大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

前回の「津城」に引続き、「家康」は城郭づくりに手腕を発揮していた「藤堂高虎」に、「伊賀上野城」の強化を命じて修築をさせました。

 

 

「伊賀上野城」の位置↓

 

「伊賀上野城」の歴史と城主

1585年に、「豊臣秀長」の臣下であった「筒井定次」が築城します。

  

1608年に「藤堂高虎」が、「徳川家康」から「伊賀国」と「伊勢津」に22万石が与えられます。当時「大坂城」に居住していた「豊臣秀頼」などの西方に対する備えもあって、1611年に「伊賀上野城」の拡張工事を開始します。

 

しかし1612年の台風によって、建設中の五重「天守」が倒壊してしまいます。更には、1615年の「大坂夏の陣」によって「豊臣家」が滅亡し、「一国一城の令」もあって敢えて「天守」を再建をする必要性もなくなり「天守台」だけが残されました。

 

「藤堂高虎」は、転封に伴い「伊賀上野城」に「今治城」で建てた「層塔型無破風の天守」を移築する予定でしたが、「家康」から「丹波亀山城」を築城する命を受けたので「今治城天守」をそこへ移築したそうです。このことからも、「伊賀上野城」も「層塔型無破風の天守」を建築しようとしていたのではないかと想定されています。

 

縄張り

高石垣になった「本丸」と「御城」を北の端に置いてその周囲を「内堀」で囲みます。「内堀」内の西側は「本丸」、東側は「御城」と呼ばれた「城代屋敷」になっていました。そこは、元々「筒井家」が築いた「筒井古城」の跡地でした。

 

そして東側から南側、西側にかけて「二の丸」が囲い、更にその周囲(東から南、西にかけて)を大きく取囲む、「梯郭式縄張り」になっています。

 

縄張りと城内建造物解説(天守に掲出)↓

 

本丸

「本丸表門」跡には櫓台でしょうか石垣積みがあり、その両脇には「本丸」の石垣が構えているのを見ることが出来ます。

 

「本丸表門」跡↓

「本丸表門」跡から「白鳳門」方向↓

「本丸」跡石垣の南面↓

「本丸」跡石垣

 

「本丸」跡の西側には、「内堀」からそそり立っている「藤堂高虎」得意の直線的な「高石垣」と「横矢掛り」を見ることができます。この「高石垣」は、西方面の先には「豊臣秀頼」が在城していた「大坂城」があり、それを意識しての備えです。

 

石垣は「打込接・乱積み」ですが、直線の隅石の完全な「算木積み」を見て、「高虎」の築城技術の精度の高さが窺えます。

 

「本丸」西側の周囲には大きな形の不揃いな「天端石」が並べられていますが、それ越しに「内堀」と高さ30mの「高石垣」を覗くと吸い込まれそうになる程の高さです。

 

「高石垣」上の「天端石」↓

30mもの高さが有る「高石垣」↓

横矢が掛る「高石垣」(南方向)↓

「高石垣」(北方向)↓

「内堀」越しの30mもある「高石垣」(南西方向から)↓

「内堀」越しの「高石垣」(西側から)↓

「内堀」越しの「高石垣」(北東側から)↓

 

「本丸」跡は広くて、「筒井定次」が築いたお城部分から西へ「藤堂高虎」が増築したエリアになります。

 

天守・小天守

1935年(昭和10年)に、上野出身の政治家「川崎克」氏が私財を投じて木造で建てた模擬天守ですが、木造建築としては「郡上八幡城」に次いで古い「天守」となります。

 

元々五重「天守」を建てる為に築造した「天守台」に、模擬の三重三階「大天守」を建てていますので、周囲に敷地が余っていて周囲を土塀で囲っています。

 

模擬「大天守」と「小天守」↓

桜とコラボの「天守群」(南東側から)↓

桜とコラボの「天守群」(南西側から)↓

五重天守を建てる予定だった「天守台」の周囲は「土塀」で囲っています↓

 

そして模擬「天守」は、観光目的もあって、「唐破風」を始め「千鳥破風」「切妻出窓」等多くの装飾物が施されたモノになっていて、「高虎」らしさ(「今治城」で開発した「無破風層塔型天守」)の「天守」にはなっていないのが残念です。

 

沢山の「破風」に飾りつくされた「大天守」↓

 

「天守群」へ入館するには「天守台」の石段を上がり1階に辿り着きます。

 

「小天守」台脇の石段を上がる↓

 

木造ということで、内部の木々の温もりや木目の優しさが我々の気持ちをホッとさせてくれます。展示品が色々飾られていますが、1階と2階が吹き抜けになっているので解放感があります。また、上下移動する階段は3階まで2本あります。

 

