昨日から「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」を再開しています。引続き「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方、ブログをご覧いただきますようよろしくお願いいたします。

 

「家康」等の出来事

「家康」による対「豊臣秀頼」包囲網形成を実行に移していった経緯

「家康」は「関ケ原の戦い」後、「大坂夏の陣」までの間、所謂慶長年間には、重要拠点へ様々のお城の築城と改修を「天下普請」によって行ったり、外様大名には自費で修築させたりしました。

 

まず手掛けたのは重要拠点への築城です。琵琶湖を抑える「膳所城」、北陸道や東海道・中山道の東側からの攻撃を防御する為の「加納城」「彦根城」を天下普請で築城しました。

 

一方西方面からの守りの備えとして、外様大名ですが「家康」の息がかかり継室として「家康」の娘「督姫」を娶っていた「池田輝政」に、関ケ原の合戦後に「秀吉」が建てた「姫路城」を大改築させて現在の形の大城郭「姫路城」を築かせています。

 

更に「岡山」には豊臣家との繋がりが深かったけれども、「関ケ原の合戦」で徳川方に寝返った「小早川秀秋」を配置して「岡山城」を築かせています。しかしこれらは、「池田輝政」「小早川秀秋」に自費で建てさせています。

 

また、南方面には、「浅野幸長(よしなが)」が「和歌山城」を築いていますが、彼の二人の娘は「徳川義直」の正室や、「松平忠昌」の正室になっていて「徳川家」との関係を深めています。勿論ここも「浅野家」が修築費の負担をしています。

 

また、北陸の当時120万石の豊臣恩顧の大大名「前田家」の抑えとして、前回紹介した「福井城」に加えて、「前田家」の後方からも睨みを利かすために「高田城」を1614年に築かせ、「家康」の六男の「徳川忠輝」を入城させます。

 

このような築城、修築が進む中、「家康」は前々から「豊臣家」に対して将軍家である「徳川家」と面会するように申し入れをしていましたが、やっと1611年に「豊臣秀頼」との会見が「二条城」で実現しました。これによって「徳川家」が「豊臣家」よりも優位だということを世の中に示すことができました。

 

またこの会見で、「家康」は「秀頼」が武将として逞しく成長してきているのを見て、早急に「豊臣家」を滅亡させようとする意欲が湧いてきたと謂れています。

 

これによって、「大坂城」包囲網を確実に進めることに注力し、前回紹介した「篠山城」や今回紹介する「丹波亀山城」を築いて、城主に家康の一族「松平康重」や譜代の「岡部長盛」を置きました。

 

更に大坂に近い東海道の東沿いには「伊賀上野城」「津城」も包囲網の一環として築城名手の「藤堂高虎」に担当させています。

 

またこの時期(1610年)には、「名古屋城」の建築を開始して1612年に完成させています。こちらは、「徳川家」の本拠地である東海から江戸にかけての防衛、ここで抑えるという強い意志を持った巨城の築城でした。

 

このように「大坂」を中心に東西南北をガッチリと固めて、「豊臣家」との戦いに備える城郭配置を進めたのでした。

 

 

『“豊臣方”攻防に備えて天下普請で修築された「丹波亀山城京都府亀岡市)」』

 

亀山城の歴史と城主(藩主)>

「亀山城」は、「織田信長」が中国地方攻めに併せて丹波攻略をする為に、1578年「明智光秀」に築城させたのが最初です。本能寺の変で「信長」が打たれた後は、「豊臣秀吉」の配下の一門や五代奉行になった「前田玄以」が入城しました。

 

関ケ原の合戦時は、「前田玄以」が西軍でしたが東軍に西軍情報を流していたことから、「徳川家康」からは「丹波」の領地を安堵されます。

 

