大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズはいよいよ大詰めとなりました。

 

前回までのブログでお話してきたように、「豊臣大坂城」を取巻くお城包囲網はほぼ完成して、いつでも衝突が起こっても対応が図れる態勢を整え、万一「大坂方」から攻められても「名古屋城」で東海から関八州を守備する態勢が整うとともに、国内最大の石高を持つ「前田家」の抑えも盤石としました。

 

「家康」等の出来事

そんな情勢下、「豊臣家」が多くの浪人を抱え始めていることに警戒をしていた中で、1614年に「方広寺銘鐘事件」が起こります。

 

皆さんご存じの方広寺鐘銘事件を復習しておきますと、1614年8月に「方広寺」の大仏の開眼供養時に、方広寺の梵鐘の銘文中に「国家安康」「君臣豊楽」の箇所が不適切(※)であるとして供養を差し止めを行います。

※「国家安康」では「家康」の名を分断して呪詛を行い、「君臣豊楽」では「豊臣を主君として豊臣秀頼が楽しむ」という意味が含まれていると解釈できる不適切な箇所

 

この箇所は、徳川方が難癖を付けたモノと理解されていましたが、近年、この文章を作成した「清韓文英(せいかんぶんえい)」という僧は、漢詩や和歌で良く用いられる隠し題として意図的に文章に織り込んだものだということなので、豊臣方としては不注意であったと言わざるをえないものだったようです。特に「家康」は「諱(いみな)」の使用は軽々しく書いたりしなかったらしいです。

 

「豊臣家」は、家老「片桐且元」と僧「清韓文英(せいかんぶんえい)」を駿府に派遣し弁明を試みようとするも「家康」は会見を拒否、一方「大野治長」の母である「大蔵卿局」には「家康」は丁重に会って、「豊臣家」内の分断を図ろうとしました。

 

そして、「豊臣家」に対して3つの選択肢「①秀頼を江戸に参勤させる ②淀殿を江戸に人質とする ③秀頼が国替えに応じて大坂城を退去する」を示しましたが、「豊臣方」としては受け入れることができませんでした。

 

9月にはとうとう「家康」は、「豊臣家」が浪人を集めて軍備増強していることを理由に宣戦布告をします。

 

11月には、「家康」は「二条城」を出て「大坂城」を包囲し「大坂冬の陣」が勃発、砲弾攻めによって、「豊臣方」に和睦を迫り「大坂城」の二の丸・三の丸を破壊して「外堀」を埋めるとのことで決着します。

 

ところが、翌年(1615年)5月に「徳川方」が「内堀」まで埋めようとしたことから、「豊臣方」が埋立てを不服とし「内堀」を掘り返す仕儀に出たので、「徳川方」は「豊臣方」が戦準備を進めていると詰問し、大坂城内の「浪人の追放」と「豊臣氏の移封」を要求しました。

 

そして5月、「大坂夏の陣」が勃発します。

 

一時、「天王寺・岡山の戦い」で「家康」が「真田信繁」に攻め込まれ自害を決意するも態勢を取戻して「大坂城」を落城させ「豊臣秀頼」「淀殿」は自刃に追い込まれて「豊臣家」は滅亡します。

 

「豊臣家」滅亡後は、「家康」は早くも7月に「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」「一国一城令」等の発布を行い、「徳川政権」の基盤づくりを進めます。

 

しかし1616年の春、「家康」は「田中城」(静岡県藤枝市)近辺へ鷹狩りに出かけ、そこで「鯛の天麩羅」を食べすぎて体調を崩したと良く言われていますが、実際は「胃がん」が進行していて末期だったようです。

 

そしてその後は「駿府城」内で床について療養していましたが、4月になって体調が悪化し17日に死去しました。

 

「家康」は4月の初めに枕元に「本多正純」「天海」「崇伝」を呼び寄せて伝えたのが「遺体は駿河久能山に納めること」「葬儀は増上寺で行うこと」「位牌は三河大樹寺に立て、一周忌を過ぎたら日光山に小さな堂を建て勧進したら関八州の鎮守とすること」ということでした。そして9月に「東照大権現」の神号を受けました。

 

本日は、「久能山東照宮」に改修された「久能城」(静岡県静岡市駿河区)をお届けします。

 

