群馬県中東部の廃校休校巡り(2019/03/11) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は、群馬県中東部の廃校休校巡りですが、具体的には

上図の3市になります。

 

桐生市(きりゅうし)は、群馬県の東部に位置する、人口約11万人の都市です。

奈良時代から絹織物の産地として知られ、桐生織は京都の西陣織に比肩する

伝統があります。

2005年(平成17年)に勢多郡黒保根村(くろほねむら)、新里村(にいさとむら)を

編入したため、みどり市を挟んだ飛び地となっています。

 

みどり市は、2006年(平成18年)3月27日に新田郡笠懸町(かさかけまち)、

山田郡大間々町(おおまままち)、勢多郡東村(あずまむら)が合併し、誕生しました。

群馬県初のひらがな名の市です。

みどり豊かな自然を大切に守り共生していくことをイメージして選定されました。

代表的な河川である渡良瀬川が中北部を縦断し、わたらせ渓谷鉄道が並行して走っています。

 

渋川市(しぶかわし)は、群馬県のほぼ中央、関東平野の最北西部に位置する市です。
古くから宿場町として、近代でも県内の交通の要衝として栄えてきました。

2006年(平成18年)2月20日 (旧)渋川市と北群馬郡伊香保町(いかほまち)、

小野上村(おのがみむら)、子持村(こもちむら)、勢多郡赤城村(あかぎむら)、

北橘村(きたたちばなむら)の新設合併により、現在の渋川市となりました。
 

北関東自動車道、太田桐生IC下車後、国道50号、国道122号を進み、

桐生町2丁目の交差点過ぎると沿道に洋風建築が見えてきます。

 

コンクリート塀の表札は、多少読み難いですが、

「重要文化財 旧群馬県衛生所」

「桐生明治館」 の2枚の銘板がありました。

 

もとは、1878年(明治11年)に衛生所兼医学校として、前橋市に

新築されたものですが、廃校後は県立女学校、師範大学付属小学校に転用、

1928年(昭和3年)、相生村(現桐生市相生町)が払下げを受け、村役場として

現在地に移築しました。

 

1976年(昭和51年)に「旧群馬衛生所」として重要文化財に

指定されたことから、1984年(昭和59年)から3年がかりで補修、

整備され創建当初の姿に復元されました。

内外部の塗装も往時の色調です。

 

凝った切妻飾り、金色の紋章も輝いています。

 

桐生明治館(日本国重要文化財)

両翼とも左右対称の調和の取れた外観、一本一本装飾を施した柱や

ベランダの手摺が優雅さを演出しています。

明治初期の疑洋風建築を今に伝える貴重な校舎です。

訪問日はあいにく休館(毎週月曜)でしたが、明治期のピアノやオルガン、

洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されています。

 

国道122号を渡良瀬川に沿って北上します。

みどり市内に入り、わたらせ渓谷渓谷鉄道、花輪駅付近に差し掛かると

歴史ある美しい校舎を目にすることができます。

ちょうど、入口に看板が見えました。

 

山を背に立派な木造校舎が待ち構えていました。

 

下見板張りの外壁に郷愁が漂います。

窓枠はサッシに替わっていましたが、突き出たストーブの煙突から

冬場の厳しさが伝わってきます。

 

破風の校章も美しいデザインです。

 

正面の階段から撮った校舎

玄関と2階中央、上下2段の切妻屋根の堂々とした姿に

思わず圧倒されます。

 

正面玄関の近景

玄関扉の左右、上部は表札や標語で囲まれています。

 

団体入口にも素朴な標語が。

 

学校の入口には「童謡の里」と刻んだモニュメントが立っています。

童謡「兎と亀」の作詞をした、童謡の父と称される石原和三郎を

輩出したことを記念に建立されたようです。

 

先ほど見た正面玄関には、歌詞を刻んだ台座に亀が載っていましたね。

反対側には、1番の歌詞の台座に兎が載っていました。

 

閉校記念植樹の石碑

 

二宮尊徳像

ここでは、兎と亀にお株を奪われているようですね。

 

