右京区(うきょうく)は、京都市を構成する11区のひとつです。
市内西北部に位置し、2005年の旧京北町合併後は京都市の区の中では最大の面積です。
(それまでは左京区が最大でした)
区西部や北部は山間地で、かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、
下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京都に運ばれていました。
嵐山 渡月橋
ちょうど4年前にも訪れました。
当時は閑散としておりましたが、今回は観光バスから降りた
修学旅行の女子生徒達が川辺で寛ぐ姿が見られました。
ここを起点として、途中まで4年前と同じルートで巡りました。
前回は保津川下りの筏を見物できましたが、
今回は時間帯が早かったのか船らしきものも見えませんでした。
ちょうど、JR保津峡駅に列車が停まり、駅から降りた広場では
ハイキング姿のお年寄り達が集い、案内役の方を先頭に歩き出そうと
するところでした。
ここから嵐山までは、東海自然歩道が整備されており、保津川を見ながら
そして六丁峠を越え変化のあるハイキングコースとなっています。
市内から水尾へ行くには、嵐山から保津峡を経て府道50号を利用するほかありません。、
ただし、地元の生活道路で離合困難な上、駐車できる場所もほとんどないので注意が必要です。
狭い峠道を経て辿り着いた水尾集落は4年前と全く変わらず、ゆっくりと時間が流れていました。
桃源郷のようなノスタルジックな場所です。
水尾の地名の由来は、「きれいな水が湧く所」という意味があるそうです。
水尾は柚子栽培発祥の地ともいわれ、14世紀初頭に在位した花園天皇が
水尾の地に柚子を植えたとされています。
江戸時代にはすでに産地として知られていましたが、
昭和40年代には改めて「柚子の里」として知られるようになりました。
集落から少し高台に上った場所にあります。
石垣に松や杉の木を従え、校舎が集落を見下ろすように
立っています。
松の木の下には、小さな創立百周年記念碑と二宮尊徳像が
控えめに並んでいました。
ピンクのツツジが彩りを添えて誇らしげに見えました。
1991年度の在校生徒は9名でした。
いつかまた訪れることでしょう。
平安~室町時代まで、愛宕山参詣者のため宿場町として
江戸時代は愛宕神社の門前町として栄えた樒原ですが、
明治以降は幹線道路の発達や人口流出により、
樒原は静かな山里に戻っていきました。
愛宕山麓(さんろく)の棚田と清流が美しく、
里の花や夕日を狙い訪れるカメラマンも多いそうです。
宕陰は右京北西部の愛宕山ろくに位置し、樒原と越畑の
二つの地区からなっています。
日本の原風景を今にとどめる山里が広がり、
春夏秋冬、四季折々の美しい自然の風景を楽しむことができます。
校舎は、樒原の隣、越畑(こしはた)集落にあります。
正面に鉄筋2階建ての小さな校舎と左手にプレハブと
一部木造校舎が並んでいます。
校庭は狭くて公園の遊び場のようです。
創立百周年記念の石碑が鎮座し、「愛」の一文字が刻まれています。
2013年度の在校生徒は、小学校8名、中学校5名のみで
合わせても13名の小規模校です。
校舎前の道端に咲いていたマーガレット
花言葉は「心に秘めた愛」
宕陰は、美しい棚田や茅葺き民家などで知られ、
特に越畑は「京都の信州」に例えられることがあります。
他のルートがないため、一度右京区から出て南丹市に入ることになります。
廻り田池とは京都市と南丹市が接する山間部にある大きな治水兼農業用水池の名前です。
周囲を山に囲まれ、国道477号に沿って細長く伸びるこの池は、大雨の後でもない限り
普段は山から浸み出す青々とした清水を蓄えています。
池の中央には松の生えた浮島があり、四季折々の山の景色が水面に映えて大変美しいので、
ドライブで通りがかった観光客が車を止めて景色を楽しんでいる姿もよく見られます。
紅葉の頃は格別でしょう。
神吉小学校の隣に年季の入った下見板張りの建物が目を引きました。
同小学校は、前身である私学『久保館』が明治2年に高木文平氏によって創立され、
明治の学制発布にともなって北桑田郡第15小学校となり、『時に及んで、まさに勉励すべし』の
辞をとって、『及時館』と改称されました。
現在は診療所として使用されております。
一時は取り壊しの予定もありましたが、辛うじて存続しております。
2階の壁から鳥の巣箱のようなものが突き出ていますが、
これは村人に時刻を知らせるサイレンだそうです。
どんな音が鳴るのか気になりましたが、残念ながら時報を聞くことはできませんでした。
小鳥が飛び出すのではなさそうです。
沿革を調べたところ、明治19年には現在の校地に移転し、
北桑田郡や南桑田郡へと変遷はありましたが、
神吉村及時尋常小学校、神吉国民学校等を経て、昭和22年の学制改革により
神吉小学校となり現在に至っています。
在校生徒が13名の小規模校です。(2013年度)
→2015年3月に閉校となりました。
