長崎県南島原市の廃校休校巡り(2017/08/12) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県島原半島南部に位置する市です。

2006年(平成18年)3月31日、加津佐町・口之津町・南有馬町・北有馬町・西有家町・有家町
・布津町・深江町が新設合併し誕生しました。

北部は島原市、西部は雲仙市と接しており、有明海をはさんで熊本県天草地域に面しています。

気候は温暖で、適度な降雨量もあり、日照時間にも恵まれています。
 また、日本最初の国立公園である雲仙天草国立公園及び島原半島県立公園に指定されており、
雄大な山々と美しい海を併せ持った風光明媚な地域です。
同市一帯では、戦国時代から江戸時代初期にかけて、キリシタン大名の有馬氏の統治のもと、

キリスト教信者が増加しましたが、その後、江戸幕府より禁教令がしかれたため1637年(寛永14年)に

島原の乱が勃発しました。

一揆軍は原城跡に籠城し抵抗を行ったが、幕府軍に鎮圧されました。

現在では、往時の名残を留める史跡が多く残っています。

 

島原半島西岸に沿って国道251号を南下し、雲仙市から南島原市に入ります。

沿道に立つ「本朝二十四孝の一人安永安次生誕の地」の看板を目印に左折して山側へ

進みます。

集落の中心に閉校となった校舎が見えました。

正門の表札も往時のままです。

 

校名を頭文字にした交通安全の標語

綺麗にまとまっていますね。。

 

石積の基礎に「希望」の文字が。

1985年(昭和60年)3月制作の卒業記念作品です。

基礎の上に何かしらのモニュメントがあったのかもしれませんが、

詳細不明です。

 

創立百周年記念碑のタイムカプセル

1983年11月9日建立されたものですが、埋めたカプセルはいつ開けるのでしょうか。。

 

校舎は立派な鉄筋2階建て校舎です。

 

反対側に回ると、渡り廊下で木造校舎と繋がっていました。

 

閉校後は地域の交流館となっているようです。

津波見地区は江戸時代に本朝二十四孝に列せられた孝子、安永安次の故郷であると

言われており、「孝子の里」の由来となっています。

 

真夏の日差しを浴びた季節の花々が楽しそうに出迎えてくれました。

花壇は閉校後も手入れされているようです。

 

歓迎の言葉に釣られて歩を進めます。

 

児童達が遊んでいた一輪車

閉校時の全校児童は十数名だったのでしょう。

 

終わってしまった閉校までのカウントダウン

 

地域交流の場としてカフェもあり、飲食もできますが、貼り紙の日にちを見ると

土曜日限定となっているようです。

 

校舎の奥に蒲鉾状の体育館があります。

校庭は綺麗に整備されていました。

 

校庭の隅に窮屈そうに並べられた遊具やサッカーゴール

古タイヤが雑然と置かれていました。

 

津波見(つばみ)小学校(2014年閉校)

精緻に積まれた石垣、整然と並ぶ植栽が赤い屋根の校舎を引き立てています。

パステルピンクの板張りが可愛らしい木造校舎です。

在校児童は、1991年に54名、2010年は17名と過疎少子化により減少し、

統合により閉校となってしましいました。

地域交流の拠点として継続利用されていることは嬉しく思います。

 

津波見地区の段々畑

長崎県が主催する「長崎県のだんだん畑十選」に選ばれた美しい景観です。

 

県道251号を南下し、途中から県道130号を内陸へ入って行きます。

坂道が続く沿道の高台に学校の看板が見えました。

 

隙間なく埋められた石積の正門に明瞭な銘板

 

スロープを進むと校舎の横顔が現れました。

 

薄いピンクの外壁に校章がはっきり見えます。

高さの異なるトーテムポールは卒業記念作品でしょう。

 

歓迎の案内は平成21年度の卒業記念作品です。

手造り感に温もりが伝わってきます。。

 

プランターからこぼれる花は、ヒマワリとコスモスをミックスしたような花ですが、

後で調べたところ、ルドベキア・トリロバのようです。

暑さ寒さに強い花だそうです。

 

校庭は雑草天国、手入れもされていない様子です。

 

閉校になって使用されなくなったカラフルな遊具

 

赤い屋根、パステルピンクの木造校舎が青空に映えますね。。

後方の体育館も同じ色調です。

 

ロボットの目玉のような投的板

 

赤銅の二宮尊徳像

部分的に青くなっていますね。

 

閉校記念碑

奥に見えるのは歴代校長を刻んだ石碑

 

遠方からは用具倉庫に見えましたが、ピザ工房となっています。

煙突が突き出ており、中に窯があるようです。

 

中を見学します。

卒業記念製作の壁画やレリーフです。

 

廃校後は、「赤い屋根のふるさと交流館」という地域活性化の拠点となっています。

 

表彰盾がガラスの陳列棚に並んでいます。

誇らしい戦績の数々でしょう。

 

廊下はつやつやとして綺麗です。

1.2年教室の室名札を見ると、閉校時には複式学級だったのでしょう。

配膳室や保健室の名札も掛かっています。

 

感謝と惜別の言葉

最後の在校児童は11名とウサギ1羽だったようです。

 

年代別の教室の様子が再現されています。

昭和35年(1960年)3月の教室です。

 

27名の卒業生でした。

 

平成26年(2014年)3月閉校時の教室は。。。

 

僅か2名だけの卒業生でした。。

過疎少子化の流れを如実に表していますね。。

 

額縁に閉じ込められた教育標語

 