花輪小学校(2001年閉校)

1873年(明治6年)開校の歴史と伝統ある学校です。

現在の校舎は、卒業生で日本鋼管の創立者である今泉嘉一郎の寄付により

1931年(昭和6年)に建てられました。

1990年には120名の全校児童がいましたが、あずま小学校への統合に伴い

閉校となりました。

閉校後は、「旧東村花輪小学校校舎」として国の登録有形文化財の指定を受け、

2003年(平成15年)、「旧花輪小学校記念館」として開館し現在に至っています。

当日は休館日(土日のみの開館)のため館内は見れませんでしたが、

往時の面影をそのままに保存されています。

校庭に保育園が増築されたため、校舎の全景が撮れないのが残念ですが、

美しい木造校舎は健在です。

「日本木造校舎大全」の著者、角皆尚宏氏は「花輪小学校の気品ある佇まいに

強く惹かれ、私の木造校舎撮影の旅が始まった。」と記しています。

 

引き続き国道122号を北上、わたらせ渓谷鉄道、小中駅付近を走っていると

眼下に2棟の校舎がひっそりとした佇まいをみせています。

手前が木造の旧校舎、奥がモルタルの新校舎です。

 

下りてみると枯草の荒野に梅が咲いておりました。

廃れた木造校舎に一層の哀愁が漂います。。

 

校舎の表側は、意外にもしっかりしていました。

改装はしていますが、1934年(昭和9年)竣工の年季の入った校舎です。

 

下見板張りで仕上げた壁から木の温もりが伝わって来ます。

 

薄茶色のモルタル校舎は、1959年(昭和34年)竣工です。

 

二宮尊徳像

 

二棟の校舎は、傾きかけた屋根の渡り廊下で繋がっています。

 

校庭側から見た校舎がより一層見応えがあり圧倒されます。

 

日差しの加減で、薄いピンクに染まった校舎は雰囲気も明るくなった

感じがしますね。。

 

割れた窓ガラスからレンズを向けて撮った教室

 

長い煙突の石油ストーブはもう使わないのでしょうかね。。

 

最後の黒板は、修了式、大掃除で終わっていました。。

 

校庭の様子

遊具がないと殺風景で寂しいですね。。

 

風化して判読が難しくなった校歌

 

杲小学校(ひので)小学校(2001年閉校)

難読の校名です。地名でもなさそうですが、詳細は不明です。

1874年(明治7年)創立の歴史ある小学校は、二棟の校舎を擁し

それなりの児童がいたのでしょう。

1990年には143名の全校児童がいましたが、あずま小学校への

統合に伴い127年の歴史に終止符を打ちました。

 

引き続き国道122号を北上します。

渡良瀬川を堰き止めて造った草木湖、赤いトラス構造の草木橋を

横目に上流へと進みます。

橋の辺りに草木駅があったそうですが、1973年(昭和48年)に

草木ダムの建設に伴い廃止となり、駅跡は湖底に沈みました。

 

さらに国道122号を北上し、東町草木地区から沢入(そうり)に入ります。

沿道から見ると、3棟の校舎が背中を向けて並んでいます。

1棟は、灰色の瓦屋根にベージュのモルタル校舎です。

 

2階の窓には、サーカス学校を運営するNPO法人の名が貼ってあります。

日本で唯一、サーカスや大道芸を目指す若者を育成する4年制の学校ですが、

慢性的な生徒不足による経営難のため、2018年9月から休校となっているようです。

 

2棟目は寄棟屋根の木造校舎です。

敷地内には、中学校もあったようですが、1967年(昭和42年)に

東中学校への統合に伴い閉校となっています。

 

3棟目は、赤いトタン屋根のモルタル校舎です。

 

校庭まで下りて表側に回ると、このように並んでいます。

 

3棟の中で一番大きい校舎です。

 

キャッチャーが構えるのは、コンクリートの投的板

 

海の生物や数字も、子供らの投げるボールの的になっていたのでしょう。

 

閉校後も植栽は手入れされているようです。

 

