大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

前回のブログでは、「家康」による対「豊臣秀頼」包囲網形成を実行に移していき、どのようなお城が築かれたかを記載しました。

 

「家康」は「関ケ原の戦い」後、「大坂夏の陣」までの間、所謂慶長年間には、重要拠点へ様々のお城の築城と改修を「天下普請」によって行ったり、「家康」の息のかかった外様大名(大名の正室、継室等を迎えたりしている姫路城、岡山城、和歌山城の各城主)には自費で修築させたりしました。

 

また、外様大名ではありましたが、城郭づくりに手腕を発揮していた「藤堂高虎」を、「家康」は「天下普請」で築城する際には彼を重用するとともに、畿内の東の入口である「伊賀・安濃津」に押さえとして転封させて、それぞれの地に築城するように命じました。それが、「伊賀上野城」と「津城」です。

 

今回はその「津城」(三重県津市)をお届けしたいと思います。

 

 

 

「津城」の位置↓

 

 

今や「津城」のシンボル模擬「三重隅櫓」(南面)

 

「津城」の歴史と城主

「織田信長」による伊勢平定の為に、「信長」の弟「信包(のぶかね)」を中伊勢に勢力を伸ばしていた「長野家」の養子として送り込みます。「信包」は津城を築城、1580年には五重天守を持つ立派なお城に完成させると、すぐに「長野家」の分家を攻めて中伊勢を得ます。

 

その後「豊臣政権」時代になると「富田家」が入城し、関ケ原の戦いでは「津城」は西軍に攻められるも奮戦しますが最終的には開城します。

 

戦後は、「富田家」は加増されて当城に戻りますが1608年に「徳川家康」の命を受けた「藤堂高虎」が、「今治」からが入城し、当時「大坂城」に在城していたの「豊臣秀頼」に対するプレッシャーを与えるべく「津城」の改修を行います。その後江戸年間は「藤堂家」の居城として城下も発展します。

 

縄張り

「本丸」、そして「本丸」の馬出し的な「西の丸」「東の丸」を「内堀」が囲い、更に「二の丸」がそれを包囲し、その外周を「外堀」が取り巻く輪郭式縄張りで、13基もの櫓を配備していました。

 

「外堀」の周囲が「三の丸」ですが、「三の丸」から「二の丸」へ入る大きな枡形門が西・北・南に置かれていて「三城門」と呼ばれ、それぞれを「伊賀口門」「京口門」「中島門」と名前が付いていました。

 

「津城」と「城下町」(右側が北、現地の案内図から)↓

「本丸」と「二の丸」(右側が北、現地の案内図から)↓

 

本丸

「本丸」の周囲は、「藤堂高虎」の城郭技術の特徴の一つでもある「多門櫓」で囲われていました。

 

現在、北側は「三重戌亥櫓台」下から「三重丑寅櫓台」方向を内側から眺めるとその長さには驚きです。長さは47間半(約87m)、幅も3間(6m弱)もありますので、非常に北の守りは堅固だったと思います。

 

後述する「天守台」には、「織田信包」時代に五重天守が建っていましたが、その後「天守」が無くなった後は、この二つの「三重櫓」が「天守代用」として機能していました。

 

「三重戌亥櫓台」(「本丸」跡側から)↓

真っすぐに続く「多門櫓」台(「三重丑寅櫓台」方向)↓

「多門櫓」の構造図(現地案内書きより)↓

 

「三重丑寅櫓台」には階段が付いているので上に上がることができますので、先ほどの「多門櫓」の長大さや「内堀」の広さを櫓台上からも実感することができます。

 

「三重丑寅櫓台」に上がる内側の階段↓

北「多門櫓」跡(「戌亥三重櫓」跡方向)↓

「丑寅三重櫓」台から北側の「多門櫓」台跡と「内堀」を見る↓

「戌亥三重櫓」台と「多門櫓」台(北東方向から)↓

「内堀」越しに見る「本丸」跡の「戌亥三重櫓台」と右側は「西の丸」跡北面石垣↓

「天守代用」だった「丑寅三重櫓」台(北側から)↓

 