先生が描いたのでしょうか。

チョークで描いたシャボン玉がリアルですね。。

 

山口小学校(2014年閉校)

南島原市加津佐地区の小学校3校(加津佐東・津波見・山口)が統合され

加津佐小学校として開校しました。(校地は加津佐東小学校のものを継承。)

これにより山口小学校は、139年の歴史に幕を下ろしました。

赤い屋根のメルヘンチックな木造校舎は交流施設となっています。

1991年度の在校児童は58名でした。

 

国道389号に戻り北上します。

国道57号に合流する前の「塔坂入口」バス停から脇道を進みます。

南島原市で秘境と言える山深い集落が塔ノ坂です。

 

木板に手書きの学校標語

素朴で温もりが感じられますね。。

 

校舎の赤い屋根が見えてきました。

 

表札からすると、林間学校のようです。

「塔ノ坂」は通称「とんさか」だそうです。

 

窓の貼り紙には日曜のみの営業と書いてあります。

校舎を一部改修し、「南島原食堂」として地元の主婦たちが

特産品の島原手延そうめんをアレンジして提供しているそうです。

当日は残念ながら休業日でした。。

 

「響」一文字を刻んだ大きな石碑

 

閉校記念碑

 

表に回ってみた校舎はこじんまりとした平屋校舎でした。

 

正面玄関

茶色を基調とした森の分校を意識した外観ですね。

 

校舎に向かって左側に墓地が隣接しています。

 

墓地の基礎となるブロック塀には、卒業記念のペイントが描かれていますが、

少し異様な感じです。

投的板でなくて良かったと思います。。

 

校庭には雑草が見られますが、季節ごとにイベントや祭りが催され

交流の場として使用されているため、荒廃した様子は感じられません。

 

手洗い場にもペイントが。

 

花壇に植えた花はアメリカ芙蓉でしょうか。。

真夏の日差しに大きな花弁を広げていました。

 

長野小学校塔ノ坂分校(2013年閉校)

南島原市北部の西有家町(にしありえちょう)の山深い集落、

塔ノ坂に残る分校です。

閉校後は、「とんさか森の楽校」と名前を変え再利用されています。

音楽やイベント、祭り、特産品の販売などを通して交流の場となっています。

2016年10月にオープンした「南島原食堂」は新たな観光スポットとして

注目を集めています。

閉校時の在校児童は6名でしたが、1991年度は7名でしたので

25年以上前から少子化が進行していたことが分かります。

児童数名で継続してきた山の分校だったのですね。。

 

引き続き国道57号を北上し、雲仙地獄を越えて深江町に入ります。

雲仙みかど本館付近から脇道に入った集落に分校跡があります。

一見、ごく普通の民家のようです。

 

分校はフェンスに囲まれた敷地にあります。

門柱が2本建っていますが、こちらは校舎裏のようです。

 

反対側に正門がありました。

立派な表札です。

 

校庭は、ふわふわの芝生で一杯です。

歩いて心地よさそうです。。

 

平屋の木造校舎です。

構内は改装され、IT関連の企業が事務所として使用しているようです。

 

ネットで出てくるのは、ほとんどが「山の寺」分校ですが、

現地の表札はすべて「山王寺」分校と表記されています。

どちらが正しいのか、変遷経緯や詳細は不明です。

※後日、教育委員会に問い合わせしたところ、

山王寺を山のおうてら→山のでらと呼ぶようになったそうです。。

 

公園広場のような校庭に残る遊具

 

小林小学校山の寺分校(2004年閉校)

閉校後、10年経て行政及び地元住民の協力により校舎内を改装し、

IT関連企業がオフィスとして使用しています。

廃校活用の好事例であり、地域経済の活性化になっていることを

嬉しく思います。

1991年度の在校児童は僅か2名でした。

 

さらに東へ3kmほど進んだ普賢岳の麓に旧校舎が残っています。

学校は移転先の新校舎で継続しておりますが、

校舎が自然災害によって「廃校」となった事例です。

正門の表面が一部剥げ落ち、表札の銘板は変色し校名がはっきり

読めない状態です。

 

日も沈みかけて薄暗くなってきましたが、

二宮尊徳は一心不乱に本を読んでいます。。

災害に負けずに残っていたのですね。

 

大きな岩を積み重ねた創立百周年記念碑

 

火砕流被災校舎保存記念碑と当時を偲ぶ句碑

 

緩やかなスロープの先に廃墟と化した旧校舎が残っています。

1991年(平成3年)9月の雲仙普賢岳の大規模火砕流により全焼しましたが、

自然災害の凄まじさを後世に伝えるために、取り壊さずに保存、公開されています。

 

校庭は雑草やゴミもなく整備されていました。

 

窓枠の鋼材は熱風で歪み、窓ガラスも吹き飛んでいます。

 

校庭のイチョウの木は、校舎とともに焼けてしまったのですが、
翌年には緑の芽を吹き再生したそうです。

 

 

被災校舎の隣には普賢岳を監視する施設、大野木場砂防みらい館が隣接しておりおり、
噴火災害の教訓や砂防に関する学習ができる施設になっています。

 

旧大野木場(おおのこば)小学校(1991年全焼)

災害後、児童達は仮設校舎を経て現校地への移転を余儀なくされました。

大規模火砕流の被害にあった1991年(平成3年)9月15日以後、

この日を大野木場小学校メモリアルデーと定め、自然災害の怖さと教訓を

忘れないようにしているそうです。