花壇のビオラも横一列に整列していました。

 

玄関の表札には「いきがい」とありました。

調べたところ、沢入地区共同交流生活ハウスの名称で、

高齢者用の福祉施設として活用されているようですが、

人の気配は感じられませんでした。。

次に木造校舎、そしてサーカス学校が入っていた校舎です。

 

外壁の右側は一部モルタルで、サッシ扉の入口があります。

 

側壁の校章

濃淡のブルーを基調としたデザインは、快晴の空に山あいを下っていく

渡良瀬川の渓流を表しているのでしょう。

 

かつては、石段を上がって校舎へ入る正面玄関だったのでしょう。

羽目板とサッシ窓で3面を塞いで改修したものと思われます。

 

その隣が、サーカス学校だった校舎です。

休校中のためか人影もなく静まり返っていました。

蒲鉾屋根の体育館

 

石垣の上にメルヘンチックな壁画

 

周囲の雰囲気とは好対照の明るいアート

ここでサーカス技を教えていた講師で「テシェンコワ・ナジェイジダ」という先生が

おられ、ウクライナ共和国のキエフ国立サーカス学校の本場の先生だったとのこと。

2018年9月休校になった際に、太陽に見立てた本人が手を振ってお別れに笑みを

浮かべているようにみえます。

明るい色調は、ウクライナの国旗と同じ青と黄色を基調としたものです。↓

青は水、黄色は太陽を表しており、長い間ウクライナ人のシンボルとして使われています。

 

プールの壁画は子供らが描いた魚たちです。

 

1987年度(昭和62年)の卒業記念碑

卒業生は11人(担任先生1人)だったようです。

 

沢入(そうり)小学校(2001年閉校)

1990年には51名の児童がいましたが、花輪小学校、杲小学校とともに

あずま小学校への統合に伴い閉校となりました。

その後、1棟は高齢者用の施設となっていますが、もう1棟は

昨年まで沢入国際サーカス学校として使用されていました。

サーカス学校は、生徒不足により休校中ですが、再開の陽射しが当たる日は

来るのでしょうか。。

 

関越自動車道、昭和IC下車後、県道255号を利根川沿いに南下し、

渋川市赤城町棚下地区に入ります。

大山祇神社の隣に平屋校舎が残っています。

 

渋川市に合併前の赤城村だった頃の表札です。

 

もう一方の門柱には、昭和天皇の御成婚記念日の1924年

(大正13年)1月26日が刻まれていました。

 

手前の黒い瓦屋根の建物は講堂、奥が校舎です。

 

赤城山麓に抱かれ、ひっそりと佇む姿は哀愁が漂います。。

 

1895年(明治28年)開校。

1907年(明治40年)に地元の村民が民営で建設した木造校舎です。

 

正面玄関の近景

サッシ戸の簡素な造りです。

 

側壁に立て掛けた「赤城工房」の看板

1999年廃校後の再利用として、木工家メンバーにて設立した工房で、
陶芸・染色等のクラフト作家など5名で構成されているそうです。

 

声を掛けると奥のアトリエから足音がしました。

構内を少し案内して頂きました。

 

旧講堂は、雑然としていますが、木工の作業場となっていました。

 

図書室は作品展示室の名札が掛かっていました。

 

本棚には児童書がいっぱい、往時のまま残っています。

 

創立百周年記念碑

 

清掃用具やゴミ箱置き場に押さえつけられた学校の看板

 

蔓のような木枝に潰されて崩壊した百葉箱

 

過ぎ去った車の轍が残る狭い校庭

 

棚下小学校(1998年閉校)

分校のようなこじんまりとした平屋校舎です。

1990年の全校児童は27名、少子化により津久田小学校への統合に伴い

103年の歴史に幕を下ろしました。

1999年から「赤城工房」として使用されています。

聞けば、校舎の災害指定問題と老朽化問題に伴い、渋川市との

契約更新ができなくなった為、2019年3月をもって新工房へ移転とのことです。

次回訪れるときは、解体されているかもしれません。。