大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。
<「家康」等の出来事>
今まで見てきたように、次々と「豊臣大坂城」を包囲する城づくりとともに、豊臣方から攻められることも想定した防備の為のお城づくりも進み、その最大の防御となる城郭「名古屋城」は1612年に完成させました。
このような趨勢の中で、1607~1613年にかけては、豊臣恩顧の大名(結城秀康、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政など)が次々と亡くなり、「豊臣家」が孤立化を深めていきます。
しかし「秀頼」が関白に任官されるという風説が流れるとともに、「豊臣家」が「大坂城」に多くの浪人を抱え始めたているとの噂も流れてきたために、「徳川家」は警戒を深めました。
北陸の120万石の「前田家」の抑えとしてその手前に「福井城」を完成させていましたが、「前田家」の背後からの睨みを効かすべく築城を急いでいた「高田城」が1614年には、完成します。
本日は、その「高田城」(新潟県上越市)をお届けしたいと思います。
「高田城」の位置↓
『天下普請で築城された土のお城「高田城」(新潟県上越市)』
このお城は、1614年に対「豊臣秀頼」との一戦に備えた「天下普請」で築城され、しかも「徳川家康」の六男「忠輝」が入るお城だったからでしょうか、縄張りは、「忠輝」の岳父(正室は「五郎八姫」)であった「伊達政宗」が執り行ったと言われています。
この「忠輝」は、「家康」が産まれた時の醜態を嫌ったので「捨てよ」と命じて小大名の「皆川広照」に飼育されますが、その後「佐倉」「信濃川中島」と少しずつ加増されて「越後福島」60万石に、その時に旧領「川中島」と併せて72万石の大大名となっていました。
しかし「大坂夏の陣」では戦への遅参で1616年に所領没収されます。その後、「高田城」は、「酒井家次」、忠輝の甥「松平忠昌」、忠昌の甥「松平光長」が入りますが、重臣達の後継者を巡る「お家騒動(越後騒動)」で取り潰しにより一時「天領」化されます。
1685年に「稲葉家」が入りますが、「忠輝」「光長」の不祥事の後は、高田藩への所領替えは「懲罰的な意味合いを」持った左遷先のお城となっていました。
「稲葉正往(ただみち)」は京都所司代の罷免後
「戸田忠真」は赤穂事件の「浅野長矩」に替わって御馳走役の代役後
「松平定重」は5代将軍「綱吉」の不興を買った後
「榊原政永(まさなが)」は先代藩主が8代将軍「吉宗」の倹約令に反した後(1741年)
※八代藩主「政岑(まさみね)」の時に、「徳川吉宗」の倹約令を守らず派手に頻繁な吉原通い
「榊原家」は、「徳川四天王」の一人「榊原康政」の子孫でもあったこともあり、その後は、「榊原家」が定着して幕末・維新まで統治します。
しかしながら、「関ケ原の合戦」の際には、「家康」の息子「秀忠」に着いて中山道を上りましたが、途中「真田勢」の「上田城」攻略に手間取り、関ケ原に遅参したことで、加増はされませんでした。しかしこの時は、「秀忠」を庇(かば)ったということです。
「康政」死後は家名存続が危ぶまれることもありましたが、孫「忠次」が継ぎ「白河城」に転封となりました。その後子孫は、「白河城」から「姫路城」へ、更に「村上城」への国替えがあり、八代藩主「政岑(まさみね)」の時には、派手に頻繁な吉原通いという先程の不祥事で「高田城」へ移封をさせられました。
色々な大名の左遷先としては、非常に広く立派な城でした。というのも、元々は「天下普請」で建てられたお城で、「土塁」と広大な「水堀」に囲まれた近世城郭でした。
縄張り図↓
「外堀」の幅は広い所で100mもあり、「本丸」を囲う「内堀」の幅は40~50m、そして「土塁」の高さは10mもあり「本丸」を囲う土塁の総延長は1㎞もあり、途中の塁線には「横矢掛り」の折れが見られます。
「本丸」周囲を「二の丸」「北の丸」で囲み、北側と南側に「三の丸」を配置した変則輪郭式平城です。「三の丸」北側は「狐丸」、南側に「陽戦曲輪」が置かれました。更に「三の丸」南側から「瓢箪曲輪」が張出していました。
「本丸」から「二の丸」へは「北・東・南側」に虎口が設けられ、特に南(大手)と東(搦手)は桝形構造になっていました。
「本丸」の南西隅に、天守代用の「御三階櫓」が築かれ、「本丸大手」の南側には「本城御門」の櫓門が置かれました。
