伊予市(いよし)は、愛媛県の中予地方に位置する市です。
中予地方の最西に位置し、以西は南予地方となります。
2005年(平成17年)4月1日、道後平野に位置する旧伊予市を中心に、
山間部の伊予郡中山町、瀬戸内海に面した同郡双海町と合併(新設合併)し、
新たに伊予市となりました。
複数の削り節工場が立地し、国内に出荷される6割のシェアを占めています。
また、五色浜をはじめとした海水浴場や、ゆうやけこやけラインなど、
美しい瀬戸内海が観光資源となっております。
大洲市(おおずし)は、愛媛県の南予地方に位置する市です。
「伊予の小京都」と呼ばれ、肱川の流域にある大洲城を中心に発展した旧城下町です。
2005年(平成17年)喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併して新しい大洲市となり、
現市域となりました。
内子町(うちこちょう)は、愛媛県の南予地方に位置する町です。
ハゼの流通で財をなした商家が建ち並ぶ町並み保存を手かがりに、
白壁と木蝋のまちづくりを進めてきました。
今日では、町並みから村並みへ、エコロジータウンうちこをキャッチフレーズとし、
農村景観保全や農産物の直売、農村民泊、グリーンツーリズムなどの、
交流人口の受け入れ、第一次産業の活性化などの取組みで全国的にも知られています。
同市出身の有名人には、大江健三郎 (ノーベル文学賞作家)がおります。
四国へは、広島県尾道市からしまなみ海道を利用し、愛媛県今治市に入りました。
来島海峡大橋(くるしまかいきょう おおはし)は、愛媛県今治市、瀬戸内海の
来島海峡を跨いで大島と四国を結ぶ長大橋です。
世界初の3連吊橋として知られています。
当日は、穏やかな瀬戸の海峡を貨物船がゆっくりと進んでいました。
今治から松山市内を経て国道378号を伊予灘を眺めながら
南下していきます。
旧双海(ふたみ)町役場から県道221号に入り内陸へ進んで
5kmほどの山間部に、とても美しい木造校舎があります。
廃校ではありませんが、在校生徒は20名に満たない小規模校です。
立ち寄ったのは、愛媛県内最古の現役木造校舎だからです。
この校舎は昭和7年(1932年)に建築され、木造学校建築の原型がわかるものとして
建築的価値が高い校舎です。
また、同時代の木造小学校の中では洋風建築としてデザインが優れており、
地理的風土的な配慮が行き届いた配置計画がなされています。
木造校舎として全国で初めての環境省所管「学校エコ改修と環境教育事業」のモデル校として、
平成18年度(2006年)に採択され、現在の姿に改修されました。
(屋根に三角形の通気口が並び凛々しい外観です。)
伊予市翠地区の象徴的な存在として、地域住民にも愛され続けています。
校舎だけでなく、校庭や植栽も綺麗に整備されており、
地域ぐるみで大切に維持・管理されていることが判ります。
庭先のログハウス風の時計も趣向を凝らしたものでした。
翠小学校前の風景
山間部の長閑な集落です。
文字通り、新緑の翠が溢れていました。
櫛生(くしゅう)小学校(2012年閉校)
国道378号に戻り南下し、大洲市に入ります。
校舎は、旧長浜町櫛生地区にあります。
鉄骨RC3階建ての地味な校舎です。
大きな楠木の存在感に圧倒され、校舎は小さく見えました。
閉校になってからそれほど年月も経っていないこともあり、
お墓のような立派な閉校記念碑は黒光りを放っていました。
中学校も併設されていたようです。
櫛生小学校から3kmほど南下した場所にあります。
鉄筋3階建ての重厚な校舎です。
校庭の縁に15名の生徒の似顔絵を描いたパネルを
貼り付けた閉校記念碑がありました。
閉校時の在校生は15名だったようです。
3名の児童が同じ方向を見つめているモニュメントには
「希望像」とありました。
大洲市大川地区では、「大川鯉のぼり川渡し」が、
大洲市大川公民館前にて開催されていました。
幅170mの肱川に鯉のぼり200匹を放流されています。
肱川に渡されたたくさんの鯉のぼりが風に泳ぐ姿は壮観です。
肱川に沿って国道197号を南下し、県道310号に入り
旧肱川町名荷谷地区にあります。
曲がりくねった細いを山奥へと上っていくと
突然開けた広場に立派な木造校舎がありました。
正面玄関ポーチは、屋根の形状も独特で傘を広げたような
庇です。
3階部分はロフトのように見えますが、しっかりと校章「正」の文字が
あります。
正門に近い校舎(非常階段が取り付けられている)は、
下見板張の建物です。
調べたところ、平成2年(1990年)建築されたものでした。
校舎はまだまだ使用できる立派なものですが、
閉校となってしまったのは残念です。
地域の方々の無念さが伝わってくるようです。
校庭の奥には、土俵が造成されておりましたが、
このような山奥の学校で相撲を取り入れているのは
大変珍しく感じます。
何か由来があるのでしょう。
国道197号に戻り、肱川に沿って南下していきます。
途中から県道32号に入り、大洲市最南部にある学校です。
入り口は狭く、「えがおであいさつ」と壁に書いた木造校舎の横顔が
迎えてくれました。
奥に、鉄骨RCの校舎と体育館がありますが、
やはり、目を引くのは年季の入った瓦屋根の平屋建木造校舎です。
近付いてみると、廊下は手入れが行き届いて艶やかで光っています。