その「三重丑寅櫓」台上ではなくて、「東の丸」との接続部分にあった「東鉄門」の櫓台上に建つのが、模擬の「三重隅櫓」です。

 

「東鉄門」跡から見上げる「模擬隅櫓」南面↓

「丑寅三重櫓」台から見る「模擬隅櫓」北面↓

 

当時の「東鉄門」は内門では櫓門仕様、「東黒門」は外門で高麗門仕様によって枡形を形成し「東の丸」に繋がっていました。また、南側には「太鼓櫓」を備えていました。

 

「東鉄門枡形」について↓

「丑寅三重櫓」台と「東黒門」跡の上に建つ模擬「三重隅櫓」↓

 

模擬「三重隅櫓」ですが、1958年に建築された櫓で、古写真で見る「丑寅・戌亥両三重櫓」が無破風に対して、初重東西に「千鳥破風」南北には「唐破風」、二重目南北には「千鳥破風」を付けて当時の観光用としての見栄えの良さを追求しています。

 

古写真で見る「丑寅三重櫓(手前)」と「戌亥三重櫓(奥)」(現地の案内書きより)↓

 

しかし今となっては、既に80年余りの歳月を経て建ち続け、しかも津市民のシンボルにもなっていますのでその存在は大きなモノと思います。

 

模擬「三重隅櫓」(初重東面に「千鳥破風」北面に「軒唐破風」、二重目北面に「千鳥破風」が見える)↓

模擬「三重隅櫓」(東面)↓

 

そして「東黒門」跡沿い石垣先の南東隅には大きく立派な「月見櫓」台が残ります。

 

「月見櫓」台(南東方向から)↓

「月見櫓」台(「本丸」跡側から)↓

 

この南側には「お城児童公園」がありますが、それ沿いの南側石垣には、斜めの線が目にできます。これは、「高虎」による城郭の改修前の南東隅の隅石で、東側に積み増した痕跡とのことです。

 

「高虎」による城郭の改修前の南東隅の隅石で、東側に積み増した痕跡↓

 

この石垣沿いに西側に進むと石垣の切れ目となった「埋門」があります。これは「織田・富田」時代に南の堀中にあった「局丸」に通じる門でしたが、江戸時代初期に非常口として改造され「犬走り」に通じる門になったそうです。

 

「埋門」跡(「内堀」跡側から)↓

「埋門」跡(「本丸」跡側から)↓

 

ここから再度「本丸」跡に入りますと、「本丸」跡は広く、中央が噴水になりその南側には馬上に跨り頭には「唐冠形兜」を着けた勇猛な「藤堂高虎」像が立っています。

 

「本丸」跡(南西方向)↓

「藤堂高虎」像↓

 

「織田信包」時代の「天守台」

「本丸」跡の南側には、非常に大きい「天守台」「付櫓台」があります。「織田信包」によって五重の「天守」が建てられましたが、前述したように「関ヶ原の合戦」によってダメージを受けました。その後は再建せず、寛文時代には北側から東側にかけて積みなおしをしているので「打込接」ですが他の面はゴツゴツ感のある「野面積み」になっています。

 

「算木積み」で「打込接」の「天守台」(東面と北面)↓

「野面積み」の石垣の天守台(西寄りの北面)↓

「野面積み」の石垣の天守台(西面)↓

「野面積み」の石垣の天守台(南西隅、奥には「付櫓台」が覗く)↓


東の丸

摸擬「三重隅櫓」が建つ東側一帯が「東の丸」跡ですが、「内堀」は埋められ、現在は広場と住居地域となっています。

 

「馬出し的」な「東の丸」跡周辺↓

 

西の丸

「本丸」を中心とした縄張りは、西側に「西の丸」が「本丸」から繋がって「馬出し」的な役割を担っています。そして、南側に「西の丸二階門」で「二の丸」から「本丸」へと出入りができる唯一の門で、その脇には「二階櫓」も建っていました。「西の丸二階門」跡は、枡形で右折れ状態と、入口と東側にかけて石垣が残ります。

