栃木県中南部の廃校休校巡り(2019/03/10) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は、栃木県中南部の廃校休校巡りですが、具体的には

上図の5市となります。

構成は、佐野市:1校、栃木市:1校、小山市:1校、宇都宮市:1校、

鹿沼市:4校の計8校を訪れました。

校数としては、鹿沼市が半数を占めています。

 

宇都宮市は、栃木県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地です。

1996年4月1日より中核市に指定されています。
北関東の都市としては最大の人口です。(約52万人)

市内には餃子を扱う飲食店が専門店を含めて約200軒あり、

「餃子の街」として全国的に有名です。

 

鹿沼市(かぬまし)は、宇都宮市と同様に栃木県の中部に位置する市です。

1948年(昭和23年)10月10日 上都賀郡鹿沼町が市制施行し、初代鹿沼市が発足。

2006年(平成18年)1月1日 上都賀郡粟野町を編入し市域に拡大し、現在の鹿沼市に

至っています。

 

北関東自動車道、佐野田沼IC下車後、県道16号、県道201号を

北上すると、三好小学校(現役)の校地に古い木造校舎が建っています。

瓦葺き、寄棟屋根の平屋校舎です。

 

往時の門柱も残っています。

 

「三好尋常高等小學校」

尋常高等小學校は、国民学校令が施行される1941年(昭和16年)

より前の小学校です。

 

もう一方の門柱には、大正天皇即位を記念して建立したことが

刻まれています。

建立年月は、1915年(大正4年)6月です。

 

前庭も綺麗に手入れされています。

 

懐かしい丸ポスト

かつては、全国各地の小学校に学習用として設置されていましたね。

 

佐野市の有形文化財となっています。

 

威厳と伝統を感じる玄関ポーチ

 

玄関の鬼瓦には、校名が施されています。

 

1911年(明治44年)5月築の平屋木造校舎ですが、保存されているのは

管理棟となります。

音楽室、教員室、裁縫室の3室が入っており、往時は南北に

建っていたようです。その後の移築により東西に向きが変わっています。

 

廊下の様子

当日は開館していたので内部を拝見しました。

 

アンティークな壁時計

振り子は止まっていました。

 

火事に活躍したポンプ車

どれくらいの消化能力があったのでしょうか。。

 

往時の消防士が着用していた法被

燃えたりしないのでしょうかね。。

 

今でも日曜などに消防団員が集まって、いざという時に備えて

水利施設の確認や、消防車の放水訓練をされているのを各地で

見受けますが、かつての手押しポンプ式では大変な重労働で

沈火するまで長時間を要したものと思われます。。

 

旧田沼町はの農業が盛んであったため、かつて使用されていた鍬や

鋤などの農具が展示されていました。

 

籾の脱穀や糸巻きの手動具、数種類の鋸もありました。

 

タンスや火鉢等の調度類、硯等の文具です。

 

尋常高等小學校の教科書

 

旧三好小学校校舎(佐野市指定有形文化財)

1972年(昭和47年)佐野市内での中学校の統廃合により、

廃校となった三好中学校を三好小学校として転用、空になった旧校舎は

「佐野市郷土資料保存三好館」として活用され、郷土の歴史、民俗等に

関する資料が保存されています。

所在地:佐野市岩崎町1325-1

入館料:無料
開館日  第2,4日曜日
開館時間  10時~15時
 

三好小学校(現役)

校地に近代的な校舎が建っており、旧木造校舎とは対照的です。

2013年4月に近隣の野上小学校を統合し、20名の児童が仲間入りし

新生スタートしています。

2018年度の全校児童は111名です。

 

東北自動車道、栃木IC下車後、県道32号を経て栃木高校へ向かう途中、

近隣の市街地を走っていると洋風建築が目に入りました。

玄関には、「院病木栃」、右書きの文字が見えますので、戦前までに

建てられたものでしょう。。

高く伸びたヤシの木を目の当たりにして、南国情緒が漂いますが、

沖縄や九州ではなく栃木です。。

 

栃木病院(国登録有形文化財)

