安芸太田町、北広島町ともに広島県山県郡(やまがたぐん)に属し、
県北西部の県境の山間部に位置する町です。
町の北側が島根県に隣接しているのが北広島町です。
安芸太田町(あきおおたちょう)は、2004年10月1日、
山県郡加計町、戸河内町、筒賀村の2町1村による合併(新設合併)で誕生しました。
他の中山間地と同じく一次産業の衰退、過疎化、少子化と難題を抱えています。
北広島町(きたひろしまちょう)は、中国山地の1000メートル級の山々が
島根県との県境に連なっています。
太田川と江の川水系の源流域にあたり、手付かずの自然が残っています。
標高774mの東八幡原にあるアメダス八幡は、西日本最寒の地とも言われ、
1977年2月19日には-28.0度という低温が観測されています。
広島市安佐北区から国道191号を太田川に沿って上流へと
進みます。
安野トンネルを抜けて支流と分岐する場所にさしかかると、
堤防に赤茶色の屋根の美しい木造校舎が見えました。
正面の壁時計は、八角形の枠で美しく装飾されておりますが、
生徒達の手作りの卒業記念作品と思われます。
「清純」「創造」「友愛」とあります。
正門の閉校記念碑をみると、中学校も併設されていたようですが、
2005年に廃校となっております。
1991年度の在校生徒は24名でした。
PS) 2016年3月で校舎は撤去されたようです。
国道191号をさらに進み、安芸太田町津浪地区の高台にあります。
白黒斑の瓦屋根にベージュの壁の美しい木造モルタル校舎です。
津浪地域は、中央部に標高440mの丸山があり、北東部から北西にかけて
山なみが接近していて、その間に扇状地が発達しています。
農耕地はこの扇状地に開けていますが、急な斜面と狭隘な地形のために、
あまり広い耕地はありません。
学校が地域のセンター的性格をもち、郷土芸能である神楽、
太鼓踊りの伝承の場にもなっております。
廃校ではありませんが、3学級、全校生徒10名のみの小規模校です。(2014年4月)
※追記:同校は2016年3月31日を以って閉校となりました。
旧加計町中心部から国道186号を北上します。
約10分で「猪山展望台」の標識が現れ、高台に登ってみると
素晴らしい眺めを堪能できます。
写真に写っている湖は温井ダムで瀧山峡大橋がダム上流部に
架かっているのが見えます。
訪れたときは、既に更地となり校舎は姿を消していました。
古い開学百年の石碑と新しい閉校記念碑が建っていました。
門柱だけ往時のまま残っておりました。
お墓のような閉校記念碑には、無念に満ちた言葉が
何もない敷地に響き渡っていました。
「134年の学舎の灯が消える」
杉之泊(すぎのとまり)小学校(1998年休校、2009年閉校)
加計地区に戻り、県道305号に入ります。
沿道から薄いピンクの校舎が見えました。
山間部の小集落の学校です。
こちらも、立派な閉校記念碑が建っていましたが、
猪山小学校と同様に134年の歴史を閉じたとありました。
1991年度の在校生徒は10名でした。
寺領(じりょう)小学校(2008年閉校)
県道305号を寺領川に沿って進んでいくと、
錆び交じりの青いスレート屋根の校舎がありました。
ここにも閉校記念碑が鎮座しており「懐郷」とあります。
巣立った生徒達が故郷を懐かしむのは何年後のことでしょう。
幼稚園も併設されていたようです。
1991年度の在校生徒は13名でした。
旧筒賀村井仁集落に広がる棚田です。
平成11年(1999年)7月26日に広島県から唯一、農林水産省の
「棚田百選」に選ばれました。
案内には324枚とあり、千枚田ではないですが、石積の棚田は珍しいです。
先人の労苦が偲ばれます。
棚田は機械が出入りできないため、生産性も悪く後継者もいない等の
問題があると聞きますが、保全・伝承していくのは並大抵ではありません。
棚田を眺めながら奥に入っていくと突き当たりに2階建ての
木造校舎があります。
年季の入った門柱と表札です。
棚田の景観に調和するかのように石垣に校舎が建っていました。
休校になってから、ずいぶん長い歳月を経ておりますが、
思った以上に校舎はしっかりとしていました。
国道191号をに戻り、安芸太田町役場を過ぎ県道296号に入ります。
人家も疎らな狭い道を突き進んでいくと、原っぱのような広場に出ます。
そして、年代の異なる平屋の木造校舎が忽然と姿を現しました。
寄棟造りの新しい建物は、屋根や窓を改築され集会所となっていますが、
切妻造りの古い建物は下見板張りの木造校舎です。
間違いなく往時のものと確信しました。
