喰丸小学校、下中津川小学校、大芦小学校、

大芦小学校畑小屋分校と共に昭和小学校に統合。

1980年(昭和55年) 昭和村立昭和小学校へ統合の為、閉校。

 

野尻川の清流

 

引き続き、野尻川に沿って国道を400号を北上、昭和村から金山町へ

入ります。

玉梨地区の集落を見下ろす高台を上がると、木立の間から

高原ロッジような建物が姿を現します。

 

門標はしっかりと確認できました。

歩を進めると。。

 

アルプス山麓に降りたような、洋風の木造校舎が迎えてくれました。

 

反対側から撮った校舎

赤い屋根が青空に映えますね。。

 

筋交いに組んだ外壁がエキゾチックですね。。

 

正面玄関の近景

 

レトロな自販機

かつては缶よりも瓶が主流でした。。

 

体育館

 

手前に突き出した板張りの小屋は倉庫でしょうか。。

玄関のルーバーや奥のバットレス壁も木板で囲ってあります。

 

校庭の様子

 

玉梨小学校(1977年閉校)

見応えのある校舎は1938年(昭和13年)に建てられたヨーロッパ風の

美しい2階建て木造建築です。

閉校後は、金山町の自然教育村会館として研修や合宿ができる施設と

なっているようです。

 

国道400号をさらに北上し、三島町を経て柳津町(やないづまち)に入ります。

県道32号を西山温泉方面に南下、途中で県道59号に折れて、人家もない

細い道を走っていくと久保田集落に辿り着きます。

空地にプレハブのような建物が2棟並んでいます。

 

手前が体育館、奥が校舎です。

 

正面玄関の近景

事務所の入口のように殺風景な感じです。

 

玄関の窓にステンドグラス

無機質な玄関にあって、メルヘンチックなタッチで描かれているのが

対照的ですね。。

 

玄関内部の様子

黒い柱時計の横に「真善美」の揮毫色紙が掲示してあります。

 

「古代の文明」

カラフルな貼絵は1970年(昭和45年)度の卒業記念制作です。

 

久保田写真館と称して、学校行事の数々の思い出が貼ってあります。

 

和太鼓も何かのイベントで使用していたのでしょう。。

 

掃除は、まず無言で行うべき活動だったのですね。。

 

こちらの教室は、段ボールや備品などが無造作に置いてありました。

 

廊下も、地区の運動会で使用した飾り物が放置してあり雑然としています。

 

閉校記念碑

「柳津 久保田小学校~

水影きよい この郷を 胸にわすれず すすみましょう」

1966年(昭和41年)4月制定の校歌です。

 

久保田小学校(2005年閉校)

沿革をみると、以下の通りです。

1873年(明治6年) 砂子原小学校久保田分校として創立。

1876年(明治9年) 久保田小学校として独立。

村人たちの悲願が叶い、独立したものの山奥の小学校では

少子高齢化に対抗することもできず2005年(平成17年)に

閉校となってしまいました。

1987年(昭和62年)の全校児童は15名でした。

 

国道252号を北上、赤べこに見送られ、柳津町を出ます。

赤べこの発祥地だったのですね。。

 

磐越自動車道、会津坂下IC付近の田園広がる脇道に、坂本分校の

看板を見付けて立ち寄ります。

閉校後は「里山のアトリエ」として利用されているようです。

道の向こうに2階建て校舎が見えました。

 

近付いてみると、先ほどの白いモルタル校舎に平屋校舎が

くっついています。

 

平屋校舎は戦前に建てられたもので、2階建て校舎は戦後に増設されたようです。

校舎の前には花壇、そしてアート作品のモニュメントが建っています。

 

戦前の平屋木造校舎(全景)

 

老朽化した校舎の前で深紅の立葵が咲き乱れていました。

 

摺りガラスに木枠の窓

壁は板張りでも、窓はサッシに代わってることが多い廃校の中では

貴重な存在ですね。。

 

玄関の近景

伸びすぎた植栽が邪魔ですが、これもアートの一部でしょうか。。

 

構内を見学指せていただきました。

玄関を入った隣の部屋は「体操場」の室札が掛かっています。

積雪の多い地方で見かける屋内運動場のことでしょう。

 

低い天井の部屋の中には、長テーブルやパイプ椅子、壁際に

ベンチソファーが置かれ、奥のステージにはドラムやギター、

音楽機材などが見えます。

演奏会も催されるんでしょうか。。

アート作品の彫刻像も散見され、雑然とした雰囲気です。

 

壁に横付けにされたピアノ

ピアノの上にもアート作品が所狭しと置いてあります。

 

2階建て校舎の入口

1960年(昭和35年)6月18日に落成したものです。

 

1年生の教室札

 

室内は外観よりも目新しく感じましたが、アート制作中なのか、

こちらも作業小屋みたいに雑然としています。

 

2階へ上がる階段の壁に、何故か寝台列車の行先プレートが。。

 

2階の壁にもプレートが、アート作家は鉄道ファンなのでしょうか。。

 

2階の教室を覗くと、鉄道模型のジオラマで占領されていました。

 

聞けば、鉄道ファンのために開放しているそうです。

黒板には、見学者への注意書きが書いてありました。

当日は、鉄道ファンを一人も見かけませんでしたが。。

 

再び構外へ出てみますが、学校跡を示す石碑等は見当たりませんでした。

錆びたブランコや雲梯などが残っているのみです。

 

八幡小学校坂本分校(2005年休校、2006年廃校)

白いモルタル2階建て校舎は、1960年(昭和35年)に完成、

平屋木造校舎は、1932年(昭和7年)に建てられたものです。

背の高さも世代も親子のように違いますが、仲良く並んで立つ姿は

微笑ましくもあります。

廃校後は内部を補修し、2007年4月から「里山のアトリエ」として再生、

体験教室などを開いているそうです。

国道49号まで100mも離れていませんが、田園に囲まれた長閑な

場所にあります。

1987年(昭和62年)の全校児童は8名でした。