1913年(大正2年)、当時の院長が栃木高校講堂の設計者に依頼して

完成したものと伝えられている木造2階建ての洋風建築物です。

屋根をよく見ると、左側は切妻、右側は入母屋で左右対称ではなく、

全体的に変化に富んだ外観です。

外壁は、柱や筋交いを剥き出しに見せるハーフティンバー形式で

英国や北方ヨーロッパによく見られる建築様式です。

 

寄り道をしましたが、ほどなく栃木高校に着きました。

 

すぐ目に付くのが、古風な2階建て木造建築です。

 

旧栃木中学校記念図書館(国登録有形文化財)

 1914年(大正3年)11月、大正天皇の来校を記念して建てられました。

元来は1階は図書室、2階は同窓会の集会所として使用されていましたが、
現在、一階は学習室、2階は囲碁将棋部の活動や小集会場として活用されて

いるそうです。

 

近くに同じ色合いの平屋建築があります。

旧栃木中学校講堂(国登録有形文化財)

1910年(明治43年)に建てられた講堂建築です。

外壁は、薄ピンクの下見板張りに朱色で枠組みを構成しています。

さきほどの栃木病院と同じ設計者です。

上部半円型のルネッサンス風の窓は両開きではなく、

上下に開閉する窓枠を組み合わせた凝った造りです。

 

栃木市街から県道44号を東へ進み、県道18号を南下、

小山市に入ります。

飯塚地区の摩利支天塚古墳公園に着きました。

摩利支天は陽炎を神格化した女神で、日本では武士の間で

信仰されていたようです。

 

古墳の入口にあった解説板

摩利支天塚古墳は、5世紀~6世紀初頭にかけて築造されたと

推定される栃木県内最大規模の前方後円墳だそうです。

 

公園をさらに進むと雑木の中に校舎らしき建物が見えました。

 

門柱まで近付いて行きますが、表札の文字は消えていました。

 

裏側に回っても1階はシャッターが閉まっており、倉庫となっているようです。

 

往時に使用していた下駄箱でしょうか。。

無造作に放置されていました。

 

羽川小学校飯塚分校(1977年閉校)

特に学校跡を表す記念碑やオブジェは見当たりませんでした。

沿革を調べたところ、

1910年(明治43年) 「飯塚単級学校が分教場となる。」との表記があり

分校としての歴史はここからスタートしたようです。

統合先の羽川西小学校ができるまでは、1年~3年生が通っていたそうです。

小山市では近いうちに機能を廃止し、解体予定とのことです。。

 

粟野小学校(現役)

鹿沼IC下車後、樅山(もみやま)町を経て県道15号を西へ進みます。

県道246号へ分岐する粟野川沿いに木造校舎が建っています。

 

隣の体育館も木造ですね。

2014年(平成26年)3月に完成した近代的な木造校舎です。
全校児童は119名です。(平成30年10月現在)
2015年(平成27年)3月までの校名は、粟野第一小学校でした。

 

口粟野地区の県道246号から脇道に少し入った場所に粟野中学校の

旧校舎を訪ねました。

ブロック塀のような門柱に表札が残っています。

鹿沼市に編入前の粟野町の頃のものです。

 

広い校庭に数棟の建物が並んでいます。

 

手前の蒲鉾状の建物は体育館です。

錆びついたトタン屋根は外壁と変わらぬ赤茶色になろうとしています。

 

やはり、見応えのあるのは美しい木造校舎です。

1949年(昭和24年)築で、新校舎に移転する2003年(平成15年)3月まで

使用されていました。

 

玄関横のアカマツもよく似合っています。

 

下見板張りの壁に木枠の窓

2階に照明灯2基

櫓の上にラッパ型スピーカ2基

どれも賑やかに校庭を走り回る子供らの姿を見守ってきた者たちですね。。

 

遠方から見た豊かな枝振りのアカマツは2本が重なって見えたものでした。

 

正面玄関の近景

 

国登録有形文化財に指定されています。

金メダルの勲章のように誇らしく輝いていました。

 

黒い銘板に校歌が刻まれています。

「金色の雲 流れ行く~」

1970年度(昭和45年)の卒業記念制作です。

 