「大天守1階」武者走り↓

「大天守」内に展示されている「藤堂高虎」像↓

「大天守」の1階・2階吹き抜け部分(左の柱には伊賀忍者がへばり付いている)↓

「大天守」の2階↓

 

3階の天井は1m角の「格天井」となっていて、46枚の格子には「横山大観」「川合玉堂」等の有名日本画家や各界から寄せられた色紙が飾られた「絵天井」になっています。

 

「大天守」3階の格天井↓

格天井内の「横山大観」の「満月」↓

上野市街地↓

「藤堂家」の家紋(蔦)↓

「大天守」と「小天守」の間の門↓

 

「大天守」を降りて「小天守」の中に入ると新しくなった屋形を持つ「井戸」が見られます。これは「忍び井戸」と言われ、籠城用の水の確保の他に、物資の搬入、更には最悪時の逃げ道(抜け穴)として掘られたとのことです。

 

「小天守」内にある「井戸」↓

 

城代屋敷(筒井古城跡)

「筒井定次」の「伊賀上野城(筒井古城)」は、江戸時代に「城代屋敷」となり現在もその跡が残り、「天守」3階から良く見えます。

 

「筒井時代の伊賀上野城」跡で江戸時代の「城代屋敷」跡(左の給水塔の向こうに「天守台」があった)↓

 

「筒井古城」跡を使用した「御城代屋敷」跡への出入口は2箇所あります。「本丸」跡東側に石垣の壁が見られますが、その北側に「台所門(裏門)」跡があり、その石段を上がった所に「大納戸蔵」や「長屋」があり、その南側が「台所棟」になっていたようです。

 

「御城代屋敷」跡(「筒井古城」跡への「台所門(裏門)」↓

「御城代屋敷」跡の「台所門(裏門)」の礎石、奥は「大納戸蔵」跡↓

「御城代屋敷」跡から見る「天守群」↓

 

「御城代屋敷」跡には、「奥向き御殿」と「表向き御殿」があり、それを構成する各部屋の名称が表面表示されているので、どの場所で藩主或いは藩士達がどのような生活や仕事をする場所であったかが良く判るようになっています。

 

「御城代屋敷」の平面図(大天守内に掲出)↓

「御城代屋敷」跡(東方向)↓

「御城代屋敷」跡に残る庭の飛び石、石列↓

「城代役所跡」碑↓

 

「筒井古城」跡でもあるので、「筒井時代」の「天守台」が東北隅に残ります。「御城代屋敷」跡の北側に給水塔のような円柱型のタンクの東側辺りにあり、盛土の上には「筒井天守跡」碑が立っています。

 

「御城代屋敷」跡の東北隅に石段↓

上記石段を上がった右の盛土上に「筒井天守跡」碑↓

 

「御城代屋敷」跡の南西隅には「表門」があり、折れ曲り「虎口」となっている通路沿いの石垣は「野面積み」になっています。

 

「御城代屋敷」跡から下る石段↓

「御城代屋敷」跡の「表門」跡↓

「御城代屋敷」跡の「表門」跡(2回折れ曲る、突き当りを右へ、更に左へ)↓

「野面積み」の石垣↓

 

二の丸

県立「上野高校」の出口手前には、城内で唯一残る城郭建造物である「武具庫」が建っていて、現在は「同窓会館」として再利用されています。

 

城内に唯一残る城郭建造物「武具庫」(「同窓会館」として利用)↓

城内に唯一残る城郭建造物「武具庫」↓

高石垣から見下ろす現存「武具庫」↓

 

「上野西小学校」と「県立上野高校」の間を通る道の入口付近には模擬の「白鳳門」が建っています。高麗門形式ながら高さと横幅のバランスの悪い門で城門の感じはしません。

 

模擬「白鳳門」(正面に「本丸表門」跡がある)↓


 

また西側には「上野高校」のグランドが拡がっていて、そこが「伊賀御屋敷」跡です。

 

「伊賀御屋敷」跡(現在は「上野高校」のグランド、西方向)↓

 

三の丸

「西大手門」「東大手門」の各跡にはそれぞれの跡碑がたっていますが、当時の両大手門は、古写真からも立派で大きな門であったことが分かります。

 

「西大手門」の古写真(大天守内に掲出)↓

「東大手門」の古写真(大天守内に掲出)↓

 

広い道沿いには藩校「旧崇廣堂」の赤門(表門)等の建造物群があります。車の行き来が激しいその広い道路は、旧「外堀」を埋めて通したものです。

 

藩校「旧崇廣堂」↓

藩校「旧崇廣堂」の御成門↓

藩校「旧崇廣堂」の赤門(表門)↓

藩校「旧崇廣堂」の講堂(右側)↓

 

 

 

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