林道のような狭くて見通しの悪い国道477号を北上し、
再び右京区旧京北町に入ります。「酷道」と書くのが相応しい道路です。
京北町(けいほくちょう)は、2005年(平成17年)3月31日まで
京都府北桑田郡に存在した町です。
当時は7校あった京北町の小学校は、平成11年(1999)年3月に3校に統合されました。
宇津小学校はその時に廃校となり、周山・細野小学校と共に京北第一小学校となりました。
校舎は、京北中路町の高台にあります。
神社の隣にある、白っぽい堅固な体育館は裏に回ってみると、
玄関ポーチや倉庫等が付いていて講堂も兼ねていたようです。
平板な屋根の校舎の中は、教室の戸口に手作りの案内が掲げてありましたが、
昨日まで使用していたかのように綺麗に手入れされていました。
1991年度の在校生徒は27名でした。
沿道からとてもカラフルな外観の郵便局が目を引きました。
立看板を始め、水色の壁一面に子ども等の描いた絵で埋められて
います。
かつての郵便局のイメージからは想像できない建物ですが、
微笑ましくもありました。
きっと宇津小学校の生徒達が描いたものでしょう。
卒業記念作品のようにも見えました。
矢代小学校(1999年閉校)
宇津小学校から熊田川に沿って北上した
京北矢代中町にあります。
沿道左手に小さなプールがあったので、右手の敷地に小学校校舎が
あったものと思われます。
外観からすると年数も経っていない新しい建物です。
恐らく取り壊された跡地に新築されたものでしょう。
表札は「京北町矢代多目的ホール」とあります。
1991年度の在校生徒は19名でした。
国道162号(周山街道)から細野川に沿って府道363号を
少し入った場所にあります。
鉄筋3階建ての重厚な校舎です。
屋上には携帯のアンテナ基地局が複数設置されておりました。
校舎や体育館の壁に「京北一周トレイル」のポスターが貼ってありました。
京都の自然・文化・歴史に触れながら散策するイベントです。
旧細野小学校は京北コースの起点・終点となっていたようです。
草むらには、ブロックを積み上げた簡素な卒業記念碑が残っていました。
1991年度の在校生徒は34名でした。
周山街道から国道477号に入り、桂川に沿って進んだ京北塔町に
新築校舎があります。
といっても、2000年3月に完成した木造校舎です。
前身は山国小学校でしたが、黒田小学校と統合され校名は消えました。
第一、第二、第三の呼称よりも、山国のほうが郷土の歴史・文化を表しており
親しみを感じますが、残念です。
この地域は、山国郷と呼ばれ由緒ある神社やお寺が残っています。
山国隊は、幕末期にこの地で結成された農兵隊です。
昔から皇室との関係が深く木材や土地の産物を献上してきた山国の人たちは、
これに応えて決起し、同志80数名で組織し官軍に加わって戊辰戦争を戦いました。
国道477号を奥へと入って行き、京北宮町にあります。
鉄筋2階建ての校舎ですが、校庭が思った以上に広くて
校舎が小さく見えました。
薄いピンクの壁は可愛らしいのですが、玄関は茶色のタイル張りに
大きな屋根が突き出して厳つい感じです。
校庭の片隅に二宮尊徳像や閉校記念碑が集約されていました。
モニュメントは消えていましたが、昭和62年(1987年)の卒業生は4名だったようです。
なお、1991年度の在校生徒は33名でした。
小学校から道路を隔てて立派な木造の建物があります。
遠方からは、てっきり木造校舎と思い近付いてみると
「黒田トレーニングホール」というスポーツ施設でした。
当日(6/15)から鮎漁解禁のポスターが貼ってありました。
ここから、灰屋川に沿って府道361号(といっても林道のような道ですが)に入ります。
人家もない府道361号を南下していくと「芹生」(せりょう)の
標識が見えました。
花背方面に支流に沿って入って行きます。
歩行用の橋が数本掛かっており、人家も見えましたが
鬱蒼とした森に囲まれ静寂が支配しております。
人影もありません。
右京区の秘境といえる集落です。
橋は途中にある扉が施錠されていて渡れなくなっております。
住人は居ないようです。
4年前は見つけられずに終わってしまったのですが、
森林の中に廃屋と化した木造校舎がありました。
昼間でも枝を広げた木々の陰で暗い場所です。
支流に橋が架かっていて、対岸に古い小さな校舎のある光景は
以前に見たどこかと良く似ています。
かつて訪れた岡山県備前市の和意谷小学校を思い出しました。
ただ、ここは金網が張り巡らされていて個人所有となっているようです。
小さなポストもありました。
閉校前から長い間休校となっていたので、かなり老朽化しています。
手入れもされず現在に至っているのでしょう。
分校の隣に芹生八幡神社の鳥居と由緒ありそうな胸像が建っていました。
当地の教育に尽力された先生と思われますが詳細は不明です。
入口は鎖で閉ざされ人影も見えませんでした。
利用者にきれいに使用するよう案内が掲げてありましたが、
トイレ自体がきれいとは言えない代物でした。