 

「西の丸二階門」と「二階櫓」の石垣(南側から)↓

「西の丸二階門」と「二階櫓」の石垣(「西の丸」跡内側から)↓

 

入って直ぐ目につくのが非常に鮮やかな色彩の「入徳門」です。これは、当時「二の丸」の東側に置かれていた藩校「有造館」の門を移築したものです。藩校「有造館」跡は、現在その跡碑とともに当時の敷地絵図と解説が掲出されています。

 

移築現存の藩校「有造館」の「入徳門」↓

 

「西の丸」跡は緑豊かで手が入れられている庭園となっています。その北東付近からは「打込接石垣」の「本丸戌亥櫓」台が目の当たりにできます。

 

「西の丸」跡内の庭園↓

本丸の「戌亥三重櫓台」(「西の丸」跡から)↓

 

「西の丸」跡を堀越しに見ると南面「玉櫓」跡の櫓台と北面の石垣、そして「高虎」の築城技術では欠かせない「石垣」下の「犬走り」を目にすることができます。

 

「西の丸」跡の「玉櫓」台(北西方向から)、石垣と「内堀」の間には「犬走り」が見られる↓

 

当時、「西の丸」から「本丸」に入る場合、「西の丸」側の「桜門」から両側に土壁を伴う「土橋」を渡り、「本丸」側の外門である「西黒門」を抜けて左折れし更に「西鉄門」を抜けるルートだったようで、門の南側には監視目的の「伊賀櫓」が建っていました。

 

現在は、「土橋」南側の「内堀」は埋められて公園となり、「西鉄門」跡の櫓台が見られます。

 

「西鉄門虎口」について↓

「西鉄門」跡↓

西鉄門」跡から見る「本丸」跡(東方向)↓

 

現在は、「西の丸」跡南側の幅があった「南堀」は一部を残して全て埋められ「高山(こうざん)神社」「津合同庁舎」「お城児童公園」となっています。

 

「西の丸」跡南側に一部残る「内堀」、石垣内に古くからの城壁と積み増しされた境界が見える↓

「内堀」跡に建つ「高山(こうざん)神社」(1877年に「藤堂高虎」を祭神として建立され、1901年に「津城」跡に移る)↓

「内堀跡」南東側に拡がる「お城児童公園」↓

 

二の丸

西側の「伊賀口門」跡は、市職員用の駐車場辺りのようでしたが、何の遺構も表示も見つけることができません。「二の丸」跡西側に広がる緑豊かな「お城西公園」内は、廃城後「三重県師範学校」の敷地だったそうです。

 

「伊賀口門」跡付近↓

「お城西公園」(西方向)↓

「二の丸」東側にある藩校「有造館」跡碑(「西の丸」跡に移築された「入徳門」が建っていた)↓

藩校「有造館」の敷地絵図(現地の説明書きより)↓


東側の「外堀」跡の道路や商業施設などを見ながら更に東に向かって進むと「藤堂家墓地」があります。近くまで来ると目を見張るほどの大きな五輪塔がズラリと並ぶ光景には度肝を抜くくらいです。

 

「藤堂家墓地」について↓

「藤堂家墓地」(道側からのぞむ)↓

 

「高虎」の院号を採った「寒松院」というお堂を中心に、西側の敷地には、「高虎」を中心とした「津藩本家」の藩主の墓が15基、北側の敷地には支藩である「久居藩」初代藩主「高通」を始め11基、合計26基の五輪塔と、その家族の墓が立ち並びます。

 

「藤堂高虎」の墓碑五輪塔↓

ずらりと並ぶ「藤堂家本家藩主」の墓碑五輪塔↓

「藤堂家墓地」内の藩主やその家族の墓碑↓

 

「藤堂家」の「墓所」まで紹介しましたが、「家康」にとって外様大名ながらも最も信頼できる「藤堂高虎」に「安濃津」を任せることによって、「徳川家」の領域である「東海」から「江戸」及び「関八州」への守りを固める布石としたのだと思われます。

 

 

 

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