天守代用となっていた「西櫓」は1655年の地震で倒壊しましたが、「松平光長」によって三重三階櫓として再建され、それが1870年に焼失するまで残っていました。
1993年(平成5年)に、「高田城内絵図」「高田城間尺図」に描かれていた絵図を参考にして三重三階の西櫓が再建されました。
絵図によると、外観は意匠に凝った建物であったようです。
まず、屋根は瓦葺の入母屋屋根で棟には鯱が付き、初重と三重目には中央が突き出た「切妻破風屋根」が付いていました。
壁は漆喰塗りで、柱が見える「真壁造り」、一重目のみが「下見板張り」になっています。
復興「御三階」(漆喰塗り、真壁造り、下見板張り)↓
また「格子窓」「鉄砲狭間」は初重と三重目にありました。
復興「御三階」(鉄砲狭間)↓
そして「土塁」上に直接櫓が建っている特徴的な姿になっています。
土塁に建つ復興「三重櫓」↓
復興「三階櫓」の天井は張られず小屋組みになっています。
復興「三階櫓」内部↓
復興「三階櫓」内部天井は「小屋組み」↓
<本丸>
当時「本丸」には、天守代用の「三階櫓」の他に「本丸御殿」が築かれていて、「本丸」跡への出入口は3箇所ありました。
「本丸」跡(現 上越大付属中学校敷地)↓
一番のメインは南側にある「内堀(本城堀)」に架かる「極楽橋」を渡った所にある「本城御門」で、正面に高麗門形式の「蹴出(けだし)門」と右に折れて城内に入る「渡櫓門」、そして「蹴出門」両脇には「多門櫓」を築いていた「土塁」と奥は土塀を支える「土塁」で構成されていました。そして桝形内には「番所」が置かれていました。
現在は、多門櫓の「土塁」が残っています。
「極楽門」を渡った所の「蹴出門」跡と桝形跡↓
「蹴出門」の模型↓
「渡櫓門」の模型↓
「西多門櫓土塁」(本城御門の桝形を形作る)↓
「本城御門」桝形を形成する「土塁」↓
「本城御門」の他には、東側に「東不明門」と北側に「北不明門」が共に枡形を持つ門でした。現在は、「上越教育大学付属中学校」の学生たちの通学通路となっています。
「東不明門」跡↓
「北不明門」跡↓
<二の丸・北の丸>
「本丸」の廻りには「内堀(本城堀)」が掘られ、その周囲の北側には「北の丸」を置き、東・西・南には「二の丸」を設えました。「二の丸」の現在は、「上越総合技術高校」や「上越市立総合博物館」「小林古径邸」の敷地になっています。
本城堀と極楽橋(本丸の南側)↓
本城堀(本丸の東側)↓
本城掘(三重櫓の西側)↓
本城堀(本丸の土塁と濠)↓
本城掘(本丸北側)↓
「二の丸」「北の丸」は細い曲輪になっていて、その周囲には「外堀」が構えています。特に「北の丸」の北側は「北堀」、「二の丸」の西側、「三の丸」の西側から「大手橋」にかけては「西堀」と呼び広大な「外堀」が掘られ、100mにも及ぶ広い幅の所もあります。
「北の丸」跡から「北外」↓
<三の丸、陽線曲輪、瓢箪曲輪>
「三の丸」は主に南側に貼りつき、「陽戦(ようせん)曲輪」が置かれ、更にその先南西にかけて「瓢箪(ひょうたん)曲輪」が張り出して特異な形をしています。
三の丸陽戦曲輪跡(現陸上競技場南側)↓
瓢箪曲輪(現市営野球場)↓
三の丸(東側)↓
それらを取巻く「大手堀」や「南堀」は、非常に広い「堀」を設けていて、夏になると、「蓮まつり」が実施されるくらいに、外堀一面に「蓮」の葉っぱと花が満開となり、素晴らしい風景となります。
外堀(西堀)の蓮、遠くに蓮見橋(大手橋)↓
外堀(大手堀)に架かる「はす見橋」↓
外堀(南堀)最南西↓
外堀(南掘)の南端から西を臨む↓
「大手門」は、「三の丸」南西隅に造られ、その前には「大手橋」が架けられて、外郭と行き来をしています。
現在の大手橋↓
l 城下
お城の西側には「JR信越本線高田駅」がありますが、駅や駅前には「城郭建築」が建ち並び、駅裏にある「寺町通り」とも一体となった城下町造りを、街全体で盛り上げているものを感じ取ることができます。
高田寺町界隈図 ↓
「高田」は、昔から大雪で有名な所で、雪を回避する手段としての「雁木」を町のあちらこちらで見ることができます。特に、「北国街道」沿いの「雁木」は非常に頑丈に造られているように見えました。城内側に石段で造る「雁木」とは全く違うものです。
北国街道沿いの雁木↓
北国街道沿いの雁木↓
大町通り沿いの雁↓
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