軒下には手洗い台や下駄箱があり、とても懐かしく感じました。
校庭で遊んだ子ども達は、ここで手を洗い、靴を脱いで教室に出入り
していたのでしょう。
その姿が目に浮かびます。
素朴な校舎に素朴な子ども達の姿。。。
なお、教室の掲示板から複式学級だったことが確認できました。
閉校時の全校生徒は17名でした。
再び北上し、県道55号を河辺川に沿って旧河辺村方面へ進みます。
その途中に、老朽化した木造校舎がありました。
屋根は雨漏りと崩落防止のため緑色のシートで養生されています。
向かいの平屋建校舎も、錆びたフェンスからかなり年季が入っており、
特に手前の建物(かつて工作室であった)は廃屋のように荒れた姿です。
壁には、四国の地図が掲示され、「グランド10周・・・1km」と書かれています。
校庭を日々走り回りながら、四国一周目指していた子ども達の
姿が目に浮かび、微笑ましく感じました。
学校跡の記念碑から、中学校も併設されていたことが判りました。
人影もない山深い廃校跡に銀杏の形をした石碑がありました。
それは、風化しつつある郷土愛を嘆き、父祖伝来の地を
継承しなければならないと訴えるものでした。
「わが父祖の拓きしこの丘 岩谷の里」
県道55号を旧肱川町から旧河辺村に入ってからほどなく、
沿道の眼下に校舎らしき建物が目に入りました。
土手を降りていくと、「河辺小学校跡」との石碑が立っています。
閉校後は、個人所有物となったようです。
庇など一部増改築されておりますが、校舎の原型は留めております。
まったく、予期せずに遭遇した旧校舎に驚きと感謝を覚えました。
当時の話を聞きたかったのですが、住人の方は不在でした。
新校舎は、河辺町植松地区に健在です。
県道55号をさらに奥へ進み、「河辺ふるさとの宿」と看板が
見えたところで、どうやら校舎らしき建物を発見しました。
後で確認したところ、大伍小学校の校舎を再利用したものであることが
判明しました。
懐かしい風情のある外観です。
旧河辺村には、坂本龍馬が脱藩の際に通った峠や谷があります。
約500mほどの場所に「坂本龍馬脱藩之日記念館」があり、
往時の様子を疑似体験することができるそうです。
記念館は、坂本龍馬が自由人として生き始める
第一歩を大洲市河辺町で踏み出したことを記念して設立されましたが、
時間の都合で立ち寄ることはできませんでした。
「ふるさとの宿」のメニューに、夕食は脱藩鍋セット、昼食は脱藩弁当がありました。
案内人付きで龍馬の足取りを辿る「ミニ脱藩」コースもあるそうです。
龍馬が知ったらどう思うでしょうね。。
さらに奥へ進み、大洲市の辺境に入っていきます。
道路は徐々に狭くカーブが多くなっていきます。
河辺町北平は山奥の辺境集落ですが、かつて中学校がありました。
今回、予定もしていなかったので、気付かずに通過するところでしたが、
古い門柱を横目にし、もしかと思い立ち寄りました。
小学校舎はすでに取り壊されて姿を消しておりますが、
中学校舎は辛うじて残っておりました。
といっても、屋根はかなり崩壊し、正面玄関も支柱が倒れ、
廃墟と化しておりました。
このように危険な状態で、取り壊しにならず残存しているのが
不思議なくらいです。
構内はダンボールや建具などが散乱し雑然としています。
栄養素別の食品分類ポスターや廊下の天井に書かれた標語が
往時のまま残っておりました。
向かいの建物は、再利用可能な様子です。
ガレージが増設され、軽トラが停まっておりました。
廃校後は、個人所有に引き継がれたようです。
お話を聞こうとしましたが、不在のようでした。
林道のような曲がりくねった狭い道が続きますが、
標識の小田深山を目指し右折します。
小田深山は、喜多郡内子町の東端に位置する地域です。
孤独を感じる道程です。
ふと、種田山頭火の句を想起しました。
「分け入っても 分け入っても 青い山」
帰路でかなり迂回することになるので、
予定はしていたものの不安を感じながら辿り着きました。
森林の中にパッと開けた広場が忽然と現れます。
校庭の両端に平屋の建物が見えますが、石垣の上の
白っぽい建物は講堂兼体育館のようです。
手前の建物は、赤茶色に錆びたスレート屋根に
防護フェンスが付いた窓の平屋建校舎です。
「森の学校」と看板がありましたが、現在は特に使用されていないようです。
木製のゴンドラ型のブランコも、今は役目を終え静止したままです。
この地区は、かつては、森林関係の作業に従事する人々が居住し、集落が形成されましたが、
林業が不振になると人口流出が著しく、極端な過疎山村になり、
小学校も閉校、現在では観光施設の関係者数人が住むのみとなっています。
1991年度の小学校の在校生徒は僅か3名でしたので、当時から過疎状態で
あったことが判ります。
やがて、無人集落となってしまうことでしょう。
寂しい限りです。
内子町本川地区にある鉄筋2階建ての重厚な校舎です。
最近閉校なったばかりで、現役校舎と変わりません。
閉校時は、30名未満の在校生徒数でした。
4kmほど西にある小田小学校に統合され閉校となりました。
沿道からは、学校への感謝の思いを伝えるパネルと
真新しい閉校記念碑が見えました。
内子町小田地区にある現役木造校舎です。
近年新築されたようですが、
幼稚園・小学校・中学校が集結した校舎です。
地元の良質な木材を使用した温もりのある美しい校舎です。