中学校跡地を表す石碑

 

旧粟野中学校(2003年新校舎へ移転)

林業で栄えた旧粟野町の歴史を今に伝える木造校舎です。

長大な校舎は73mの廊下があります。

保存状態も良好で、映画やドラマのロケにも使われているようですが、

今後もずっとこのまま大切に残してもらいたいと願います。

 

引き続き、県道246号を粟野川に沿って上流へと進みます。
中粟野地区に閉校となった校舎が残っています。

 

ベージュを基調とした2階建て鉄筋校舎です。

 

山あいの静かな場所では、人影もありません。

校庭に向いたラッパ型スピーカーや手洗い場も

子供らの声を耳にすることもなくなり淋しそうです。。

 

さきほどの中学校と同じように正面玄関に松が立っています。

 

壁の銘板からすると、2006年の鹿沼市への編入後も存続していたことが

分かります。

 

松の木の下では、大きな目玉のカエルがギロッと見ています。

こちらも一瞬ドキッとしました。。

いつ、何故に、ここに鎮座しているのか分かりません。。

 

畏まってみえる二宮尊徳像

 

校舎落成記念碑

 

校庭には、人の気配も無く静まり返っていました。

 

枯草の校庭に古タイヤの遊具

 

水仙だけは笑顔で迎えてくれました。。

 

粟野第二小学校(2011年閉校)

過疎少子化により、粟野第一小学校(現:粟野小学校)への統合に

伴い閉校となりました。

1987年(昭和62年)に50名いた全校児童は、閉校時は10名でした。。

不釣り合いなほど大きい校舎と広い校庭で過ごした最後の児童達は、

特大サイズの服を着せられたような気分だったかもしれませんね。。

 

第二小学校から7kmほど県道を北上した入粟野地区の沿道に

平屋校舎が見えました。

 

校地はフェンスで囲まれており、正門も柵が敷設されています。

 

というわけで、柵から手を伸ばして横向きに撮るしかありませんでした。

こじんまりとした平屋木造校舎です。

 

長らく手入れもされずに伸びすぎた植栽が校舎を脅かしています。

 

国旗掲揚台も畏まっているようです。。

 

殺風景な校庭

 

校舎の裏側には、3棟ほど小屋が見えますが、

トイレや倉庫でしょうか。。

 

沿道のバス停は、「笑楽館前」

閉校後の一時期は、地域活性化施策により山村ギャラリーとして

使用されていたようですが、閉館している様子です。

 

粟野第三小学校(1992年閉校)

粟野川の上流、かなり山奥まで入った自然豊かな場所に佇む小学校です。

1990年の全校児童は10名でしたので、最後は数名だったと思われます。

粟野第二小学校への統合に伴い幕を下ろしました。

1991年度の全校児童は10名でした。

 

鹿沼ICまで戻り、県道6号、2号を経由して宇都宮高校にやって来ました。

正門には「瀧の原會館」とグリーンの文字が見えます。

現役校のため、総務に許可を頂いて立ち入りました。

 

「瀧の原主義」の石碑

校地のある地名が滝の原、校訓の「滝の原主義」を体現する学生を

「滝の原男児」と呼ぶそうです。質実剛健といったところでしょうか。

笹川臨風は1901年(明治34年)からの校長で、校風を変えるため

滝の原精神を築いたと言われています。

 

神殿のような玄関ポーチや破風の飾り、端正に並んだ縦長の窓に

気品とこだわりを感じます。

 

日光杉並木の木材を使用した瀟洒な校舎です。
1957年(昭和32年)全面的に塗り替えられ、「白亜館」の名で

親しまれてきました。

 

校舎裏も白一色です。

 

宇都宮高校旧本館(国登録有形文化財)

1893年(明治26年)に建築された、県内最古の学校建築です。

1階は事務室・職員室・校長室などが2階は大きな講堂があります。

新校舎の建設などに伴い敷地内での移転を繰り返し、1989年(平成元年)に

現在地に至っています。

現在は、「瀧の原会館」として宇都宮高校の教育関係の資料などが

保存されています。