その後、「大坂城」に居城していた「豊臣秀頼」を北から包囲・監視する目的もあって、天下普請で「藤堂高虎」が縄張りを行い、彼の前任地である「今治城」から転勤先の「伊賀上野城」へ層塔型で破風なしの「天守」を移築する予定を、急遽「徳川家康」に献上する為に「亀山城」に持ってきた経緯があります。その天守は、明治時代初めに撮られた写真で見ることができます。

 

「高虎」によって近世城郭化された当城には、譜代大名の「岡部家」が入城します。

 

その後は、「大給松平家」「菅沼家」「藤井松平家」「久世家」「井上家」「青山家」と短期間の間に入れ替わり立ち替わり城主が替わり、1749年に「形原松平家」が入ってようやく城主が定着しました。しかしながら、5万石の内の約4割しか亀岡藩領がなかったので、領国運営が難しかったようです。

 

縄張り>

「縄張り」は、「本丸」が高石垣で守られ、更に「藤堂高虎」好みの周囲を「多聞櫓」で取り巻く手法で、本丸の「北」から「西」、「南」にかけて配備しました。更に「本丸」は上段と下段に別れていて、上段には「天守」を始め「本丸御殿」の「大書院」「広間」や「奥御殿」が敷地一杯に建てられ、周囲に「月見櫓」や「杉櫓」等が置かれました。 

 

縄張り図↓

 

「本丸下段」は、「台所」や「台所門」「乾櫓」、東側には「二の丸」との出入りできる「一の門」を枡形で構えていました。

 

「二の丸」は、東側から南側、西側にかけて置かれ、東側の「二の丸」は直線部分がない不整形な累線を持つ曲輪で、「明智光秀」が創建した縄張り部分と言われていて「明智門」と呼ばれる門がありました。

 

南側の「二の丸」は、「極楽橋」で「内堀」を渡り「三の丸」に続き、更に「三の丸」の出入口として「二の門」を構えていました。そして、「本丸」「二の丸」の北側は「外堀」で守られ、「三の丸」の南側は「総構」が設けられていました。

 

天守と天守台

まず「天守」についてですが、城主と歴史の所でお話したように、「今治城」から「伊賀上野城」に移築する予定の材料を用いて建てた「五重天守」が聳えました。この「五重天守」はその後各地の「天守」の形状に大きな影響をもたらす最新鋭の無破風(最上階の「軒唐破風」のみ)の層塔型の「天守」でした。「天守」建築においても経費削減が可能となりました。

 

「天守」の古写真(今治城から移築、今治城内で掲出写真)↓

 

幕末維新まで残っていたこの「天守」は壊され、その後1919年に城跡を購入した「大本教」が「天守台」に道場を建てました。

 

しかし、大正年間と昭和初期に、二度にわたる「大本教」を阻害する「大本教事件」があって、当時の政府から徹底的な城郭の破壊がありました。それにより「天守台」の大部分が破壊されましたが、戦後に「大本教」によって積み直しが行われたようです。

 

そして現在では、中心地である「天守台」が「大本教」の聖域になっているので登城はできませんが、その下段の「本丸」エリア跡には、「大本教」の社務所で入城前にお祓いをうければ入ることができます。大河ドラマ「麒麟がくる」の放映期間中は、お金を取って聖域近くまで入ることができました。

 

「天守台」石垣(奥)、本丸石垣(手前)と登り石段↓

「天守台」(大本教の聖地)↓

「天守台」(大本教の聖域になっていて、入城禁止)↓

「本丸」跡(「天守台」上がり口)↓

「天守台」裏側から(大本教の聖域で入場禁止、明智光秀お手植えのイチョウが見える)↓

 

本丸

「天守台」がある「聖域」は「本丸上段」跡で、その「高石垣」は積み直しがされていますが「高虎」好みの復元「高石垣」を見ることができます。

 

「本丸上段」跡の高石垣(積み直しされているとか)南東隅↓

「本丸上段」跡の高石垣(積み直しされているとか)南面

 

現在「大本教万祥殿がある所が「本丸下段」跡です。

 