 

 

「久能城」の位置↓

 

 

”家康”の御廟所”久能山東照宮”に改修された「久能城」(静岡県静岡市駿河区

 

「久能城」の歴史と城主

今川時代には、山寺(久能寺)兼城塞として使用されていましたが、「武田信玄」が駿河侵攻を開始して、1568年にその臣下が入って「久能寺」を移転させました。

 

しかし「武田氏」が滅亡して、臣下の「今福氏」が自刃や戦死によって「徳川家康」のお城となります。そして1616年に「家康」が亡くなって、「家康」の遺言通りに「御廟所」(東照宮)となって、お城としての役割は終えました。

 

縄張り

標高307mの「有度山(日本平)」の山中の一角で、駿河湾に臨む標高210mの支尾根上に立地します。尾根最上部を平坦にして曲輪が配置されていました。

 

現在は、「久能山東照宮」となり、「日本平ロープウエイ」も造られているので、山城時代の遺構はあまり残されていないようです。

 

「東照宮」と「久能寺山城」の縄張図(現地に掲出)↓

「久能山東照宮全景」↓

 

本丸

「本丸」跡は、現在「久能山東照宮」の国宝「社殿」になっていて、煌びやかな彫刻を施した「拝殿」「社殿」等が建ち並びます。「社殿」は国宝指定されていて、権現造りで総漆塗、極彩色が施されています。幕府大工棟梁の「中井正清」の代表作です。

 

「社殿」の「唐門」と「袖壁」↓

国宝「社殿唐門」↓

「唐門」の彫刻↓

権現造りで総漆塗、極彩色が施された国宝「社殿」↓

「社殿本殿」の壁画(国宝)↓

国宝「拝殿」の彫刻↓

「社殿」全景(手前が、「神廟」があるエリア)↓

 

社殿奥と「愛宕郭」の間に、「家康のお墓(神廟)」が西向きに立てられ、高さ5.5m、外廻り8.0mという大きなモノとなっています。その周囲を囲む石垣は「切込接・布積み」で綺麗な囲みをしています。

 

「家康のお墓(神廟)」(奥の山部分が「愛宕郭」)↓

「家康のお墓(神廟)」↓

「神廟」と石造り(切込接・布積み)↓

「廟所」の石垣(切込接・布積み)↓

 

「本丸」跡の入口付近には非常に立派な重文「楼門」が建ち、こちらの彫刻も細部にまで拘ったものになっています。

 

重文「楼門」(ここより奥が「本丸」跡)↓

「鼓楼」と「神楽殿」(いずれも重文)↓

「神厩」(家康の墓へ毎日お参りした愛馬を名工「左甚五郎」が彫刻、目はギヤマン使用)↓

 

二の丸

「日本平ロープウエイ」の乗り場周辺が「二の丸」跡です。石垣が見られますが、積み方が「切込接・布積み」ですので、徳川時代になって「東照宮」が建造された頃に積まれたものと思われます。

 

「日本平ロープウエイ」の乗り場付近の石垣↓

 

また、「社務所」や「博物館」がある辺りには、元々あったと思われる「井戸」があり、「葵紋」付きの「井戸」ともう片方は「勘介井戸」と呼ばれています。

 

「勘介井戸」↓

「葵紋」付きの「井戸」↓

 

大手門

「久能城」の「大手門」跡には、現在が建っています。こちらは、1617年に櫓門形式で建てられていましたが1884年の強風によって大きなダメージを受け、二階部分を取って改修した門です。「本丸」内の「社殿」等に比べると、「素木造り」の質素な門になっています。

 

「隠し郭」跡から「二の丸」跡への石段↓

「久能山東照宮」の「一の門」↓

「久能山東照宮」の「一の門」↓

「一の門」脇の石垣↓

 

またこの内側には、「門衛所」が置かれて、出入りの管理が厳しくされていました。

 

「門衛所」↓

 

「一の門」からの眺めは素晴らしく「太平洋」を望むことができるぐらいの高台となっていて、下から1159段の石段を登らないと「一の門」にはたどり着けなかったのですが、現在は裏側からの「日本平ロープウエイ」で簡単に詣でることができます。

 

「一の門」から望む「太平洋」↓

 

 

 

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