全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。
御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。
全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓
今回は、「会津若松城」下の藩主が別荘として利用していた庭園の中にある「御茶屋御殿」をお届けします。
■「会津若松城 御薬園内の御茶屋御殿」(福島県会津若松市)
「会津若松城」の前身は、「蘆名(あしな)家」によって築かれた「黒川城」でしたが「伊達政宗」がそれを奪い、「豊臣秀吉」の全国統一後は、「蒲生氏郷」を会津に入封させ新たに築城させたお城に「若松城」と名付けました。その後、「上杉景勝」が入城して、「徳川家康」の征伐軍に備えるために、お城を大改築しました。
「関ケ原の合戦」後は「加藤氏」が入城し、「蒲生氏郷」時代に現在の廊下橋前の「大手門」の位置から、「北出丸」を増築してその北東部へ移して北からの防御の備えにしました。
1643年に「保科(ほしな)正之」が3代将軍「徳川家光」の命によって「高遠藩保科家」から呼び戻されて、「会津藩」23万石の大名として取り立てられ、その後「正之」の子孫は、「武家の棟梁である徳川家を支える」ことを家訓に掲げて「会津松平家」として幕末・維新まで存続します。
その「会津若松城」の総構え内には、藩主の別荘として利用していた庭園「御薬園」があります。この庭園は、3代藩主「正容(まさかた)」の時代に、園内で朝鮮人参の栽培に成功し、領内に作付けを推奨したことから「御薬園」と呼ばれるようになりました。
「御薬園」内図 ↓
現在、「茶席」「書院」「御慰所(おなぐさみどころ)」として使われた木造現存茅葺の「御茶屋御殿」が池泉回遊式庭園内に横たわる「心字池」の前に建ちます。御殿内の「書院」は、「上の間」「中の間」「扣の間」で構成されています。
木造現存「御茶屋御殿」 ↓
木造現存「御茶屋御殿」(「心字池」越しに) ↓
木造現存「御茶屋御殿」 ↓
木造現存「御茶屋御殿」の「抹茶席」 ↓
また、「心字池」に浮かぶ「亀島」には「楽寿亭」と呼ばれる「茶席」が建ち、江戸時代中期の建物として残存しています。
「心字池」と「灯籠」 ↓
「心字池」の向こうに見えるのが「重陽閣」 ↓
木造現存「御茶屋御殿」と現存茶席「楽寿亭」(左) ↓
現存茶席「楽寿亭」 ↓
「御茶屋御殿」は、1868年の「戊辰戦争」の際には、西軍の負傷者治療所として使われたことから戦火による焼失を免れることができました。また戦後は、9代藩主「容保」がここを住まいとしていました。
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