二の丸

「本丸下段」跡の南側には「内堀」が東西に横たわっていましたが、現在は「大本教万祥殿」の建物の南側に一部残り、後は殆ど埋められて道になっています。

 

「大本教万祥殿」の建物南側に残る「内堀」↓

 

「二の丸」は「本丸」を西から南まで囲い、更に東側に延びます。東側の「二の丸」は、曲線が多く使われる中世的な曲輪なので、「明智光秀」が築いたお城部分ではないかと言われています。

 

東端には、現在「大本教本部正門」として「塀重門形式の黒門」が立ち、その道沿いには松並木が続きます。「東側の二の丸」跡は、北側が「大本花明山(おおもとかめやま)植物園」、南側が駐車場になっていますがその出入り口に「明智門」跡の石垣が残ります。

 

「大本教本部正門」↓

城内「明智門」跡付近(現大本本部に向う道)↓

「明智門」跡(現駐車場出入口)↓

 

「二の丸」の入口は、東側には「外堀」から春日坂を上る所に「保津門」跡があり、その門を監視する「千貫櫓」跡の石垣を見ることができます。

 

「千貫櫓」跡の石垣↓

 

一方、「西側の二の丸」(西の丸)の出入口は「赤津門」跡で、その北側にある堀は「外堀」の延長となっていて「薬研堀」形式となっています。

 

「赤津門」跡付近(本丸西側)↓

「薬研堀」跡(「赤津門」付近から下)↓

 

北側にあった幅広の「外堀」はそのまま残り、名前が「南郷池」と呼ばれています。南側の「外堀」は埋められて溝となって残ったり、「古世親水公園」の流水に使用されています。その公園は、上級武士居住の二の丸・西の丸跡と中級武士居住の城下エリア跡との境界にもなっています。

 

「南郷池」(外堀)↓

「外堀」(南郷池、左端の林は中嶋で「硝煙蔵」があった)↓

南側の「外堀」跡(現 古世親水公園)↓

 

三の丸

「御館」跡は、現在「亀岡中学校」と「亀岡高校」の敷地になっていて、「大手門」跡はその南側で遺構はありませんが、そこには「形原神社」が建ちます。

 

「大手門」跡付近(道が曲がっているのは枡形の跡、右に「形原神社)

「形原神社」(「大手門」跡に建つ)

 

「三の丸」と「総構」の間には、多くの町家や蔵、酒造が建ち並びます。町家の建物の前には「犬矢来」や「格子戸」が立てかけられ、屋敷の二階部分には、白漆喰で「虫籠窓」があちらこちらで残り、凄く江戸時代の風情が残る街並みになっていて訪ね歩くことに興味をそそられます。

 

町家(二階の屋根が面白い)↓

町家の「格子」↓

町屋(虫籠窓)↓

町屋(格子戸)↓

町屋の「犬矢来」↓

「丹山酒造」(蔵元の町屋、妻入町屋で海鼠壁が美しい)↓

 

城門の移築再利用

以上の総構え内の他にも、「亀山城」の城郭建造物が、多数移築して再利用されています。

 

特に、「千代川小学校」に移築されている「新御殿門-脇戸付長屋門」や、「延福寺本坊表門」(亀岡市本梅町西加舎的場)」と「桂林寺山門」(亀岡市本梅町平松)にも「城門」が移築されています。また、個人宅や商店にも「城門」と伝わる建造物を多く見ることができます。

 

「新御殿門」(現在は「千代川小学校」、脇戸付長屋門)↓

「新御殿門」(現在は「千代川小学校」、総欅造り)↓

「城門」(現在は「延福寺本坊表門」)↓

「城門」(現在は「桂林寺山門」)↓

 

殆ど破壊されていた「亀山城」でしたが、大本教敷地の神域化によって、多くのエリアで城郭だったことが解るように復元されるとともに、昔の名残を多く残す街並みや、城郭建造物の移築物を観察することができますので、お城の中心部だけでなく、周辺エリアにも足を延したい城下町になっています。

 

 

 

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