同時に、このような山奥で現存する廃校舎に遭遇し感動しました。
隠れ里といえる秘境です。
打梨と同じく秘境の集落です。
周囲の状況から、入母屋造りの平屋の建物が
小学校校舎であったと思われます。
現在は「那須ギャラリー」となっておりますが、
ここまで見に来る人は少ないと思われます。
国道191号に戻り、三段峡の入口の川手集落にあります。
沿道から重厚な建物が見え立ち寄りました。
四合という地名は地図に載っていません。
旧戸河内町の頃には存在したのかもしれませんが、詳細不明です。
現在は、「四合生活改善センター」として使用されています。
国道191号を北上し、北広島町との辺境の松原地区にあります。
沿道右手に「神楽の里」の看板があり、左手に木造校舎がありました。
神楽には宮廷神楽と里神楽の二種類があり、後者の流れをくむ石見神楽(島根県)は、
広く中国地方一帯へと伝わり、現在も芸北地方のほか広く伝わっております。
校舎は、下見板張りの味わい深い木造校舎です。
閉校記念碑には「松原学園」とありましたが、小学校の前身は私学だったのでしょうか。
詳細不明です。
1991年度の在校生徒は19名でした。
さらに国道191号を北上し、辺境の小板集落に着きました。
校庭だったはずの敷地は雑草だらけ、錆びた遊具が寂しそうに
残っています。
窓はサッシに改修されていました。
閉校後は民間所有だったのか、窓に会社名が貼ってありました。
人影はありません。
教室には、小さな椅子が一脚だけ黒板の中央に
置いた状態で机もなく殺風景です
黒板の上の写真をよくみると、
生徒と先生が一輪車に乗って手を繋いでバランスをとっています。
背景は、先ほど見た平屋建て木造校舎です。
やはり、生徒一人先生一人の山の分校だったようです。
児童が乗っていた一輪車でしょうか、跳び箱と同じ倉庫に
置かれていました。
最盛期には何名いたのでしょうか。
校舎は思ったよりも大きく二棟ありました。
(一棟は教員住宅なのかもしれませんが。)
最後の一人の生徒はどこで何をしているのか気になりました。
雄鹿原(おがはら)中学校(1968年閉校、現:さつきケ丘保育所)
北広島町に入り、国道191号から307号に進み
国道186号に突き当たった場所にあります。
小学校は鉄筋2階建ての校舎ですが、隣には古い木造校舎があります。
庭先の鯉のぼりやカラフルな遊具だけ見れば保育所と頷けますが、
校舎はとても保育所には見えません。
前身は中学校だったからでしょう。
ただ、品格と温もりを感じる美しい木造校舎です。
春の桜で満開の頃は、一段と美しい光景となることでしょう。
国道186号から県道11号へと入り、「紅しだれ桜」で知られる橋山集落にあります。
臥龍山の麓、人家もない寂しい場所に骨董品のような建物がひっそりと佇んでいました。
入口の石段や門柱越しに見た、入母屋風の平屋建て木造校舎は、とても味わい深いものです。
長い歳月を風雨に堪えた瓦屋根と板張りの壁は、何とも言えない渋い色合です。
廊下や教室を覗いてみると、黒板や五十音のポスターが往時のまま残っていました。
現在は、「橋山老人集会所」となっております。
美和西小学校(2000年廃校)
再び国道186号に戻り、細見地区から県道40号へ、大暮口から
大暮川に沿って上って行きます。
田園の中にチョコレート色の木造校舎が姿を現しました。
屋根や壁の塗装からみると、それほど年数は経っていないようです。
改装してほどなく廃校になったと思われます。
現在は「清流の家」として使用されていますが、
そのHPには、控えめなコメントがありました。
「何もない地域や施設ですが、自然がいっぱいあります。」
1991年度の在校生徒はわずか9名でした。
美和西小学校の近くに、大きな煙突が立っており
目を引きました。
案内を見ると、明治34年に設置された溶鉱炉は山県製鉄所として
大正14年まで操業したとあります。
たたら製鉄のメッカであった芸北地域ですが、
この史跡は町の文化財として保存・管理されております。
県道40号から県道306号に入り、再び安芸太田町へと南下していきます。
沿道のバス停「下平見谷」にピンクの校舎がL字型に建っていました。
鉄筋のしっかりとした造りの校舎です。
しかし、近付いてみると、壁は剥げ落ちている箇所も多く
長らく手入れもされていないようです。
庭先の錆びた遊具も年季が入っています。
校庭には、生徒二人先生二人の手形が閉校記念碑として刻まれておりました。
ゆっくりする間もなく、陽が傾きかけた静かな山間集落を後に家路を急ぎました。